ここまで、型について現時点で考えていることを書いてきました。
「形」と「型」を、いま自分はどう分けて見ているか。
「そうする」と「そうなる」は、同じ形でも違う気がしていること。
「嵌まる」という感覚について、いま言えること。
筋肉で形を作ることと、型に嵌まることの違い。
「脱力」ではなく、力の使い方が変わるのではないかということ。
型は静的な構造ではなく、動的なものとして見た方が近い気がしていること。
初心者には形を教えるしかないが、それだけで終わる危うさもあること。
これらはすべて、現時点での自分の理解です。
正解として書いたものではありません。
型について分かった人間の説明でもありません。
武歴10年にも満たない自分が、
いま型の稽古をどう受け取っているのかを残すために書いたものです。
ここまで書いたことは、現時点の理解でしかない
ここまで書いたことは、現時点の理解でしかありません。
たぶん、今後変わります。
数年後に読み返したら、
かなり違うことを言っているかもしれません。
「形」と「型」の分け方も変わるかもしれません。
「そうする」と「そうなる」の見方も変わるかもしれません。
「嵌まる」という言葉の意味も、
あとでまったく違うものとして捉え直すかもしれません。
力の使い方についても、
今よりもっと別の見方になるかもしれません。
テンセグリティや動的な構造についても、
もっと雑だったと感じるかもしれません。
初心者指導についても、
今の見方は浅かったと思うかもしれません。
でも、それでいいと思っています。
むしろ、変わらない方が怖い気もします。
稽古を続けているのに、
数年後もまったく同じ理解のままだとしたら、
それはそれで、自分が何も見直していないということかもしれません。
だから、この理解は変わる前提でいい。
今は、今の自分に見えていることを残しておきます。
間違っていたとしても、残しておく意味はある
ここまでの文章には、間違っているところもあると思います。
浅いところもあると思います。
言葉が足りないところもあると思います。
そもそも、見ている場所が違うところもあるかもしれません。
それでも、残しておく意味はあると思っています。
なぜなら、今の理解を残しておかないと、
あとで自分がどこから変わったのかが分からなくなるからです。
あとになって、
あの時は、形を外から作ることばかり見ていた。
あの時は、嵌まるという感覚をこう捉えていた。
あの時は、力の使い方をこの程度にしか見ていなかった。
あの時は、動的な構造という言葉で何かを掴もうとしていた。
そう振り返るためには、
その時点の理解が残っていなければなりません。
だから、間違っていても書いておく。
正しいかどうかより、
その時点で自分がどう見ていたのかを残す。
今回は、そういう目的で書いています。
稽古が進んだ時に、見落としていたものを確認したい
稽古が進めば、見えるものが変わると思います。
今は分かったつもりで書いていることも、
あとで読み返すと、かなり粗く見えるかもしれません。
たとえば、今は「形」と「型」を分けて考えています。
でも、数年後には、
その分け方そのものがまだ外側に寄っていたと感じるかもしれません。
今は「嵌まる」という言葉を使っています。
でも、あとになって、
その言葉では足りなかったと思うかもしれません。
今は「力の使い方が変わる」と書いています。
でも、もっと稽古が進めば、
力という言葉の捉え方自体が変わるかもしれません。
今は、型を動的なものとして見たいと書いています。
でも、あとになって、
動的という言葉だけでもまだ足りなかったと思うかもしれません。
そういう変化を確認するためにも、
今の理解を残しておきたい。
稽古が進んだ時に、
今の自分が何を見ていて、
何を見落としていたのかを確認できるようにする。
このシリーズを書いた理由は、そこにあります。
分かったことではなく、分かりかけていることを書く
このシリーズでは、分かったことを書こうとしたわけではありません。
分かったと言えるほど、まだ型を理解していません。
むしろ、分かっていないことの方が多いです。
それでも、稽古を続けていると、
少しだけ手触りのあるものが出てきます。
同じ形を稽古しているのに、
同じようには稽古していない気がする。
形を作ることと、
型に嵌まることは違う気がする。
胸を張ることと、
胸が潰れない位置に入ることは違う気がする。
あごを引くことと、
あごがそこに収まることは違う気がする。
手を合わせることと、
手がそこに来ることは違う気がする。
足を置くことと、
足がそこにしか出ないことは違う気がする。
そういう、まだ確信にはなっていない感覚があります。
今回は、それを書きました。
分かったことではなく、
今どう分かりかけているのかを書く。
このシリーズは、そういう稽古メモです。
変わることも、稽古の一部なのだと思う
今の理解が、あとで間違っていたと分かるかもしれません。
でも、それも稽古の一部なのだと思います。
稽古を続けていれば、
前に分かったと思ったことが、
あとで浅く見えることがあります。
前に使っていた言葉が、
あとで少し違って見えることがあります。
前に大事だと思っていたところより、
もっと別の場所が大事だったと気づくこともあります。
それは、前の理解が無意味だったということではないと思います。
その時点では、その理解が必要だった。
その理解を通ったから、次の違和感が見えた。
その言葉を使ったから、後でその言葉の足りなさにも気づける。
そう考えると、
今の理解があとで崩れることも、
稽古の一部なのだと思います。
現時点の理解として
ここまで書いたことは、現時点の理解でしかありません。
数年後には、かなり違うことを言っているかもしれません。
でも、それでいいと思っています。
このシリーズは、正解を書くためのものではありません。
武歴10年にも満たない自分が、
いま型について何を見ていて、
何に引っかかっていて、
何を分かりかけているのかを残すためのものです。
稽古が進んだ時に、
今の自分が何を見ていて、
何を見落としていたのかを確認できるようにする。
そのために書きました。
分かったことを書くのではなく、
今どう分かりかけているのかを書く。
その記録が、あとで間違っていたと分かるなら、
それも稽古の一部なのだと思います。
これは正解の説明ではありません。
現時点の自分の理解を保存しておくための、稽古メモです。

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