0. 導入:型はたくさん覚えるべきか、一つを深くやるべきか
空手の型について考えていると、時々こういう問いにぶつかります。
型は、たくさん覚えた方がよいのか。
それとも、一つの型を深くやった方がよいのか。
たくさんの型を覚える稽古があります。
いろいろな型を知る。
順番を覚える。
動きの違いを知る。
型ごとの特徴を感じる。
流派の中にある型の広がりを見る。
それは、それで大事な稽古だと思います。
一方で、一つの型を深くやるべきだという考え方もあります。
ただ順番を覚えるだけでは浅い。
形をなぞるだけでは型には入れない。
一つの型の中にある身体の使い方、呼吸、接地、力の通り、相手との関係を掘っていく必要がある。
これも、かなり大事な考え方だと思います。
では、型はたくさん覚えるべきなのか。
それとも、一つの型を深くやるべきなのか。
今の自分は、この二つは対立しないと思っています。
特に剛柔流で考えるなら、サンチンを深掘りすることと、他の型を稽古することは両立する。
というより、両方がつながっているのではないかと感じています。
サンチンを深掘りする。
三戦立ち。
呼吸。
姿勢。
接地。
締め。
中心。
力の通り。
身体全体のまとまり。
そういうものを、サンチンの中で確認していく。
ただし、それはサンチンだけで終わる話ではないと思っています。
サンチンで確認した身体の条件が、他の型の中でも保てるのか。
歩法が変わっても、崩れないか。
方向が変わっても、抜けないか。
受けや突きが入っても、身体がばらばらにならないか。
動きが複雑になっても、サンチンで確認した基準が残っているか。
他の型を稽古すると、サンチンでできているつもりだったものが崩れることがあります。
姿勢が抜ける。
接地が甘くなる。
呼吸が乱れる。
中心が分からなくなる。
力の通りが切れる。
手足がばらばらになる。
その時に、またサンチンに戻る。
サンチンに戻って、何が崩れていたのかを確認する。
そして、また他の型へ出る。
サンチンから始まり、他の型へ出る。
他の型で崩れ、迷い、気づいたことを持って、またサンチンに戻る。
すると、同じサンチンに戻っているようで、最初とは違うものが見えることがあります。
最初は、形を覚えるためのサンチンだった。
でも、他の型を稽古した後に戻ってくるサンチンは、身体の条件を問い直すためのサンチンになる。
つまり、サンチンに戻ることは、ただ最初に戻ることではないのだと思います。
戻っているようで、同じ場所には戻っていない。
他の型を稽古した身体で、もう一度サンチンを見る。
その時、サンチンの見え方も、他の型の見え方も少し変わっていく。
この往復が、型稽古を螺旋的に深めていくのではないか。
今の自分には、そう感じられます。
この記事では、型をたくさん覚えることと、サンチンを深掘りすることを対立させず、往復として考えてみます。
サンチンで身体の基準を掘る。
他の型で、その基準が別の動きの中でも保てるかを試す。
崩れたら、またサンチンに戻る。
そして、また他の型へ出る。
この往復の中で、型の稽古は少しずつ深まっていくのではないか。
まだ自分は、サンチンを分かったと言える段階ではありません。
他の型についても、分かったと言える段階ではありません。
それでも今の自分には、
基本に始まり、基本に戻る。
サンチンに始まり、サンチンに戻る。
という言い方が、かなりしっくり来ています。
ここから、その感覚を少しずつ整理してみます。
1. まず「サンチンとは何か」を、自分なりに置く
ここで、まず「サンチンとは何か」を置いておきたいと思います。
ただし、これはサンチンについて正しい説明をする文章ではありません。
私はまだ、サンチンについて分かったと言える段階ではありません。
剛柔流のサンチンについて、歴史的に、技術的に、体系的に説明できるほどの理解はありません。
だから、ここで書くのは、あくまで現時点の自分が、稽古の中でサンチンをどう受け取っているかです。
今の自分には、サンチンは単なる一つの型ではなく、剛柔流の型を打つための身体の基準を掘る型のように見えています。
もちろん、サンチンも一つの型です。
順番がある。
立ち方がある。
手の動きがある。
呼吸がある。
姿勢がある。
締めがある。
そういう意味では、サンチンも他の型と同じように、覚え、稽古し、直される型です。
でも、今の自分には、サンチンはそれだけではない気がしています。
サンチンは、他の型を打つ時にも失ってはいけない身体の条件を確認するための基準型なのではないか。
今は、そう感じています。
三戦立ち。
呼吸。
姿勢。
接地。
締め。
中心。
力の通り。
身体全体のまとまり。
そういうものを、サンチンの中で確認していく。
足が地面とどうつながっているのか。
重心がどこにあるのか。
身体が前後左右に逃げていないか。
呼吸と動きがばらばらになっていないか。
力が一部で止まっていないか。
手足が別々に動いていないか。
身体全体が一つのまとまりとして働いているか。
サンチンを稽古していると、そういうことを問われている気がします。
ただ、ここで難しいのは、これらを言葉で並べても、サンチンが分かったことにはならないということです。
三戦立ちと言うことはできます。
呼吸と言うこともできます。
締め、中心、接地、力の通りと言うこともできます。
でも、それが自分の身体の中でどう成立しているのかは、簡単には分かりません。
むしろ、言葉として分かったつもりになる方が危うい気もしています。
自分では立てているつもりでも、接地が甘いかもしれない。
自分では締めているつもりでも、ただ固めているだけかもしれない。
自分では呼吸できているつもりでも、動きと呼吸がばらばらかもしれない。
自分では中心があるつもりでも、少し動くとすぐ崩れるかもしれない。
自分では力が通っているつもりでも、実際には肩や腕で止まっているだけかもしれない。
だから、サンチンは分かりやすいようで、かなり難しい型なのだと思います。
形としては、派手な動きが多いわけではありません。
大きく跳んだり、複雑な方向転換をしたり、見た目に分かりやすい技が次々に出てくるわけでもありません。
でも、その分、逃げ場が少ない気がします。
立つ。
呼吸する。
締める。
進む。
手を出す。
受ける。
身体をまとめる。
一つひとつが、ごまかしにくい。
見た目には単純に見えても、自分の身体の中では、かなり多くのことを問われている。
そこが、サンチンの難しさなのだと思います。
そして、このサンチンで問われることは、サンチンだけで終わらない気がしています。
他の型を打つ時にも、三戦立ちで確認した接地や中心が失われていないか。
呼吸が乱れていないか。
手足がばらばらになっていないか。
力の通りが切れていないか。
身体全体のまとまりが残っているか。
そこが問われるのではないか。
つまり、サンチンはサンチンだけを上手く打つための型ではなく、他の型を打つ時にも戻ってくる身体の基準点なのではないか。
今の自分には、そう見えています。
他の型を稽古すると、動きは複雑になります。
歩法が変わる。
方向が変わる。
受けや突きが入る。
転身が入る。
流れが変わる。
相手との関係も見えてくる。
その中で、サンチンで確認したはずの身体の条件が崩れることがあります。
立てていたはずなのに、歩くと崩れる。
呼吸できていたはずなのに、動きが増えると乱れる。
中心があると思っていたのに、方向転換で分からなくなる。
力が通っているつもりだったのに、受けや突きの中で腕だけになる。
身体全体でまとまっていたつもりだったのに、他の型では手足がばらばらになる。
その時に、またサンチンに戻る。
サンチンに戻って、何が崩れていたのかを見る。
そう考えると、サンチンは最初に一度通過する基本型ではなく、何度も戻る基準点なのだと思います。
最初は、サンチンで形を覚える。
三戦立ちを覚える。
呼吸を覚える。
姿勢を覚える。
締めを覚える。
手の動きを覚える。
でも、他の型を稽古した後にサンチンへ戻ると、同じサンチンでも見え方が変わることがあります。
最初は形を覚えるためのサンチンだった。
でも、戻ってくるサンチンは、他の型で崩れた身体の条件を確認するためのサンチンになる。
さらに稽古が進めば、自分が型全体をどう打っているのかを問い直すためのサンチンになるのかもしれません。
だから、今の自分には、サンチンは剛柔流の型を打つ時に何度も戻る身体の基準点のように感じられます。
サンチンとは何か。
その問いに、今の自分が一文で答えるなら、こうです。
サンチンは、剛柔流において、他の型を打つ時にも失ってはいけない身体の条件を掘るための基準型なのではないか。
もちろん、これは現時点の理解です。
今後、稽古が進めば変わると思います。
それでも、今の自分には、この見方を置くことで、サンチンを深掘りすることと、他の型を稽古することがつながって見えてきます。
サンチンで身体の基準を掘る。
他の型で、その基準が保てるかを試す。
崩れたら、またサンチンに戻る。
この記事では、この往復をもう少し考えていきたいと思います。
2. サンチンを深掘りすることは、一つの型に閉じこもることではない
サンチンを深掘りする。
そう言うと、サンチンだけを繰り返せばよい、という話に聞こえるかもしれません。
もちろん、サンチンを繰り返すことは大事だと思います。
三戦立ち。
呼吸。
姿勢。
接地。
締め。
中心。
力の通り。
身体全体のまとまり。
そういうものを、サンチンの中で何度も確認していく。
そこには大きな意味があると思います。
ただ、自分がここで言いたい「サンチンを深掘りする」は、サンチンだけに閉じこもるという意味ではありません。
サンチンだけをやっていればよい。
他の型は必要ない。
そういう話ではないと思っています。
むしろ、サンチンを深掘りするからこそ、他の型でそれが試されるのではないか。
今の自分には、そう見えています。
サンチンで確認した身体の条件があります。
接地がある。
呼吸がある。
姿勢がある。
締めがある。
中心がある。
力の通りがある。
身体全体のまとまりがある。
では、それらはサンチンの中だけで成り立っているのか。
他の型を打つ時にも、それは失われていないのか。
そこが問われるのだと思います。
サンチンでは、ある程度まとまっているように感じる。
でも、他の型に入ると崩れる。
これはよくあるのではないかと思います。
方向が変わる。
歩法が変わる。
受けが入る。
突きが入る。
転身が入る。
動きが複雑になる。
すると、サンチンで確認したはずの身体の条件が、すぐに失われることがあります。
立てていたはずなのに、歩くと崩れる。
接地していたはずなのに、方向が変わると足元が浮く。
呼吸できていたはずなのに、動きが増えると呼吸が乱れる。
中心があると思っていたのに、転身すると分からなくなる。
力が通っているつもりだったのに、受けや突きが入ると腕だけになる。
身体全体でまとまっていたつもりだったのに、他の型では手足がばらばらになる。
そういうことが起きる。
その時に初めて、サンチンでできていると思っていたことが、まだサンチンの中だけのものだったのかもしれないと分かる。
サンチンの中では保てる。
でも、他の型の中では保てない。
だとすれば、それはまだ身体に深く入っているとは言えないのかもしれません。
だから、他の型を稽古することは、サンチンから離れることではないと思います。
むしろ、サンチンで掘ったものが、別の条件の中でも保てるかを確かめる場になる。
サンチンでは整っている。
でも、歩法が変わったらどうか。
方向が変わったらどうか。
受けや突きが入ったらどうか。
相手との関係を想定した時にどうか。
動きが連続した時にどうか。
その中でも、サンチンで確認した身体の条件が残っているか。
そこを見る必要があるのだと思います。
そう考えると、サンチンを深掘りすることと、他の型を稽古することは対立しません。
サンチンだけをやることが深掘りなのではない。
サンチンで得た基準を、他の型の中でも失わないかを見ることまで含めて、サンチンを深掘りすることなのではないか。
今の自分には、そう感じられます。
もちろん、これは簡単なことではありません。
自分はまだ、サンチンで確認しているつもりの身体の条件を、他の型の中で保てているとは言えません。
むしろ、すぐに崩れているのだと思います。
動きが変われば崩れる。
方向が変われば崩れる。
手順が複雑になれば崩れる。
受けや突きに意識が向けば、身体全体のまとまりが抜ける。
だからこそ、他の型を稽古する意味があるのではないか。
他の型で崩れるから、サンチンに戻る理由ができる。
サンチンに戻ると、何が崩れていたのかをもう一度確認できる。
そしてまた、他の型へ出る。
この往復があるから、サンチンの深掘りは、サンチンだけに閉じないのだと思います。
サンチンを深くやるということは、サンチンの中で身体の条件を掘ること。
そして、その条件を、他の型の中でも失わないかを見ていくこと。
他の型で崩れたら、またサンチンに戻ること。
その戻りの中で、サンチンそのものの見え方も変わっていくこと。
今の自分には、そこまで含めて「サンチンを深掘りする」ということなのではないかと感じています。
つまり、サンチンを深掘りすることは、一つの型に閉じこもることではありません。
サンチンで得た基準を、他の型の中で検証することにつながる。
そして、他の型で崩れたものを持って、またサンチンに戻る。
その往復の中で、サンチンも、他の型も、少しずつ見え方が変わっていくのだと思います。
3. 他の型を覚えることは、サンチンから離れることではない
他の型を覚えることは、サンチンから離れることではない。
今の自分には、そう見えています。
型をたくさん覚えるというと、どうしても「順番を増やす」ことのように見えます。
この型を覚えた。
次の型を覚えた。
さらに別の型を覚えた。
動きの種類が増えた。
稽古できる型の数が増えた。
もちろん、それ自体にも意味はあると思います。
型の順番を覚えること。
型ごとの特徴を知ること。
動きの違いを経験すること。
流派の中にある型の広がりを見ること。
それは大事な稽古です。
ただ、型を多く覚えることを、単に「知っている型の数が増えること」として見てしまうと、少し浅くなる気がしています。
特に剛柔流で考えるなら、他の型を覚えることは、サンチンから離れて別のことをするという意味ではないのではないか。
むしろ、サンチンで掘った身体の基準を、別の条件の中で試すことなのではないか。
今の自分には、そう感じられます。
サンチンでは、身体の基準を確認します。
三戦立ち。
呼吸。
姿勢。
接地。
締め。
中心。
力の通り。
身体全体のまとまり。
それらを、サンチンの中で確認していく。
ただ、サンチンの中で確認できたつもりになっていても、それが他の型の中で保てるとは限りません。
サンチンでは立てていた。
でも、歩法が変わると崩れる。
サンチンでは接地できていた。
でも、方向転換が入ると足元が浮く。
サンチンでは中心があるように感じていた。
でも、動きが複雑になると、どこに中心があるのか分からなくなる。
サンチンでは身体がまとまっているつもりだった。
でも、受けや突きが入ると、手足がばらばらになる。
こういうことが起きるのだと思います。
つまり、他の型に入った時に、サンチンで確認したはずのものが試される。
サンチンの中だけでは見えなかった崩れが、他の型の中で見えてくる。
そこに、他の型を覚える意味があるのではないかと思っています。
たとえば、歩法が変わる。
サンチンでは、比較的限られた条件の中で身体を確認します。
でも、他の型では、歩き方、立ち方、移動の仕方が変わります。
その時に、接地が残っているか。
足元から身体がつながっているか。
動いた瞬間に、上半身だけで形を作っていないか。
そこが問われる。
サンチンでは保てていたように感じたものが、歩法が変わった途端に崩れることがあります。
その時に初めて、自分がサンチンで確認できていると思っていたものが、まだ限定された条件の中だけのものだったのかもしれないと分かる。
方向転換も同じです。
正面を向いている時には、中心があるように感じる。
でも、向きが変わると分からなくなる。
足の位置を変える。
腰の向きが変わる。
目線が変わる。
身体の方向が変わる。
その時に、サンチンで確認した姿勢や中心が保てるのか。
それとも、方向が変わった瞬間に抜けてしまうのか。
ここでも、サンチンでできたつもりだったものが試されます。
受けや突きが入ると、さらに分かりやすい気がします。
サンチンでは身体全体でまとまっているように感じていた。
でも、受けを入れた瞬間に腕だけになる。
突きを出した瞬間に肩だけになる。
手の動きに意識を取られて、足元が消える。
腕を動かすことで、身体全体のつながりが切れる。
そういうことがある。
この時、他の型は、ただ技の種類を増やすためにあるのではない気がします。
サンチンで確認した身体のまとまりが、受けや突きの中でも残っているか。
そこを試す場になっている。
動きが複雑になると、もっと崩れやすくなります。
順番を追う。
方向を変える。
手足を動かす。
次の動きへつなげる。
相手を想定する。
やることが増えると、身体の基準はすぐに抜けます。
サンチンでは意識できていた呼吸が乱れる。
サンチンでは確認できていた接地が甘くなる。
サンチンでは感じていた中心が分からなくなる。
サンチンではまとまっていた身体が、手足の動きに分かれてしまう。
つまり、他の型を稽古すると、サンチンで確認したはずの身体の条件が、別の地形で試されるのだと思います。
ここで言う「別の地形」というのは、単なる比喩です。
歩法が変わる。
方向が変わる。
技が変わる。
間が変わる。
流れが変わる。
相手との関係が変わる。
そういう別の条件の中で、サンチンの身体が保てるかを試す。
その意味で、他の型は、サンチンから離れるためにあるのではなく、サンチンで掘った身体を別の条件で検証するためにあるのではないかと思っています。
だから、型を多く覚えることを、単なる型のコレクションにはしたくありません。
この型も知っている。
あの型も知っている。
順番をたくさん覚えている。
それだけでは、たぶん浅い。
大事なのは、他の型を打った時に、サンチンで確認した身体の基準がどうなるかです。
保てるのか。
崩れるのか。
どこで抜けるのか。
どこでばらばらになるのか。
どこで呼吸が乱れるのか。
どこで中心が消えるのか。
それを見るために、他の型があるのではないか。
今の自分には、そう見えています。
もちろん、自分がそれをできているわけではありません。
むしろ、他の型に入ると、すぐにサンチンで確認したはずのものが崩れているのだと思います。
歩法が変われば崩れる。
方向が変われば崩れる。
受けや突きが入れば、腕だけになる。
動きが複雑になれば、中心が分からなくなる。
だからこそ、他の型を稽古する意味がある。
崩れるから、分かる。
抜けるから、戻れる。
他の型で崩れたものを持って、またサンチンに戻る。
サンチンに戻ると、何が失われていたのかを確認できる。
そしてまた、他の型へ出る。
この往復があるなら、他の型を覚えることは、サンチンから離れることではありません。
サンチンで掘った身体の基準を、別の条件の中で試すことになります。
今の自分には、他の型は、サンチンで掘った身体を別の地形で試す場のように感じられます。
だから、型をたくさん覚えることと、サンチンを深掘りすることは対立しない。
他の型を覚えるほど、サンチンで確認したものがどこで崩れるのかが見えてくる。
そして、崩れたものを持ってサンチンに戻ることで、サンチンの見え方もまた変わっていく。
そう考えると、他の型を覚えることは、サンチンから離れることではなく、サンチンに戻る理由を増やすことなのかもしれません。
4. 他の型で崩れたら、またサンチンに戻る
他の型を稽古すると、サンチンで確認したはずの身体が崩れることがあります。
サンチンの中では、ある程度できているように感じていた。
立てている。
呼吸できている。
接地できている。
中心がある。
力が通っている。
身体全体がまとまっている。
そう思っていたものが、他の型に入ると崩れる。
歩法が変わる。
方向が変わる。
受けや突きが入る。
動きが複雑になる。
次の動きに意識が向く。
相手との関係を考え始める。
すると、サンチンでは保てていたはずのものが、すぐに抜けてしまうことがあります。
姿勢が抜ける。
接地が甘くなる。
中心が分からなくなる。
呼吸が乱れる。
力の通りが切れる。
手足がばらばらになる。
これは、他の型が悪いという話ではありません。
むしろ、他の型に入ったからこそ、サンチンで確認したはずのものが本当に身体に入っているのかが見えてくるのだと思います。
サンチンの中では保てる。
でも、他の型の中では保てない。
その時に、初めて分かることがあります。
自分はサンチンでできているつもりだっただけかもしれない。
限られた条件の中では保てていたけれど、条件が変わるとすぐ崩れる段階だったのかもしれない。
そういうことに気づく。
だから、他の型で崩れることには意味があるのだと思います。
崩れるから、戻る理由が生まれる。
抜けるから、何を確認すればいいのかが見えてくる。
迷うから、もう一度基準を見直す必要が出てくる。
そこで、またサンチンに戻る。
基本に始まり、基本に戻る。
サンチンに始まり、サンチンに戻る。
今の自分には、この言い方がかなりしっくり来ます。
ただし、ここで言う「戻る」は、後退ではありません。
他の型が難しいから、サンチンへ逃げるという話でもありません。
サンチンだけやっていればよかった、という話でもありません。
他の型を稽古したからこそ、サンチンに戻る意味が変わるのだと思います。
他の型で姿勢が抜けた。
だから、サンチンに戻って、そもそも自分はどう立っていたのかを確認する。
他の型で接地が甘くなった。
だから、サンチンに戻って、足元と身体のつながりを確認する。
他の型で中心が分からなくなった。
だから、サンチンに戻って、自分の身体のまとまりを確認する。
他の型で呼吸が乱れた。
だから、サンチンに戻って、呼吸と動きの関係を確認する。
他の型で受けや突きが腕だけになった。
だから、サンチンに戻って、力がどこで止まっているのかを見る。
他の型で手足がばらばらになった。
だから、サンチンに戻って、身体全体が一つのまとまりとして働いているかを確認する。
このように考えると、サンチンに戻ることは、最初の段階へ戻ることではありません。
他の型で崩れたものを持って、基準を確認し直すことです。
最初にサンチンを稽古する時は、形を覚えるためのサンチンだったかもしれません。
三戦立ちを覚える。
呼吸を覚える。
姿勢を覚える。
手の動きを覚える。
締めを覚える。
まずは、そういうサンチンです。
でも、他の型を稽古した後に戻るサンチンは、少し違います。
他の型で何が崩れたのか。
どこで抜けたのか。
どこで身体がばらばらになったのか。
どこでサンチンの身体を失ったのか。
それを確認するためのサンチンになる。
同じサンチンを打っているようで、見ているものが変わる。
最初に戻っているようで、同じ場所には戻っていない。
他の型を稽古した身体で、もう一度サンチンを見る。
だから、戻ることは後退ではなく、確認であり、問い直しなのだと思います。
サンチンは、最初に一度通過する型ではない。
他の型を稽古して、崩れて、迷って、分からなくなった時に、何度も戻ってくる基準点でもある。
今の自分には、そう感じられます。
他の型で崩れたら、サンチンに戻る。
サンチンに戻って、何が崩れていたのかを確認する。
そして、また他の型へ出る。
この往復の中で、サンチンも少しずつ変わって見えてくるのだと思います。
サンチンは最初に通過する型ではなく、他の型で崩れた時に戻る基準点でもある。
今の自分には、そう見えています。
5. サンチンに戻ることは、同じ場所に戻ることではない
サンチンに戻る。
そう書くと、同じ場所に戻っているように見えます。
最初に稽古したサンチンへ戻る。
基本へ戻る。
最初からやり直す。
そういう意味にも聞こえます。
もちろん、そういう面もあると思います。
基本を確認する。
崩れたところを直す。
もう一度、立ち方、呼吸、姿勢、接地、締め、中心、力の通りを見直す。
それは必要です。
ただ、今の自分には、サンチンに戻ることは、単に最初の場所へ戻ることではないように感じられます。
同じサンチンに戻っているようで、戻っている自分が変わっている。
だから、サンチンに戻ることは後退ではない。
今は、そう考えています。
最初に稽古するサンチンは、形を覚えるためのサンチンです。
三戦立ちを覚える。
手の動きを覚える。
呼吸を覚える。
姿勢を覚える。
締めを覚える。
どこに立ち、どう進み、どう手を出し、どう身体を保つのかを覚える。
この段階では、まず形を合わせることが中心になります。
足の位置。
膝の向き。
腰の感じ。
背中。
胸。
肩。
首。
手の位置。
呼吸。
一つずつ直されながら、サンチンの形を身体に入れていく。
この時のサンチンは、入口としてのサンチンです。
まず、何を稽古しているのかを知るためのサンチンです。
でも、他の型を稽古した後に戻ってくるサンチンは、少し違って見えることがあります。
他の型を稽古する。
歩法が変わる。
方向が変わる。
受けや突きが入る。
転身が入る。
動きが複雑になる。
相手との関係も少し見えてくる。
その中で、サンチンで確認したはずのものが崩れる。
姿勢が抜ける。
接地が甘くなる。
中心が分からなくなる。
呼吸が乱れる。
力の通りが切れる。
手足がばらばらになる。
その崩れを持って、もう一度サンチンに戻る。
すると、サンチンはただ形を覚えるための型ではなくなります。
他の型で崩れた条件を確認するためのサンチンになる。
自分は本当に立てていたのか。
本当に接地できていたのか。
本当に中心があったのか。
本当に呼吸と動きがつながっていたのか。
本当に身体全体でまとまっていたのか。
そういうことを問い直すためのサンチンになる。
同じサンチンを稽古している。
でも、見ているものが違う。
最初は、形を覚えるために見ていた。
次に戻った時は、崩れた身体の条件を確認するために見ている。
さらに稽古が進めば、サンチンはまた別の見え方をするのかもしれません。
他の型をいくつか稽古する。
その中で、身体がどう崩れるのかを少しずつ知る。
先生や先輩に直される。
自分の癖にも気づく。
相手との接触の中で、形だけでは足りないことも感じる。
そういう経験を持ってサンチンに戻ると、サンチンは自分の型全体を問い直す型になるのではないか。
今の自分には、そう感じられます。
自分は他の型をどう打っているのか。
サンチンで確認した身体の基準を、他の型の中で失っていないか。
他の型で出てきた崩れは、そもそもサンチンの中に原因があったのではないか。
サンチンのつもりで打っていたものが、本当にサンチンになっていたのか。
そういう問いが出てくる。
この段階では、サンチンは最初に覚えた基本型ではなく、自分の型稽古全体を照らし返す基準点になるのかもしれません。
だから、サンチンに戻ることは、同じ場所に戻ることではないのだと思います。
同じ型に戻っている。
でも、戻っている自分の身体が違う。
見ているものが違う。
問いが違う。
戻る理由が違う。
最初は、形を覚えるために戻る。
次は、他の型で崩れた条件を確認するために戻る。
さらにその先では、自分の型全体を問い直すために戻る。
同じサンチンでも、戻るたびに役割が変わっていく。
そして、サンチンの見え方も少しずつ変わっていく。
これは、ただ同じことを繰り返しているのとは違う気がします。
同じサンチンを打つ。
同じ三戦立ちをする。
同じ呼吸をする。
同じように手を出す。
外から見れば、同じ稽古に見えるかもしれません。
でも、自分の中で見ているものが変わっていれば、それは同じ稽古ではない。
前に戻っているようで、前とは違う高さから同じものを見ている。
だから、戻ることは後退ではない。
サンチンに戻るたび、サンチンの見え方が少し変わる。
その変化があるから、サンチンに戻ることには意味があるのだと思います。
今の自分には、サンチンは一度覚えて通過する型ではありません。
他の型へ出るたびに戻ってくる型です。
崩れたら戻る。
迷ったら戻る。
分からなくなったら戻る。
ただし、その戻りは、最初に戻ることではありません。
他の型を稽古した身体で、もう一度サンチンを見ることです。
そのたびに、サンチンの中で以前は見えていなかったものが、少し見えてくるかもしれない。
そして、その変わったサンチンの理解を持って、また他の型へ出る。
この往復の中で、サンチンの見え方も、他の型の見え方も変わっていくのだと思います。
6. この往復が、螺旋的上昇になる
サンチンから始まり、他の型へ出る。
他の型で崩れる。
迷う。
分からなくなる。
そこで気づいたことを持って、またサンチンに戻る。
すると、同じサンチンに戻っているはずなのに、前とは少し違うものが見えてくる。
そして、その変わったサンチンの理解を持って、また他の型へ出る。
今の自分には、この往復が、型稽古における螺旋的上昇なのではないかと感じられます。
螺旋的上昇というと、少し大げさに聞こえるかもしれません。
でも、自分が言いたいのは、特別なことではありません。
同じところを回っているようで、同じところには戻っていない。
同じサンチンに戻っているようで、戻っている自分の身体が少し変わっている。
同じ型を稽古しているようで、見ているものが少し変わっている。
そのことを言いたいのです。
最初は、サンチンを形として覚えます。
三戦立ち。
呼吸。
姿勢。
接地。
締め。
中心。
力の通り。
身体全体のまとまり。
それらを、一つずつ教わり、直され、身体に入れていく。
この時は、まずサンチンそのものを見る段階です。
でも、他の型へ出ると、サンチンで確認したはずのものが崩れます。
歩法が変わると、接地が甘くなる。
方向が変わると、中心が分からなくなる。
受けや突きが入ると、腕だけになる。
動きが複雑になると、呼吸が乱れる。
相手との関係を考え始めると、身体全体のまとまりが抜ける。
その崩れを持って、またサンチンに戻る。
すると、サンチンはただの基本型ではなくなります。
他の型で崩れたものを確認するための型になる。
自分は本当に立てていたのか。
本当に接地できていたのか。
本当に呼吸と動きがつながっていたのか。
本当に中心があったのか。
本当に力が通っていたのか。
本当に身体全体でまとまっていたのか。
そういう問いを持って、もう一度サンチンを見ることになる。
この時、サンチンに戻っているようで、最初のサンチンには戻っていません。
同じ型を稽古している。
でも、見ているものが違う。
戻る理由が違う。
自分の身体も、少しだけ変わっている。
だから、これは単なる反復ではないのだと思います。
サンチンに戻るたびに、少し違う高さから基本を見る。
最初は、形を覚えるためにサンチンを見る。
次は、他の型で崩れた身体の条件を確認するためにサンチンを見る。
さらに稽古が進めば、自分の型全体を問い直すためにサンチンを見る。
同じサンチンなのに、戻るたびに問いが変わる。
問いが変わるから、見え方も変わる。
見え方が変わるから、他の型へ出た時の稽古も変わる。
そういう往復があるのではないかと思っています。
他の型も、前とは違って見えてきます。
最初は、順番を覚えるための型だったかもしれません。
次は、サンチンで確認した身体の条件が保てるかを見る型になる。
さらに進むと、サンチンで掘ったものが、別の流れ、別の方向、別の技の中でどう働くかを見る型になる。
同じ型を打っていても、見ているものが変わる。
ただ動きをなぞるだけではなく、サンチンの身体がその中で残っているかを見始める。
すると、他の型もただ数を増やす対象ではなくなります。
サンチンで掘った身体を、別の条件の中で試す場になる。
そして、他の型で崩れると、またサンチンに戻る。
この繰り返しです。
サンチンも変わる。
他の型も変わる。
自分の身体も変わる。
もちろん、型そのものが勝手に変わるわけではありません。
変わるのは、自分の見え方です。
自分の身体の受け取り方です。
同じサンチンを打っているのに、以前より細かい崩れが気になるようになる。
同じ他の型を打っているのに、以前は気づかなかった抜け方が見えるようになる。
前は形だけを見ていたところで、今は接地や中心や呼吸のつながりを見るようになる。
前はできたと思っていたところで、今は全然できていなかったと感じるようになる。
これは、進んでいるからこそ起きることなのかもしれません。
稽古が進むと、分かることが増えるだけではなく、分からないことも増える。
できていると思っていたものが、できていなかったと分かる。
見えていたと思っていたものが、かなり粗かったと分かる。
その時に、またサンチンに戻る。
戻って、もう一度基本を見る。
そして、また他の型へ出る。
この往復が、少しずつ稽古を深めていくのではないかと思っています。
だから、型稽古は直線的に進むものではない気がします。
一つ覚えたら、次へ進む。
次を覚えたら、さらに次へ進む。
そういう一直線の進み方だけではない。
サンチンへ戻る。
他の型へ出る。
またサンチンへ戻る。
また他の型へ出る。
同じところを回っているように見える。
でも、そのたびに少しずつ見ているものが変わる。
戻るたびに、前より少し違う高さから基本を見る。
出るたびに、前より少し違う身体で他の型を見る。
この構造が、螺旋的上昇なのだと思います。
サンチンに始まり、他の型へ出る。
他の型で崩れ、迷い、気づいたことを持って、またサンチンに戻る。
すると、サンチンの見え方が変わる。
そして、変わったサンチンの理解を持って、また他の型へ出る。
そのたびに、サンチンも、他の型も、自分の身体も、少しずつ違って見えてくる。
今の自分には、型稽古は、直線的に進むものではなく、サンチンへ戻りながら深まる螺旋的な稽古なのではないかと感じられます。
7. 型をたくさん覚えることと、サンチンを深掘りすることは対立しない
ここまで書いてきたことを踏まえると、最初の問いに戻ってきます。
型はたくさん覚えた方がよいのか。
それとも、一つの型を深くやった方がよいのか。
今の自分は、この二つは対立しないと思っています。
特に剛柔流で考えるなら、たくさん型を覚えることと、サンチンを深掘りすることは、別々の方向へ進む稽古ではない気がしています。
たくさん型を覚えることは、サンチンから離れることではない。
サンチンを深掘りすることは、サンチンだけに閉じこもることではない。
今の自分には、そう見えています。
たくさん型を覚えることで、サンチンで確認した身体を別の条件で試すことができます。
サンチンでは保てていた姿勢が、他の型では崩れる。
サンチンでは感じていた接地が、歩法が変わると甘くなる。
サンチンでは分かっていたつもりの中心が、方向転換で分からなくなる。
サンチンではまとまっていたはずの身体が、受けや突きが入るとばらばらになる。
そういう崩れが、他の型の中で見えてくる。
だから、他の型を覚えることには意味があります。
それは、単に型の数を増やすことではありません。
サンチンで掘った身体の基準が、別の条件の中でも保てるかを試すことです。
一方で、サンチンを深掘りすることにも意味があります。
サンチンを深く稽古することで、他の型を打つ時の基準ができます。
姿勢。
呼吸。
接地。
締め。
中心。
力の通り。
身体全体のまとまり。
そういう基準がなければ、他の型を打っていても、何が崩れているのか分かりにくい。
ただ順番を覚えているだけになる。
ただ動きを増やしているだけになる。
自分の癖で動いているのに、それを型だと思ってしまうかもしれない。
だから、サンチンに戻る基準が必要になる。
他の型で崩れたら、サンチンに戻る。
サンチンで、何が崩れていたのかを確認する。
姿勢が抜けていたのか。
接地が甘くなっていたのか。
中心が消えていたのか。
呼吸が乱れていたのか。
力の通りが切れていたのか。
手足がばらばらになっていたのか。
そこをサンチンで確認する。
そして、また他の型へ出る。
他の型へ出ると、また崩れる。
崩れたら、またサンチンに戻る。
この往復があるから、型をたくさん覚えることと、サンチンを深掘りすることは両立するのだと思います。
もし、型をたくさん覚えることが、ただ順番を増やすだけなら、それはサンチンの深掘りとは離れてしまうかもしれません。
この型もできる。
あの型もできる。
順番も知っている。
動きも覚えている。
それだけになってしまうと、型の数は増えても、身体の基準が深まっているとは限りません。
逆に、サンチンだけを深くやればよい、と考えすぎても、別の危うさがある気がします。
サンチンの中では保てる。
でも、他の型に入ると崩れる。
サンチンの中では分かっているつもりになる。
でも、方向が変わった時、歩法が変わった時、受けや突きが入った時、相手との関係が出てきた時に、同じ身体でいられるのか。
そこを試さなければ、サンチンで掘ったものが本当に身体に入っているのかは分からない。
だから、サンチンだけに閉じこもることも違う気がしています。
サンチンで掘る。
他の型で試す。
崩れたら戻る。
戻って確認したら、また出る。
この往復が大事なのだと思います。
サンチンは、戻る場所です。
でも、戻るためには、外へ出る必要があります。
他の型へ出るから、崩れが見える。
崩れが見えるから、サンチンへ戻る意味が生まれる。
サンチンへ戻るから、また他の型へ出る時の基準が少し変わる。
この循環の中で、サンチンも、他の型も、自分の身体も少しずつ変わっていく。
そう考えると、大事なのは、型の数を増やすことだけではありません。
また、一つの型に閉じることでもありません。
大事なのは、サンチンと他の型を往復することなのだと思います。
サンチンに始まり、他の型へ出る。
他の型で崩れ、迷い、気づいたことを持って、またサンチンに戻る。
そこで基本を問い直す。
そして、もう一度他の型へ出る。
この往復があるから、たくさん型を覚えることと、サンチンを深掘りすることは対立しない。
むしろ、互いに必要になる。
他の型を稽古することで、サンチンの身体が試される。
サンチンを深掘りすることで、他の型を打つ基準ができる。
今の自分には、そう見えています。
だから、型をたくさん覚えるか、一つを深くやるか、という問いは、少し形を変えた方がよいのかもしれません。
どちらを選ぶかではない。
サンチンで掘った身体を、他の型で試せているか。
他の型で崩れたものを、サンチンに戻って確認できているか。
その往復ができているか。
そこが大事なのではないかと思います。
今の自分には、剛柔流の型稽古は、数を増やす稽古でも、一つに閉じる稽古でもなく、サンチンと他の型を行き来しながら深まっていく稽古のように感じられます。
8. おわりに:サンチンに戻るたび、型の見え方が変わる
ここまで、型をたくさん覚えることと、サンチンを深掘りすることは対立しないのではないか、という話を書いてきました。
型はたくさん覚えた方がよいのか。
それとも、一つの型を深くやった方がよいのか。
この問いに対して、今の自分は、どちらか一方を選ぶ話ではないと感じています。
特に剛柔流で考えるなら、サンチンを深掘りすることと、他の型を稽古することは、別々の方向へ進む稽古ではない。
サンチンで身体の基準を掘る。
他の型で、その基準が別の条件の中でも保てるかを試す。
崩れたら、またサンチンに戻る。
サンチンで確認したら、また他の型へ出る。
この往復の中で、型の稽古は少しずつ深まっていくのではないか。
今の自分には、そう見えています。
もちろん、自分はまだサンチンを分かったとは言えません。
サンチンで何を稽古しているのか。
三戦立ちとは何か。
呼吸とは何か。
締めとは何か。
接地とは何か。
中心とは何か。
力の通りとは何か。
身体全体のまとまりとは何か。
それらを分かったと言える段階には、まったくありません。
他の型についても同じです。
順番を覚えたとしても、それで型を分かったことにはならない。
動きができたとしても、それで型に入ったことにはならない。
形をなぞれたとしても、その中で身体がどう働いているのか、相手との関係の中でどう意味を持つのかまでは、まだほとんど分かっていない。
だから、この文章も、正解の説明として書いているわけではありません。
ただ、今の自分には、
基本に始まり、基本に戻る。
サンチンに始まり、サンチンに戻る。
という見方が、かなりしっくり来ています。
最初にサンチンを稽古する。
そこで身体の基準を学ぶ。
その後、他の型へ出る。
歩法が変わる。
方向が変わる。
受けや突きが入る。
動きが複雑になる。
すると、サンチンで確認したはずのものが崩れる。
姿勢が抜ける。
接地が甘くなる。
中心が分からなくなる。
呼吸が乱れる。
力の通りが切れる。
手足がばらばらになる。
その崩れを持って、またサンチンに戻る。
この戻りは、後退ではないと思っています。
他の型が難しいから、サンチンへ逃げるということではない。
サンチンだけやっていればよかった、という話でもない。
他の型へ出たからこそ、サンチンに戻る意味が変わる。
他の型で崩れたからこそ、サンチンの中で何を確認すればよいのかが変わる。
同じサンチンに戻っているようで、戻っている自分の身体が少し変わっている。
見ているものも少し変わっている。
最初は、形を覚えるためのサンチンだったかもしれません。
でも、他の型を稽古した後に戻ってくるサンチンは、崩れた身体の条件を確認するためのサンチンになる。
さらに稽古が進めば、自分の型稽古全体を問い直すためのサンチンになるのかもしれません。
だから、サンチンに戻るたび、サンチンの見え方が少し変わる。
そして、サンチンの見え方が変わると、他の型の見え方も変わる。
他の型は、ただ順番を増やすものではなくなる。
サンチンで掘った身体を、別の条件の中で試す場になる。
他の型で崩れるから、サンチンに戻る。
サンチンで確認するから、また他の型へ出られる。
この往復の中で、サンチンも、他の型も、自分の身体も少しずつ変わっていく。
その変化を、今の段階で残しておきたいと思いました。
数年後に読み返したら、かなり浅いことを書いていると思うかもしれません。
サンチンについても、他の型についても、もっと違う見方になっているかもしれません。
それでいいと思っています。
むしろ、稽古を続けているのに見え方が変わらない方が怖い。
今の理解は、今の理解でしかありません。
でも、今の理解を残しておかないと、あとで何が変わったのかも分からなくなる。
だから、今の段階では、こう書いておきます。
型をたくさん覚えることと、サンチンを深掘りすることは対立しない。
大事なのは、型の数を増やすことだけではない。
また、一つの型に閉じこもることでもない。
サンチンで身体の基準を掘る。
他の型で、その基準を試す。
崩れたら、またサンチンに戻る。
戻るたびに、サンチンの見え方が変わる。
そして、その変わったサンチンの理解を持って、また他の型へ出る。
サンチンに始まり、サンチンに戻る。
その戻りが、ただの反復ではなく、螺旋的に型を深めていく稽古になるのだと思う。

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