前回は、「脱力」ではなく、力の使い方が変わるのではないか、という話を書きました。
力を使うか、使わないか。
その二択ではなく、
何によって形が成立しているのか。
今の自分には、そこが大事な問いに見えています。
今回は、その続きとして、型の中の形をどう見るかについて書いておきます。
現時点の自分には、型の中の形は、写真のように止まった静止姿勢ではなく、
動きの中で一瞬成立する均衡点のようなものとして見た方が近い気がしています。
テンセグリティ構造という説明について
身体の使い方について、テンセグリティ構造という言葉を聞くことがあります。
骨格や筋膜や筋肉の張りが、全体として支え合っている。
一か所だけで支えるのではなく、張力と圧縮の関係で全体が保たれている。
そういう説明は、たしかに分かりやすいところがあります。
筋肉で一部を固めて形を作るのではなく、
身体全体の張りや関係の中で形が保たれる。
その見方は、自分が感じている「型に嵌まる」感覚にも近いところがあります。
ただ、それを静的な構造として理解すると、少し雑になる気がしています。
止まった模型のように、
張りと支えのバランスがきれいに取れている。
そういうイメージだけでは、型の稽古には足りない気がします。
なぜなら、型は止まっていないからです。
気をつけでさえ、完全な静止ではない
たとえば、気をつけの姿勢を考えてみます。
外から見れば、気をつけは止まっている姿勢です。
結び立ちになる。
胸を張る。
あごを引く。
中指をズボンの折り目に合わせる。
親指を折りたたむ。
ほかの指を伸ばす。
見た目としては、静止しているように見えます。
でも、実際には完全に止まっているわけではありません。
呼吸があります。
足裏の接地があります。
重心の微細な調整があります。
姿勢を保つための細かい働きがあります。
そして、次の動きへの準備があります。
だから、気をつけでさえ、本当は完全な静止ではないのだと思います。
止まって見えるけれど、身体の中ではいろいろなものが微細に動いている。
その状態を、ただの静的な構造として見ると、何かを見落とす気がしています。
止まっている形ではなく、動けるまま保たれている形
前にも書いたように、筋肉で形を作ると、形は止まりやすくなります。
胸を張る。
あごを引く。
手を合わせる。
足を置く。
それぞれを筋肉で固めれば、見た目としての形は保ちやすい。
ただ、その形は、次に動く時に一度ほどく必要があることがあります。
胸を固めていたら、次に動く時に胸をほどく。
首を固めていたら、首をほどく。
肩や腕を固めていたら、そこをほどく。
つまり、形は止まっているけれど、次へつながりにくい。
今の自分には、それは型の中の形とは少し違う気がしています。
型の中の形は、止まるための形ではなく、
次へ移れるまま保たれている形なのではないか。
外からは一瞬止まって見える。
でも、その中には呼吸があり、接地があり、重心があり、次の動きへの準備がある。
そういう状態として見た方が、今の自分にはしっくり来ます。
型の形は、前の動きの結果であり、次の動きの条件でもある
型の中の一つひとつの形は、単独で置かれているわけではないと思います。
前の動きがあります。
その前の動きの結果として、その形が出る。
そして、その形は次の動きへの条件にもなる。
たとえば、足がそこにあるのは、そこだけを切り取って決まっているのではなく、
前の重心移動や身体の向きの結果として、そこに来ているのではないか。
手の位置も同じです。
手をそこに置くのではなく、
前の動きからの流れの中で、そこに来る。
そして、その位置が次の動きにつながる。
そう考えると、型の中の形は、写真のような完成形ではなく、
前後の流れの中で一瞬成立するものとして見た方がよい気がします。
つまり、形は結果であり、同時に次の条件でもある。
この見方をしないと、型が静止した形の連続に見えてしまう。
今の自分には、それでは少し浅い気がしています。
動的な均衡点としての形
今の自分には、型の中の形は、動的な均衡点のようなものに感じられます。
均衡点と言っても、完全に止まった点ではありません。
動きの中で、ある瞬間だけ成立するまとまり。
前の動きから流れてきて、
その瞬間に形として現れ、
次の動きへつながっていく。
そういう一時的な成立です。
気をつけも、立ち方も、受けも、突きも、
外から見れば形として見えます。
でも、その形が本当に型の中で生きているなら、
そこには次へ動ける余地が残っているはずです。
固まっているのではない。
抜けているのでもない。
必要な形がありながら、次へつながる。
今の自分には、それが「動的なものとして型を見る」ということに近い気がしています。
一人で整っているだけでは足りない気もしている
ただ、ここでもう一つ考えておきたいことがあります。
型は一人で打ちます。
でも、その中には相手の存在が想定されているはずです。
受ける。
突く。
払う。
掴まれる。
押される。
崩す。
返す。
そう考えると、型の中の形は、
自分の身体の中だけで整っていればよいものではないのかもしれません。
相手と接触した瞬間に、その形がどう働くのか。
相手から力が入った時に、局所で固まってしまうのか。
それとも、身体全体に力が通るのか。
受けた力が、次の動きにつながるのか。
ここまで含めて考えないと、型を動的なものとして見ているとは言えない気もしています。
ただ、この部分は、今の自分にはまだかなり難しいです。
一人で形を作ること。
一人で動きの中の均衡を探ること。
相手と接触した時に、その形が働くこと。
この三つは、つながっているはずですが、同じではない気がします。
今はまだ、そこをうまく整理できていません。
それでも、型を動的なものとして考えるなら、
相手と接触した後の話を避けると浅くなる気がしています。
静的、動的、接触後という三つの層
今の自分には、型の中の形を三つの層で見た方がよさそうに感じています。
- 静止した外形としての形
- 呼吸や重心や接地の中で更新される動的な形
- 相手と接触した後にも働く形
まず、静止した外形としての形があります。
手の位置。
足の位置。
姿勢。
目線。
角度。
これは、外から確認できる形です。
次に、動的な形があります。
呼吸がある。
接地がある。
重心の微細な調整がある。
次の動きへの準備がある。
止まって見えても、中では動き続けている形です。
さらに、その先に、相手と接触した後にも働く形があるのではないか。
相手から力が入った時に、
形が壊れるのか、固まるのか、流れるのか、返せるのか。
ここまで含めて見ないと、型の形を本当に分かったとは言えない気がしています。
もちろん、今の自分はまだそこまで分かっていません。
ただ、少なくとも、型の形を静止した見た目だけで見ていると、
かなり大事なものを落としてしまうのではないか。
今は、そう感じています。
写真のような完成形ではなく、流れの中で成立するもの
型の中の形を、写真のように切り取って見ることはできます。
この時の手の位置。
この時の足の位置。
この時の姿勢。
この時の角度。
それは必要です。
形を確認するには、切り取って見ることも必要です。
ただ、それだけでは型の中の形を見たことにはならないのではないか。
その形が、どこから来たのか。
その形が、次にどこへつながるのか。
その形が、相手と接触した時にどう働くのか。
そこまで含めて考えた時、
型の中の形は、止まった完成写真ではなく、
流れの中で一瞬成立するものとして見えてきます。
今の自分には、その見方が一番しっくり来ます。
現時点の理解として
今の自分には、こう見えています。
身体をテンセグリティ構造として説明する話はある。
ただ、それを静的な構造としてだけ理解すると、型の稽古には少し足りない気がする。
型は止まっていない。
気をつけでさえ、完全な静止ではない。
呼吸がある。
接地がある。
重心の微細な調整がある。
次の動きへの準備がある。
さらに、型には相手の存在も想定されている。
相手と接触した後に、その形がどう働くのかも考えないと、型を動的に見ているとは言えない気がする。
型の形は、写真のような静止姿勢ではなく、
動きの中で一瞬成立する均衡点のようなものとして見た方が、
今の自分にはしっくり来ます。
ただし、これはまだ仮説です。
静的な形。
動的な形。
相手と接触した後にも働く形。
この三つをどうつなげて理解すればよいのか、まだ分かっていません。
それでも、型を静止した形の連続としてだけ見ると、
自分が稽古の中で感じているものとは少しズレる気がしています。
これは正解の説明ではありません。
武歴10年にも満たない自分が、
現時点で型をどう受け取っているのかを残すための稽古メモです。

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