前回は、「そうする」と「そうなる」は同じ形でも違う気がしている、という話を書きました。
胸を張る。
あごを引く。
手を合わせる。
足を置く。
そうやって、外から教わった形に身体を合わせに行く稽古があります。
一方で、たまに、
胸が潰れない位置に入る。
あごがそこに収まる。
手がそこに来る。
足がそこにしか出ない。
そう感じることがあります。
今回は、その感覚をもう少し細かく書いておきます。
今の自分は、その感覚を「嵌まる」と呼んでいます。
ただし、これはまだ自分の中でも定義できている言葉ではありません。
うまく説明できない。
でも、ほかの言葉では少し足りない。
だから、今のところは「嵌まる」としか言いようがない。
その程度の、まだ不安定な言葉です。
「嵌まる」は、固まることではない
まず、今の自分が「嵌まる」と呼んでいるものは、固まることではありません。
形を崩さないように身体を固める。
姿勢を維持するために力で止める。
手足の位置がずれないように筋肉で押さえる。
そういう感覚とは違います。
固めると、たしかに形は止まります。
手の位置も動かない。
胸も張ったままになる。
あごも引いたままになる。
姿勢も崩れにくくなる。
でも、その時の身体は、どこか重い。
次に動こうとすると、一度ほどかないと動けない感じがあります。
止まっている時には形になっていても、
次の動きに入る時に、固めたものを解除しなければならない。
今の自分が「嵌まる」と呼んでいる感覚は、それとは違います。
嵌まった時は、止まっているようで、次に動ける余地が残っている気がします。
形はある。
でも固まってはいない。
そこが、まず大きく違う気がしています。
「嵌まる」は、気持ちよく決まることでもない
「嵌まる」と言うと、気持ちよく決まることのようにも聞こえるかもしれません。
でも、それとも少し違う気がしています。
気持ちよく決まった感じは、稽古の中でたしかにあります。
今日は動きが軽い。
今日は形が決まる。
今日は身体がよく動く。
そう感じる日があります。
ただ、それだけでは「嵌まる」とは言い切れない気がします。
気持ちよく決まっているだけなら、
それはその日の調子かもしれません。
自分の得意な力の入れ方に入っただけかもしれません。
見た目がうまくまとまっただけかもしれません。
今の自分が言いたい「嵌まる」は、
単に気分よく決まったというより、
身体の中の関係が合って、教わった形がそこにしか来ないように感じることに近いです。
だから、気持ちよさだけでは足りない。
気持ちいいかどうかよりも、
その形が、身体の条件としてそこに現れているかどうか。
今の自分は、そこを見たいと思っています。
「嵌まる」は、癖に戻ることでもない
また、「嵌まる」は、自分の癖に戻ることでもありません。
身体には、慣れた動き方があります。
立ちやすい立ち方。
力を入れやすい場所。
固めやすい場所。
逃がしやすい方向。
そういうものがあります。
自分では自然にやっているつもりでも、
実際には、いつもの癖に戻っているだけということもあると思います。
ただ、今ここで言いたい「嵌まる」は、そういう意味ではありません。
いつもの癖に戻って落ち着くことを、嵌まると呼びたいわけではない。
むしろ、嵌まったと感じる時は、
いつもの力の入れ方とは少し違う感じがあります。
いつものように胸だけで張っていない。
いつものように首だけであごを引いていない。
いつものように手先だけで合わせていない。
いつものように足だけを置いていない。
そういう、いつもの部位ごとの操作から少し外れる感じがあります。
だから、自分の癖に戻って安心することとは違う。
むしろ、今までとは違う身体の関係に一瞬入る感じがある。
その感覚を、今の自分は「嵌まる」と呼んでいます。
「嵌まる」は、ただ形を作ることでもない
「嵌まる」は、ただ形を作ることでもありません。
形を作る稽古では、外から見える位置を合わせます。
手はここ。
足はここ。
胸はこう。
あごはこう。
目線はここ。
指先はこう。
それを一つずつ合わせていく。
これは必要な稽古です。
ただ、形を作っている時は、
自分の身体を外から見える正解に合わせに行く感じがあります。
一方で、嵌まったと感じる時は、
外から合わせに行くというより、
身体の中の条件が合った結果として、その形がそこに現れる感じがあります。
手をそこに置くのではなく、そこに来る。
あごを引くのではなく、そこに収まる。
胸を張るのではなく、潰れない位置に入る。
足を置くのではなく、そこにしか出ない。
この違いが、今の自分には大きいです。
現時点での「嵌まる」の仮置き
ここまでの否定を踏まえると、
今の自分にとって「嵌まる」は、こういう感覚に近いです。
身体の使い方の条件が合ったとき、
教わった形がそこにしか来ないように感じること。
ただし、これはまだかなり仮の言葉です。
本当にこれで合っているのかは分かりません。
あとで稽古が進んだら、違う言葉で言い直すかもしれません。
それでも、現時点では、これが一番近い気がしています。
嵌まるとは、形を外から作ることではない。
固めることでもない。
気持ちよく決まることでもない。
癖に戻ることでもない。
身体の条件が合った結果として、
教わった形が、そこにしか来ないように感じること。
今の自分には、そう見えています。
ただし、まだ本当にできているわけではない
ここで大事なのは、私はまだそれを本当にできているわけではないということです。
嵌まるという感覚が分かってきた気はしています。
でも、安定して再現できるわけではありません。
毎回そこに入れるわけでもありません。
型全体を通して嵌まり続けるようなことも、まだできていないと思います。
むしろ、今の自分は、
「嵌まる」という感覚の入口が少し分かってきた段階なのだと思います。
ある時だけ、少し分かる。
でも、次にやると消える。
再現しようとすると、また外から形を作る感じに戻ってしまう。
だから、分かったとは言えません。
ただ、全く分からないとも言えない。
何かがある。
その何かを、今の自分は「嵌まる」と呼んでいます。
嵌まり方にも段階がある気がする
もう一つ、今の自分が感じていることがあります。
それは、嵌まると言っても、一段階ではないのではないか、ということです。
嵌まったか、嵌まっていないか。
そういう二択ではなく、
嵌まり方にも深さや広がりがある気がしています。
まだ整理しきれていませんが、現時点では、次のような段階がありそうに感じています。
1. 部分的に嵌まる
まずは、身体の一部で「あ、ここかもしれない」と感じる段階があります。
たとえば、あごの位置。
首だけで引くのではなく、背中や頭の位置まで含めて、
あごがそこに収まるように感じる。
あるいは、手の位置。
手先だけで合わせるのではなく、
肩、肘、手首、指先の関係が少し合った結果として、
手がそこに来る。
この段階では、まだ全体ではありません。
でも、一部分について、
外から作るのとは少し違う感覚が出る。
これが、部分的に嵌まるということなのかもしれません。
2. 複数の部位の関係が嵌まる
次に、ひとつの部位だけではなく、
複数の部位の関係が合う感じがあります。
たとえば、あごだけではなく、首、背中、胸の関係。
手だけではなく、肩、肘、手首、指先の関係。
足だけではなく、足裏、膝、骨盤、上体の関係。
ひとつの場所を直すのではなく、
いくつかの場所が一緒に決まるような感じです。
この時、身体の中で起きていることは、
部位ごとの足し算ではない気がします。
一箇所が変わると、別の場所も一緒に変わる。
いくつかの部位が、別々ではなく関係として収まる。
今の自分には、そういう嵌まり方がある気がしています。
3. 姿勢全体が嵌まる
さらに進むと、姿勢全体が嵌まるという段階があるのかもしれません。
気をつけで言えば、
足、膝、骨盤、背中、胸、首、あご、肩、腕、手、指先が、
別々ではなく一つの姿勢として収まる。
これは、今の自分にはまだほとんど分かっていない領域です。
ただ、部分だけが合っているのではなく、
全体として「ここ」という状態があるのではないか。
そう感じることがあります。
もし姿勢全体が嵌まるとしたら、
それは単にきれいに立てているということではないと思います。
力で保っているのではなく、
身体全体の関係として、その姿勢が保たれている。
そういう状態なのかもしれません。
4. 動きの中で嵌まる
ただ、型は止まった姿勢だけではありません。
動きがあります。
方向を変える。
足を運ぶ。
受ける。
突く。
沈む。
伸びる。
だから、止まった姿勢で嵌まるだけでは足りないのだと思います。
動きの中で、その都度、身体の条件が合っていく。
足がそこにしか出ない。
手がそこにしか来ない。
重心がそこを通る。
次の動きに無理なくつながる。
そういう嵌まり方があるのではないか。
今の自分には、まだかなり遠い感覚です。
ただ、型の中で考えるなら、
最終的には止まった形だけではなく、動きの中で嵌まることが必要なのではないかと感じています。
5. 型全体の流れの中で嵌まる
さらに上には、型全体の流れの中で嵌まるという段階がある気がします。
ひとつの立ち方。
ひとつの手の位置。
ひとつの方向転換。
ひとつの受け。
ひとつの突き。
それぞれが単独で嵌まるだけではなく、
前の動きから次の動きへつながる中で嵌まっていく。
一つの形が、前の動きの結果であり、
次の動きの条件にもなっている。
そういう流れの中で、型全体が成立していくのではないか。
今の自分には、まだほとんど分かっていません。
ただ、部分的に嵌まる感覚があるなら、
その先には、型全体の流れとして嵌まる感覚もあるのではないか。
そう感じています。
今の自分は、入口にいるだけだと思う
ここまで書いてきましたが、
今の自分がこれらをできているとは思っていません。
部分的に嵌まる感覚が、少し分かってきた気がする。
複数の部位の関係が合う感じも、少しだけある。
でも、姿勢全体が嵌まるところまではまだ遠い。
動きの中で嵌まることも、型全体の流れの中で嵌まることも、
まだほとんど分かっていない。
今の自分は、たぶん入口にいるだけです。
ただ、その入口に立ったからこそ、
先にまだ階層がありそうだと感じるようになりました。
この感覚を、今の段階で残しておきたい。
現時点の理解として
今の自分には、「嵌まる」という感覚は、こう見えています。
嵌まるとは、身体の使い方の条件が合ったときに、
教わった形がそこにしか来ないように感じること。
ただし、それは固まることではありません。
気持ちよく決まることでもありません。
癖に戻ることでもありません。
ただ形を作ることでもありません。
そして、嵌まり方には段階がある気がしています。
- 部分的に嵌まる
- 複数の部位の関係が嵌まる
- 姿勢全体が嵌まる
- 動きの中で嵌まる
- 型全体の流れの中で嵌まる
これは、まだ仮説です。
今後、かなり変わるかもしれません。
それでも、現時点の自分には、
「嵌まる」という言葉でしか拾えない感覚があります。
私はまだ、本当にそれができているわけではありません。
でも、その感覚の入口だけは、少し分かってきた気がしています。
これは正解の説明ではなく、
武歴10年にも満たない自分が、現時点で型をどう受け取っているのかを残すための稽古メモです。

コメント
## 補記:近い研究について、AIに調べてもらった
この記事を書いたあとで、
自分が書いた「嵌まる」という感覚に近い研究や概念がないか、
AIに調べてもらった。
もちろん、ここで挙げる研究が、
空手の型や「嵌まる」という感覚を直接説明しているわけではない。
また、これらの研究を根拠にして、
自分の理解が正しいと証明したいわけでもない。
この記事で書いたのは、
あくまで今の自分が稽古中に感じている感覚である。
「嵌まる」は、
固まることではない。
気持ちよく決まることでもない。
癖に戻ることでもない。
ただ形を外から作ることでもない。
身体の使い方の条件が合ったとき、
教わった形がそこにしか来ないように感じること。
今の自分は、
その感覚を仮に「嵌まる」と呼んでいる。
この感覚を考えるうえで、
近い研究や概念はいくつかあった。
### 1. 暗黙知
研究名は、暗黙知。
研究者は、マイケル・ポランニー。
暗黙知は、
人間には言葉では説明しきれない知識がある、
という考え方である。
本文との共通点は、
身体の中で起きていることが、
すぐには言葉にしきれないという点である。
「嵌まる」と感じる時、
外から見れば、
手の位置や足の位置が合っているだけに見えるかもしれない。
胸が潰れていない。
あごが収まっている。
手がそこに来ている。
足がそこに出ている。
ただ、それは単に形を合わせた感じとは違う。
身体の中の関係が合った結果として、
その形がそこにしか来ないように感じる。
この違いは、
言葉だけでは説明しにくい。
だから、
「嵌まる」という言葉で仮に置いている。
その点では、
暗黙知の考え方と近い。
ただし、本文との差分もある。
この記事で言いたいのは、
「言葉にできないから説明しなくてよい」
ということではない。
むしろ逆である。
まだ説明しきれない。
まだ安定してできるわけでもない。
それでも、
稽古中に感じた小さな違いを、
今の時点で言葉に残しておきたい。
本文で書いているのは、
暗黙知を神秘化することではない。
「嵌まる」としか言いようがない感覚を、
未完成のまま稽古メモとして残すことである。
### 2. 運動技能習得の三段階モデル
研究名は、運動技能習得の三段階モデル。
研究者は、ポール・フィッツとマイケル・ポズナー。
このモデルでは、
運動技能の習得には段階があるとされる。
最初は、動きを頭で考えながら行う段階。
次に、失敗を修正しながら安定させる段階。
さらに進むと、動きが自動化されていく段階。
本文との共通点は、
同じ形を稽古していても、
段階によって中身が変わるという点である。
最初は、
手はここ。
足はここ。
胸はこう。
あごはこう。
目線はここ。
指先はこう。
そうやって、
外から見える形を一つずつ合わせに行く。
これは必要な稽古である。
形を知らなければ、
何を稽古しているのか分からない。
ただ、稽古を続けていくと、
同じ形を取っているはずなのに、
部位ごとに作っている時と、
身体の関係が合った結果としてその形になる時があるように感じる。
この記事で書いた「嵌まる」は、
その違いに関係している。
この点は、
運動技能の習得には段階がある、
という考え方と近い。
ただし、本文との差分もある。
このモデルは、
技能がどのように上達していくかを整理するためのものである。
本文で書いているのは、
自分がどの段階にいるかを判定することではない。
また、
「嵌まる」が自動化された完成段階だ、
と言いたいわけでもない。
自分はまだ、
嵌まる感覚を安定して再現できるわけではない。
型全体を通して嵌まり続けることも、
まだできていない。
本文で書いているのは、
完成した技能の説明ではなく、
入口が少し見えた気がする段階の記録である。
### 3. 制約主導アプローチ
研究名は、制約主導アプローチ。
研究者としては、
カール・ニューウェルの制約の考え方が近い。
この考え方では、
動きは、身体、課題、環境などの条件の中で生まれるものとして捉えられる。
本文との共通点は、
「嵌まる」を、
一つの部位だけの操作ではなく、
条件が合った結果として形が現れる感覚として見ている点である。
あごがそこに収まる。
それは、
首だけの問題ではない。
背中。
胸。
頭の位置。
肩の落ち方。
そうした条件が関係して、
結果としてあごがそこに収まる。
手がそこに来る。
それも、
手先だけの問題ではない。
肩。
肘。
手首。
指先。
胴体とのつながり。
そうした関係が合った結果として、
手がそこに来る。
足がそこにしか出ない。
それも、
足だけの問題ではない。
重心。
接地。
骨盤。
前の動き。
次の動きへの準備。
そうした条件が関係している。
この見方は、
動きを条件の組み合わせから見る考え方と近い。
ただし、本文との差分もある。
制約主導アプローチは、
運動学習やスポーツ科学の文脈で使われる考え方である。
この記事は、
型稽古を科学モデルに置き換えたいわけではない。
また、
身体、課題、環境という言葉で、
空手の型を説明し切れるとも思っていない。
本文で言っている「条件」は、
研究上の厳密な制約という意味ではない。
今の自分が稽古中に感じている、
身体の関係、
流れ、
収まりのようなものである。
「嵌まる」とは、
その条件が合った時に、
教わった形がそこにしか来ないように感じること。
この点では近いが、
同じものとして扱いたいわけではない。
### 4. ダイナミカルシステムズ理論、自己組織化
研究名は、
ダイナミカルシステムズ理論、
または自己組織化の考え方。
研究者としては、
J・A・スコット・ケルソーの研究が近い。
この考え方では、
動きや行動は、
一つの命令で部品を動かすというより、
複数の要素が関係し合う中で生まれるものとして見られる。
本文との共通点は、
「嵌まる」という感覚が、
部位ごとの命令では説明しにくい点である。
胸を張る。
あごを引く。
手を合わせる。
足を置く。
これらを一つずつ命令として行うと、
身体は部位ごとになる。
胸は胸。
あごはあご。
手は手。
足は足。
それぞれを別々に操作して、
外から見える形に合わせに行く。
しかし、
「嵌まる」と感じる時は、
胸だけ、あごだけ、手だけ、足だけを操作している感じではない。
複数の部位の関係が合い、
結果として形がそこに現れる。
この記事では、
部分的に嵌まる、
複数の部位の関係が嵌まる、
姿勢全体が嵌まる、
動きの中で嵌まる、
型全体の流れの中で嵌まる、
という段階を仮に置いた。
この見方は、
動きが複数の要素の関係から生まれる、
という自己組織化の考え方と近い部分がある。
ただし、本文との差分もある。
自己組織化という言葉に寄せすぎると、
型や先生の指導の意味が薄くなる危険がある。
この記事では、
「自然に任せれば勝手に嵌まる」
と言いたいわけではない。
型には、
外から教わる形がある。
先生から示される基準がある。
手はここ。
足はここ。
胸はこう。
あごはこう。
目線はここ。
指先はこう。
そうした形を稽古することは必要である。
「嵌まる」は、
形を捨てることではない。
教わった形を稽古する中で、
身体の条件が合い、
その形がそこにしか来ないように感じることである。
ここを外すと、
本文の話は崩れる。
### 5. 自由度問題
研究名は、自由度問題。
研究者は、ニコライ・ベルンシュタイン。
自由度問題は、
人間の身体には関節や筋肉など多くの自由度があり、
同じ目的の動きを実現するにも、
さまざまな動き方があり得る、
という問題である。
本文との共通点は、
身体の部位がばらばらに動く状態と、
それらが関係としてまとまる状態の違いを考えている点である。
型の形を外から作る時、
手、足、胸、あご、目線、指先を、
一つずつ合わせに行く。
しかし身体には、
いくらでも逃げ方がある。
胸を張ったつもりで腰が反る。
あごを引いたつもりで首が固まる。
手を合わせたつもりで肩が上がる。
足を置いたつもりで重心が乗らない。
外から見える形に近づいても、
身体の中では別のところに無理が出ることがある。
「嵌まる」と感じる時は、
そうしたばらばらの自由度が、
一瞬、関係として収まる感じがある。
力で押さえて固めるのではなく、
身体の関係として、
そこにしか来ないように感じる。
この点は、
多くの自由度をどう協調させるかという問題と近い。
ただし、本文との差分もある。
自由度問題は、
運動制御の一般的な問題である。
本文で書いているのは、
神経科学や運動制御の理論そのものではない。
また、
自由度を減らすことだけが大事だ、
と言いたいわけでもない。
本文で否定しているように、
「嵌まる」は固まることではない。
形を崩さないために身体を固めると、
一見まとまったように見える。
しかし、
次に動こうとすると、
一度ほどかないと動けない。
それは「嵌まる」とは違う。
本文で言いたいのは、
自由度を力で殺すことではなく、
身体の関係として収まることだと思っている。
### 6. 注意の焦点
研究名は、注意の焦点に関する運動学習研究。
研究者は、ガブリエレ・ウルフ。
この研究では、
運動学習において、
身体の部位そのものに注意を向ける場合と、
動きの結果や効果に注意を向ける場合で、
学習やパフォーマンスに違いが出ることが論じられている。
本文との共通点は、
部位ごとに意識しすぎると、
動き全体が固まりやすいという点である。
胸を張る時に、
胸だけを張ろうとする。
あごを引く時に、
首だけで引こうとする。
手を合わせる時に、
手先だけで合わせようとする。
足を置く時に、
足だけを置こうとする。
そうすると、
外から見た形には近づくかもしれない。
しかし、
身体全体の関係としては合っていないことがある。
本文で書いた「嵌まる」は、
部位ごとの操作から少し外れ、
身体の関係が合った結果として形がそこに現れる感覚である。
この点は、
身体の部位への注意と、
動き全体のまとまりの問題に近い。
ただし、本文との差分もある。
注意の焦点の研究は、
運動学習一般を扱うものである。
本文で書いているのは、
単に「身体の部位を意識しない方がよい」
という話ではない。
空手の型では、
胸、あご、手、足、指先、目線など、
部位ごとの形を教わることは必要である。
最初から全体だけを感じようとしても、
何を稽古しているのか分からなくなる。
だから、
部位への注意は悪い、
という話ではない。
部位ごとに形を作る稽古は必要である。
ただし、
そこで終わると、
外から形を作る稽古に留まりやすい。
稽古を続ける中で、
身体全体の関係が合い、
結果としてその形が現れる感覚がある。
それを、
今の自分は「嵌まる」と呼んでいる。
### まとめ
AIに調べてもらうと、
この記事に近い研究や概念はいくつかあった。
暗黙知。
運動技能習得の三段階モデル。
制約主導アプローチ。
ダイナミカルシステムズ理論。
自由度問題。
注意の焦点。
どれも、
本文の一部とは重なる。
身体で分かることは、
すぐには言葉にできない。
同じ形でも、
稽古の段階によって中身が変わる。
動きや形は、
一つの部位だけで作られるのではなく、
複数の条件が合った結果として現れることがある。
身体には多くの自由度があり、
それがばらばらに逃げることもあれば、
関係として収まることもある。
部位ごとに意識しすぎると、
かえって全体が固まることもある。
こうした点では、
この記事で書いた「嵌まる」という感覚と近い。
ただし、
この記事は研究紹介ではない。
また、
これらの研究によって、
空手の型を説明し切れるとも思っていない。
自分が書きたかったのは、
もっと稽古の中の具体的な感覚である。
「嵌まる」は、固まることではない。
気持ちよく決まることでもない。
癖に戻ることでもない。
ただ形を作ることでもない。
身体の使い方の条件が合ったとき、
教わった形が、
そこにしか来ないように感じること。
そして、
嵌まり方にも段階がある気がしている。
部分的に嵌まる。
複数の部位の関係が嵌まる。
姿勢全体が嵌まる。
動きの中で嵌まる。
型全体の流れの中で嵌まる。
これは、まだ仮説である。
今後、かなり変わるかもしれない。
それでも、
現時点の自分には、
「嵌まる」という言葉でしか拾えない感覚がある。
この補記は、
その感覚を、
少しだけ別の角度から見直すためのものである。