前回は、形から型への移行を、クエスト探索系として考えてみました。
決められた形がある。
修正される。
自分の癖に気づく。
筋肉で作る限界に気づく。
身体の条件を探る。
少しずつ、外から整える稽古から、身体の条件が合って揃う稽古へ移っていく。
この段階は、低い段階ではなく、必要な探索段階なのだと思います。
そして、その段階を飛ばして、いきなり自由には入れない。
前回は、そこまでを書きました。
今回は、その先の話です。
身体が勝手に揃う。
型に嵌まる感覚が少し出てくる。
そこまで行けば終わりなのかというと、たぶんそうではない。
むしろ、そこから修行はオープンワールドになるのではないか。
今の自分には、そう見えてきています。
勝手に揃うところまでが終わりではない
これまで、自分は「勝手に揃う」という言葉を使ってきました。
胸を張るのではなく、胸がそこにある。
あごを引くのではなく、あごが収まる。
手を置くのではなく、手がそこに来る。
足を置くのではなく、そこにしか出ない。
身体の条件が合った結果として、形がそこに現れる。
その感覚を、自分は「勝手に揃う」と呼んでいます。
これは、とても大事なことだと思っています。
でも、勝手に揃うことをゴールにすると、たぶんズレます。
身体が揃った。
型に嵌まった。
だから終わり。
そういう話ではない。
勝手に揃うことは、むしろその先に入るための前提条件なのではないか。
今の自分には、そう見えています。
身体が揃っていることが前提になる
型の中で身体が勝手に揃う。
それは、ただ形がきれいに見えるという話ではないと思います。
身体の各部分が、ばらばらに働いていない。
足、膝、骨盤、背中、胸、首、肩、腕、手、指先が、別々ではなく関係として働いている。
その結果として、形がそこに現れる。
その状態が少しでもできてくると、ようやく次の問いが出てくる気がします。
その身体で、何ができるのか。
その身体で、どう動けるのか。
その身体で、相手にどう働くのか。
つまり、身体が揃っていることは、それ自体が目的というより、そこから先を稽古するための前提なのだと思います。
楽器でいえば、ようやくチューニングが合った状態に近いのかもしれません。
チューニングが合ったことは大事です。
でも、チューニングが合っただけでは、まだ音楽は始まっていない。
そこから何を奏でるのか。
どう響かせるのか。
誰と合わせるのか。
その話が始まる。
型も、それに近いのではないかと感じています。
意識しなくても技が出るということ
身体が揃っていない時は、形を保つだけで意識を使います。
胸を張らなければいけない。
あごを引かなければいけない。
手を合わせなければいけない。
足の位置を直さなければいけない。
姿勢を崩さないようにしなければいけない。
それだけで、かなり忙しい。
自分の身体を維持することに意識を使っている状態です。
でも、身体が勝手に揃っているなら、そこに意識を取られにくくなるのではないか。
胸を張ろうとしなくても、胸がそこにある。
あごを引こうとしなくても、あごが収まっている。
手を置こうとしなくても、手がそこに来る。
足を置こうとしなくても、足がそこに出る。
そういう状態なら、形を維持することに意識を使い続けなくてよくなる。
その分、次の動きに入れる。
相手を見られる。
状況に反応できる。
技が、意識して作るものではなく、出るものに近づいていくのではないか。
まだ自分がそれをできているわけではありません。
ただ、修行の構造としては、そういう方向があるのではないかと感じています。
威力が構造から出る
勝手に揃った身体では、威力の出方も変わるのではないかと思っています。
筋肉で頑張って力を出すことはできます。
腕で打つ。
肩で押す。
腰を強く使う。
脚力で支える。
それで出る力もあります。
それを否定するつもりはありません。
ただ、型に嵌まり、身体が揃ってくると、威力はもっと構造から出るのではないか。
手だけで打つのではない。
腕だけで動かすのではない。
足から、腰へ、背中へ、肩へ、腕へ、手へ。
あるいは、身体全体のまとまりとして相手に働く。
そういう出方があるのではないか。
この時、威力は「頑張って出すもの」というより、身体の条件が揃っているから通るものに近いのかもしれません。
力を入れたから威力が出る。
それもある。
でも、それだけではない。
身体が揃っているから、力が途中で漏れにくい。
一部で止まりにくい。
相手に伝わりやすい。
そういう世界があるのではないか。
今の自分には、まだはっきり分かりません。
でも、勝手に揃うことを考えると、その先には必ず威力の問題が出てくる気がしています。
相手と接触した時にどう働くのか
一人で型を打っている時に、身体が揃う。
それは大事です。
でも、空手の技は、自分の中だけで完結するものではないはずです。
受ける。
突く。
払う。
掴まれる。
押される。
崩す。
返す。
そこには相手がいます。
だから、身体が揃った状態が、相手と接触した時にどう働くのかを見ないといけない。
一人では整っている。
でも、触れられた瞬間に崩れる。
押された瞬間に固まる。
掴まれた瞬間に力が途切れる。
そうだとしたら、まだその揃い方は浅いのかもしれません。
相手から力が入った時に、局所で固まるのか。
身体全体に通るのか。
受けた力が次の動きにつながるのか。
自分の形が、相手との関係の中で働くのか。
ここまで含めて見ないと、型が本当に使えるものになっているとは言えない気がします。
勝手に揃うことは、自分の中の気持ちよさで終わってはいけない。
相手に働くかどうか。
そこまで問われる。
このあたりから、修行は一気に広くなる気がしています。
決められた手順だけではなくなる
型には順番があります。
この動きの次に、この動き。
この方向を向いて、この立ち方になる。
この受けをして、この突きを出す。
最初は、その手順を覚えることが必要です。
でも、身体が揃ってくると、型の手順をなぞるだけでは足りなくなるのではないか。
なぜ、その順番なのか。
なぜ、その方向なのか。
なぜ、その手がそこに来るのか。
なぜ、その足がそこに出るのか。
その動きは、相手との関係でどう働くのか。
前の動きが、次の動きにどうつながっているのか。
そういう問いが出てくる。
型を順番通りに打つことは必要です。
でも、順番通りに打てることがゴールではない。
その順番の中にある意味や働きを、身体で探っていく必要がある。
ここから、稽古は決められた手順の確認だけではなくなっていくのだと思います。
オープンワールドとしての修行
ここで、ロールプレイングゲームの比喩がしっくり来ます。
形から型へ移行する段階は、クエスト探索系に近い。
決められた課題がある。
順番がある。
直される。
癖に気づく。
内部操作を探る。
勝手に揃う条件を探す。
これは必要な探索段階です。
でも、身体が勝手に揃うようになったとしても、そこでゲームが終わるわけではない。
むしろ、そこからオープンワールドが始まる。
決められたルートをなぞるだけではなく、広い世界に入る。
威力がどう出るのか。
技がどう自由に出るのか。
相手と接触した時にどう働くのか。
状況が変わった時にどう変化するのか。
型の中にあるものを、どう自分の身体で使えるものにしていくのか。
そこから先は、かなり広い。
だからこそ、面白い。
でも、同時に難しい。
自由度が上がると、迷いやすくなる
オープンワールドという言葉を使うと、自由で楽しそうに聞こえるかもしれません。
でも、自由度が上がるということは、迷いやすくなるということでもあります。
決められたクエストなら、次に何をすればいいのかが比較的分かりやすい。
ここを直す。
この形を覚える。
この順番を間違えない。
この癖を修正する。
課題が見えやすい。
でも、オープンワールドになると、課題は一気に広がります。
どこを見ればいいのか。
何を深めればいいのか。
自分の動きは理にかなっているのか。
ただの自己流になっていないか。
勝手に揃っているつもりで、自分の癖に戻っているだけではないか。
自由になったつもりで、型から外れているだけではないか。
そういう危うさが出てくる。
自由だからこそ、難しい。
自由だからこそ、迷う。
今の自分には、そこも大事に見えています。
先生・先輩・師匠が必要になる理由
だから、オープンワールドになったからといって、一人で好きに進めばいいわけではないと思います。
むしろ、自由度が上がるからこそ、先生や先輩や師匠の存在が大事になる。
形を覚える段階でも、先生や先輩は必要です。
でも、身体が揃い、その先の広い世界に入っていく段階では、別の意味で必要になるのではないか。
自分では、自分のズレに気づけないことがあります。
自分では、進んでいるつもりでも、同じところを回っているかもしれない。
自由に動いているつもりでも、ただ自分の癖に入っているだけかもしれない。
勝手に揃っているつもりでも、相手と接触したら通用しないかもしれない。
その時、先生や先輩の存在は、単に形を採点する人ではなく、進む方向を示してくれる存在になるのだと思います。
この話は、次回でもう少し詳しく書くつもりです。
まだ自分がそこにいるわけではない
ここまで書いてきましたが、自分がこのオープンワールドに立っているとは思っていません。
私はまだ武歴10年にも満たない未熟者です。
型に嵌まる感覚も、入口を少し感じ始めたくらいだと思っています。
身体が勝手に揃うことも、安定してできるわけではありません。
だから、威力が構造から出るとか、自由自在に技が出るとか、相手と接触してどう働くとか、そういうことを自分ができているわけではありません。
ただ、修行の構造としては、そういう広がりがあるのではないかと感じています。
形を合わせる。
型に入る。
身体が勝手に揃う。
でも、そこはゴールではない。
そこから、威力、自在さ、相手との関係、変化、応用を含んだ修行が始まる。
今の自分には、そのように見えてきています。
現時点の理解として
今の自分には、こう見えています。
勝手に揃うところまでが終わりではない。
そこから、オープンワールドが始まる。
身体が揃っていることを前提に、威力がどう出るのか。
技がどう自由に出るのか。
相手と接触した時にどう働くのか。
状況が変わった時にどう変化するのか。
そこからが本当の修行になる。
型に嵌まることは終わりではありません。
型に入った身体で、どう使い、どう変化し、どう相手に働くか。
そこから修行はオープンワールドになる。
今の自分には、そう感じられます。
これは正解の説明ではありません。
武歴10年にも満たない自分が、
現時点で型稽古をどういう修行の階層として見ているのかを残すための稽古メモです。

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