第7回 オープンワールドだからこそ、先生・先輩・師匠が必要になる

前回は、勝手に揃ったあと、修行はオープンワールドになるのではないか、という話を書きました。

形を合わせる。

型に入る。

身体の条件が合って、勝手に揃う。

でも、そこがゴールではない。

むしろ、そこから威力、自在さ、相手との関係、変化、応用を含んだ修行が始まるのではないか。

前回は、そこまでを書きました。

今回は、その続きとして、先生・先輩・師匠の存在について考えてみます。

ここで書きたいのは、単に「先生は大事です」という話ではありません。

先生や先輩は、形を採点するためだけの存在ではない。

形から型へ移る時にも必要であり、さらにオープンワールドに入った後にも必要になる。

今の自分には、そう見えています。

形を覚える段階でも、先生や先輩は必要である

まず、形を覚える段階でも、先生や先輩は必要です。

手はここ。
足はここ。
胸はこう。
あごはこう。
目線はここ。
指先はこう。

最初は、自分では何が違うのか分かりません。

自分では合っているつもりでも、足の位置が違う。

自分では胸を張っているつもりでも、腰が反っている。

自分ではあごを引いているつもりでも、首だけで固めている。

自分では手を合わせているつもりでも、肩に力が入っている。

だから、外から見てもらう必要があります。

最初の段階では、外から見える形を直してもらうことが必要です。

これは、形の採点というより、稽古の入口を作ってもらうことに近い気がします。

もし誰にも直されなければ、自分の癖をそのまま型だと思ってしまうかもしれません。

だから、形を覚える段階で先生や先輩が必要なのは、かなり分かりやすい話です。

ただ、先生や先輩の役割は形の採点だけではない

ただし、先生や先輩の役割を、形の採点だけにしてしまうと浅くなる気がしています。

手の位置が合っているか。

足の位置が合っているか。

姿勢が崩れていないか。

目線が正しいか。

角度が合っているか。

もちろん、これは大事です。

でも、それだけなら、先生や先輩は外形のチェック係になってしまいます。

今の自分が考えたいのは、そこから先です。

形が合って見える。

でも、内側で起きていることは違うかもしれない。

筋肉で無理に作っているだけかもしれない。

部位ごとに固めているだけかもしれない。

自分の得意な癖に戻っているだけかもしれない。

本人は「嵌まった」と思っていても、実は違うかもしれない。

そういうところは、自分一人では見えにくい。

だから、先生や先輩の存在は、形を覚えた後の段階で、さらに重要になる気がしています。

形から型へ移る時、自分の感覚だけでは危うい

形から型へ移る段階では、外から見える形だけでなく、内側の使い方を探るようになります。

手をそこに置くのではなく、手がそこに来る。

足をそこに置くのではなく、そこにしか出ない。

胸を張るのではなく、胸がそこにある。

あごを引くのではなく、あごが収まる。

そういう感覚を探し始めます。

ただ、この段階はかなり危ういと思っています。

なぜなら、自分の感覚だけを基準にしやすくなるからです。

今日は楽にできた。

今日は気持ちよく決まった。

今日は嵌まった気がする。

そう感じることがあります。

でも、その感覚が本当に型の方向へ向かっているのかは分かりません。

ただ力を抜きすぎているだけかもしれない。

ただ自分の癖に戻っているだけかもしれない。

ただ気分よく動けただけかもしれない。

外から見れば崩れているのに、自分では整ったつもりになっているかもしれない。

だから、形から型へ移る段階では、自分の感覚だけでは危うい。

ここで、先生や先輩の目が必要になるのだと思います。

内部操作のズレは、自分では見えにくい

外形のズレは、まだ分かりやすい方だと思います。

手の高さが違う。

足の位置が違う。

姿勢が崩れている。

こういうものは、鏡で見れば分かることもあります。

でも、内部操作のズレは、自分では見えにくい。

たとえば、あごは引けているように見える。

でも、首だけで引いているのか、背中や頭の位置との関係で収まっているのかは、かなり違う。

胸は張れているように見える。

でも、胸だけで張って腰が反っているのか、身体全体の関係の中で胸が潰れずにあるのかは違う。

手は正しい位置にあるように見える。

でも、手先だけで合わせているのか、肩、肘、手首、指先の関係が合ってそこに来ているのかは違う。

足も同じです。

位置としては合っている。

でも、前後の流れや重心の移動の結果としてそこに出ているのか、足だけを置いているのかは違う。

この違いは、自分一人ではなかなか分かりません。

だから、形から型へ移る時には、外見からは分からない内部操作のズレを見抜いてくれる存在が必要になる。

今の自分には、そう感じられます。

勝手に揃ったつもりでも、勘違いはある

勝手に揃う感覚が少し出てくると、それはかなり強い手触りになります。

「あ、今のは自分で作った感じではなかった」

「形がそこに来た感じがした」

「少し嵌まった気がする」

そう感じることがあります。

ただし、ここも危ういところです。

勝手に揃ったつもりでも、本当にそうなのかは分からない。

自分の中では自然に感じても、外から見るとズレているかもしれません。

自分では楽に感じても、必要な張りまで抜けているかもしれません。

自分では嵌まったつもりでも、相手と接触した瞬間に崩れるかもしれません。

自分では整ったつもりでも、ただ得意な固め方に入っただけかもしれません。

だから、勝手に揃う感覚が出てきた時ほど、先生や先輩の存在が必要になる気がします。

自分の感覚を否定するためではありません。

自分の感覚を、稽古の中で検証するためです。

本当にその方向でよいのか。

それは型の条件に近づいているのか。

それとも自分の癖に戻っているのか。

そこを見てもらう必要があるのだと思います。

オープンワールドは、自由だからこそ迷う

さらに、勝手に揃ったあとに始まる修行をオープンワールドとして考えるなら、先生や先輩の必要性はもっと大きくなる気がしています。

オープンワールドは自由です。

決められたクエストだけを消化する段階ではありません。

威力をどう出すのか。

技がどう自由に出るのか。

相手と接触した時にどう働くのか。

状況が変わった時にどう変化するのか。

型の中にあるものを、どう自分の身体で使えるものにしていくのか。

問いが一気に広がります。

でも、自由ということは、迷いやすいということでもあります。

自由に動いているつもりで、ただ自己流になっているかもしれない。

応用しているつもりで、型から離れているだけかもしれない。

自分では深めているつもりで、同じところを回っているだけかもしれない。

強くなったつもりで、力みに戻っているだけかもしれない。

自由度が上がるほど、迷う可能性も上がる。

だから、オープンワールドだからこそ、先生・先輩・師匠が必要になるのだと思います。

自由は、自己満足にもなりうる

自由に稽古することは大事だと思います。

ただ、自由は自己満足にもなります。

自分の好きな動きだけをする。

自分の得意な解釈だけを深める。

自分に都合のいい感覚だけを正解にする。

それでも、本人は稽古しているつもりになれる。

これはかなり怖いことだと思います。

形を覚える段階では、間違いが見えやすい。

手が違う。

足が違う。

順番が違う。

そういう指摘ができます。

でも、自由度が上がると、間違いも見えにくくなる。

本人の中では納得できてしまう。

それっぽい理屈も作れてしまう。

気持ちよく動けてしまう。

だからこそ、外から見てくれる人が必要になる。

自分の稽古が、ただの自己満足になっていないか。

自分の自由が、型から離れた独りよがりになっていないか。

そこを見てくれる存在が必要なのだと思います。

先生や先輩は、進む方向を示す存在になる

先生や先輩は、単に正解を教える人ではない気がしています。

もちろん、最初は正しい形を教わります。

手の位置。
足の位置。
姿勢。
目線。
指先。

そこを直してもらう。

でも、稽古が進むにつれて、先生や先輩の役割は、それだけではなくなるのではないか。

自分では見えないズレを見抜いてくれる。

自分では分からない癖を指摘してくれる。

自分が深まったつもりで止まっているところを、もう一段先へ向けてくれる。

自由に動いているつもりで迷っている時に、方向を示してくれる。

そういう存在になっていくのではないかと思います。

特にオープンワールドとして修行を考えるなら、方向を示してくれる存在はかなり大事です。

広い世界に出たからといって、どこへ進んでもよいわけではない。

進む方向がある。

外れてはいけない理がある。

自分では見えない深さがある。

そこを示してくれるのが、先生・先輩・師匠なのだと思います。

形から型への移行期に必要な存在

整理すると、先生や先輩の役割は、まず形から型への移行期にあります。

この段階では、外形から内部操作へ意識が移り始めます。

ただし、自分では内部のズレに気づきにくい。

だから、先生や先輩が必要になります。

手は合っているが、中身が違う。

姿勢はきれいだが、固まっている。

楽に見えるが、抜けている。

強く見えるが、力んでいる。

嵌まったつもりだが、癖に戻っている。

こういうズレを、自分一人で見抜くのは難しい。

だから、形から型への移行期には、先生や先輩は内部操作のズレを見抜く存在として必要なのだと思います。

オープンワールド段階に必要な存在

もう一つは、オープンワールド段階です。

この段階では、自由度が上がります。

型に入った身体で、どう使うのか。

どう変化するのか。

どう相手に働くのか。

どう威力を出すのか。

どう自在に技が出るのか。

問いが広がります。

でも、広がるからこそ迷う。

自分の感覚だけで進むと、自己満足にもなる。

だから、先生や先輩や師匠が必要になる。

この段階では、先生や先輩は形の採点者ではありません。

自由の中で遭難しないために、進む方向を示してくれる存在です。

もちろん、今の自分がその段階にいるとは思っていません。

でも、修行の構造としては、そう見えてきています。

先生・先輩・師匠を神格化したいわけではない

ここで誤解したくないのは、先生や先輩や師匠を神格化したいわけではないということです。

先生だから絶対に正しい。

先輩だから何でも分かっている。

師匠だから到達している。

そういう話ではありません。

人間である以上、誰にでも段階があります。

先生にも先生の修行がある。

先輩にも先輩の修行がある。

師匠にも師匠の修行がある。

だから、ただ上にいる人を絶対視したいわけではありません。

ただ、自分より先を歩いている人がいる。

自分では見えないものを見ている人がいる。

自分では気づけないズレを見抜いてくれる人がいる。

そういう存在は、やはり必要なのだと思います。

特に型の稽古は、自分の感覚だけで完結させると危うい。

だからこそ、先生・先輩・師匠の存在が大事になる。

今の自分には、そう見えています。

現時点の理解として

今の自分には、こう見えています。

先生や先輩は、形を採点する人ではありません。

もちろん、形を覚える段階では、外から見える形を直してもらう必要があります。

でも、それだけではない。

形から型へ移る時には、外見からは分からない内部操作のズレを見抜く存在として必要になる。

勝手に揃ったつもりでも、勘違いはある。

自分では内部のズレに気づけない。

さらに、オープンワールドに入った後は、自由だからこそ迷う。

自由は自己満足にもなりうる。

だから、先生・先輩・師匠は、進む方向を示す存在になる。

先生・先輩・師匠は、単に形を採点する人ではない。

外形から内部操作へ移る時にも、自由な修行の中で迷わないためにも必要な存在である。

今の自分には、そう感じられます。

これは正解の説明ではありません。

武歴10年にも満たない自分が、
現時点で型稽古をどういう修行の階層として見ているのかを残すための稽古メモです。

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