前回は、形を否定しないこと、でも形で終わらないことについて書きました。
最初は形を合わせるしかない。
手の位置。
足の位置。
姿勢。
角度。
目線。
指先。
そうした外から見える基準を教わることは、稽古の入口として必要です。
ただし、形を合わせることがゴールになると、型の稽古は外形合わせに閉じてしまうのではないか。
前回は、そこまでを書きました。
今回は、その続きとして、
「形」と「型」を対立ではなく、段階として見たい、という話を書いておきます。
ここで言う「形」は、第0回で書いた通り、「カタ」ではなく「カタチ」という意味です。
そして、今回も表記論争をしたいわけではありません。
「形」と書くのが正しいのか。
「型」と書くのが正しいのか。
そういう話ではなく、自分の稽古中の感覚を整理するために、便宜的に分けて考えているだけです。
「形」と「型」を勝ち負けにしたくない
「形」と「型」という言葉を分けて使うと、どうしても、
形は浅い
型は深い
という話に見えやすいかもしれません。
でも、今の自分は、そういう勝ち負けの話にしたいわけではありません。
形が悪くて、型が良い。
外側が低くて、内側が高い。
そういう単純な話ではないと思っています。
形は必要です。
形がなければ、最初に何を稽古すればいいのか分かりません。
形がなければ、先生や先輩に直してもらう基準もありません。
形がなければ、自分が崩れているのかどうかも分かりません。
だから、形を否定して型へ行く、という考え方は違うと思っています。
むしろ、形を通るから型に入れる。
今の自分には、そう見えています。
形とは、外から見えるもの
現時点では、形をこう見ています。
形 = 外から見える姿勢、手足の位置、角度、見た目の完成状態
たとえば、気をつけであれば、
- 結び立ちになる
- 胸を張る
- あごを引く
- 中指をズボンの折り目に合わせる
- 親指を折りたたむ
- ほかの指を伸ばす
こうしたものが形です。
外から見える。
指摘できる。
直せる。
確認できる。
だから、稽古の入口として扱いやすい。
初心者に対しても、まずはここから教えるしかないと思います。
手はここ。
足はここ。
胸はこう。
あごはこう。
目線はここ。
指先はこう。
このように、外から見えるものを一つずつ合わせていく。
これは必要な稽古です。
型とは、その形が生まれる条件まで含んだものではないか
一方で、型はもう少し違うものとして見え始めています。
現時点では、こう仮置きしています。
型 = その形が生まれる身体の使い方、流れ、条件
たとえば、手の位置がそこにある。
それは外から見れば、手の位置として確認できます。
でも、型として考えるなら、
その手がなぜそこに来るのか。
どういう身体の使い方をした結果、そこに来るのか。
前の動きからどうつながって、次の動きへどう移るのか。
そこまで含んでいるのではないか。
胸も同じです。
胸を張るという形は外から見えます。
でも、型として考えるなら、
胸だけを張っているのか。
足、骨盤、背中、首の関係が合った結果として、胸が潰れずにそこにあるのか。
そこに違いがある気がしています。
あごも同じです。
あごを引いている形は外から見えます。
でも、首だけで引いているのか。
背中や頭の位置との関係の中で、あごがそこに収まっているのか。
そこは、外から見ただけでは分かりにくい。
だから、形だけでは足りないのではないかと思っています。
形を通らずに型には入れない
ただし、型の方が大事だから形はいらない、とは思っていません。
形を通らずに型には入れない。
今の自分には、そう見えています。
最初から、身体の使い方や、流れや、条件を感じ取ることは難しい。
そもそも、何が正しい方向なのか分からない。
だから、まず形を教わる。
外から見える基準をもらう。
その形に自分の身体を合わせていく。
この段階があるから、あとで違和感が出てくるのだと思います。
最初に形がなければ、
ここは何か違う
外から合わせているだけでは足りない
身体の中で何かが合うと、勝手にそこへ来る感じがある
という感覚も出てこない。
だから、形は必要です。
入口としての形を軽く見てはいけないと思っています。
でも、形だけでは型に届かない
一方で、形だけでは型に届かないとも思っています。
手の位置を合わせる。
足の位置を合わせる。
胸を張る。
あごを引く。
目線を合わせる。
それ自体は必要です。
でも、それだけを繰り返しても、型の中にある身体の使い方や流れには入っていけない気がします。
外から見える形を合わせることと、
その形が身体の条件から現れることは、たぶん同じではありません。
形を整えることと、
型に入ることは、たぶん同じではない。
たとえば、手をそこに置くことはできます。
でも、身体の流れの中で手がそこに来ることとは違う。
足をそこに置くことはできます。
でも、重心や前後の動きの中で、足がそこにしか出ないこととは違う。
あごを引くことはできます。
でも、首だけで引くのではなく、背中や頭の位置との関係であごがそこに収まることとは違う。
この違いを見ないまま、形だけを整え続けると、型の稽古は外形合わせに閉じてしまう気がしています。
「形から型へ」は、否定ではなく移行である
だから、自分としては「形から型へ」という言い方を、否定の意味では使いたくありません。
形を捨てて型へ行く。
形を馬鹿にして型へ行く。
外側を否定して内側へ行く。
そういう話ではありません。
形を通る。
形を身体に入れる。
形を基準にする。
その上で、
なぜその形なのか。
どういう身体の使い方からその形が生まれるのか。
どの流れの中で、その位置に来るのか。
どの条件が合うと、勝手に揃うのか。
そこへ入っていく。
だから、これは対立ではなく、段階として見た方がいい気がしています。
表記論争ではなく、稽古の段階として考える
この話は、表記論争ではありません。
「形」と書くのが正しいのか。
「型」と書くのが正しいのか。
その勝ち負けを決めたいわけではありません。
自分の流派では「型」として定義されています。
その前提はあります。
ただ、このシリーズで考えたいのは、表記の正しさよりも、稽古の中で何が起きているのかです。
外から見える形を合わせる段階がある。
その形が、身体の使い方や流れや条件から生まれる段階がある。
さらに、その先に、身体が勝手に揃うことを前提にした修行がある。
この階層を整理したい。
だから、ここでは「形」と「型」を対立させるのではなく、稽古の段階として見ています。
現時点の理解として
今の自分には、こう見えています。
形は、外から見える姿勢や位置である。
型は、その形が生まれる身体の使い方、流れ、条件まで含んでいるのではないか。
ただし、形と型は勝ち負けではありません。
形を否定して型へ行くのではない。
形を入口として通り、
その奥にある型の条件へ入っていく。
形を通らずに型には入れない。
でも、形だけでは型に届かない。
今の自分には、この順番で見ると、型稽古の構造が少し整理しやすくなります。
これは正解の説明ではありません。
武歴10年にも満たない自分が、
現時点で型稽古をどういう修行の階層として見ているのかを残すための稽古メモです。

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