第6回 「脱力」ではなく、力の使い方が変わるのではないか

前回は、筋肉で形を作ることと、型に嵌まって形が保たれている時では、内側で起きていることが違う気がする、という話を書きました。

最初は、筋肉の収縮で形を作る。

それは悪いことではない。
むしろ、形を覚えるには必要な段階だと思っています。

ただ、筋肉で形を作っていると、特定の部位が形を支えることになり、長く保つのが難しくなる。

一方で、型に嵌まってくると、同じ形でも、筋肉で固めている時より楽に保てる気がする。

ただし、それは力がなくなるという意味ではない。

今回は、その続きとして、

「脱力」ではなく、力の使い方が変わるのではないか

ということについて、現時点の理解を書いておきます。

「脱力」という言葉は便利だが、少し危うい

空手や武道の話では、「脱力」という言葉を聞くことがあります。

力を抜く。
余計な力を抜く。
力まない。
固めない。

言葉としては分かりやすいです。

ただ、自分の中では、この「脱力」という言葉には少し危うさも感じています。

なぜなら、「脱力」と言われると、

力を入れないことが正しい

と受け取ってしまいやすいからです。

特に初心者の段階では、そうなりやすい気がします。

力を抜こうとすると、姿勢まで抜ける。

手の位置が甘くなる。
足元が緩む。
胸が落ちる。
目線がぼやける。
指先が死ぬ。

そうなると、形そのものが崩れてしまいます。

だから、今の自分は、「脱力」という言葉だけでは足りないのではないかと思っています。

最初は力で構わないと思う

最初は、力で構わないと思っています。

胸を張る。
あごを引く。
手を合わせる。
足を置く。
指を伸ばす。

これらを覚える段階では、力を使って形を作るしかない場面があります。

最初から楽にやろうとして、形が崩れるくらいなら、まずは力を使ってでも形を作った方がいい。

今の自分は、そう考えています。

力を入れること自体が悪いわけではありません。

力を入れて形を作るから、形が身体に入る。

力を入れて保とうとするから、どこが疲れるのかが分かる。

力を入れてやってみるから、自分がどこで固まりやすいのかも見えてくる。

だから、「力を入れること」をいきなり悪者にしたくありません。

最初は力で構わない。

むしろ、力を使って形を作る段階は必要なのだと思っています。

力でかなり達成できる世界もある

もうひとつ、書いておきたいことがあります。

力でかなり達成できる世界もある、ということです。

若さがある。
筋力がある。
瞬発力がある。
体力がある。

そういう身体で稽古している時には、力でかなりのことができます。

強く突ける。
速く動ける。
低く立てる。
形をしっかり保てる。
勢いで押し切れる。

それは、それで一つの強さだと思います。

若さや筋力や瞬発力で成立する稽古を、低いものとして扱いたいわけではありません。

そこには、そこにしかない強さがあります。

力で作る稽古。
力で動く稽古。
力で保つ稽古。

それらを否定するつもりはありません。

むしろ、自分もその世界の中で稽古してきた部分があります。

だから、力を使う稽古を、単純に未熟なものとして扱うのは違うと思っています。

ただ、年齢を重ねると同じやり方が難しくなる

ただ、年齢を重ねると、同じやり方が少しずつ難しくなる気がしています。

若い頃と同じように力で押し切る。

同じように筋肉で形を支える。

同じように瞬発力で動く。

それが、だんだん難しくなる。

筋力が落ちる。
回復に時間がかかる。
関節に負担が出る。
無理に力で保つと、どこかに痛みが出る。
長く続けると疲れが抜けにくくなる。

そうなった時に、力で成立させる稽古だけでは、続けにくくなるのではないか。

今の自分は、そこを少し感じ始めています。

これは、力の世界を否定する話ではありません。

ただ、年齢を重ねた時に、同じ力の使い方だけでは成り立ちにくくなる。

そこで、別の問いが出てくる。

力で形を作る以外に、形が保たれる道はないのか。

今の自分には、その問いが少し出てきています。

「力を抜く」より、力の置き場所が変わるのではないか

ここで、「脱力」という言葉に戻ります。

年齢を重ねて、力だけで成立させることが難しくなってきた時に、

では、力を抜けばいいのか

というと、それも少し違う気がしています。

力を抜けばよい、ではない。

力がなくなるわけでもない。

むしろ、力は必要です。

ただ、その力の置き場所や、働き方が変わるのではないか。

今の自分には、そう感じられます。

手先で頑張っていた力が、肩や背中や足元との関係の中に移る。

首だけであごを引いていた力が、背中や頭の位置との関係の中に変わる。

胸だけで張っていた力が、足、骨盤、背中、首との関係の中で保たれる。

足だけで置いていたものが、重心や流れの中でそこに出る。

そういうふうに、力が消えるのではなく、力の働き方が変わる。

この方が、今の自分には「脱力」より近い気がしています。

抜けるのではなく、散るのでもなく、通るのかもしれない

まだうまく言えませんが、力の使い方が変わるというのは、単に力が抜けることではない気がします。

力が抜けすぎると、形が崩れます。

手が死ぬ。
姿勢が落ちる。
足元が緩む。
目線がなくなる。

それは、型に嵌まることとは違うと思います。

一方で、力が入りすぎると、固まります。

胸が固まる。
首が固まる。
肩が固まる。
腕が固まる。
足元が固まる。

それもまた、型に嵌まることとは違う気がします。

では何なのか。

今の自分には、力が抜けるというより、力が通る、という感覚に近いのかもしれません。

ただ、これもまだはっきり分かっているわけではありません。

特定の部位だけが頑張っているのではない。

でも、力がないわけでもない。

身体の関係の中で、必要な力が必要な場所に働いている。

そういう状態があるのではないか。

今は、そのくらいにしか言えません。

型に嵌まる時、力は消えていない

型に嵌まる感覚が少し出てくる時、力は消えていないと思います。

むしろ、形は保たれています。

姿勢もあります。
手の位置もあります。
指先もあります。
足元もあります。
目線もあります。

だらっとしているわけではありません。

ただ、どこか一箇所で無理に支えている感じが減る。

胸だけで張っていない。
首だけであごを引いていない。
手先だけで合わせていない。
脚だけで立っていない。

身体全体の関係の中で、形が保たれている。

だから、筋肉で固めている時より楽に感じる。

でも、力が抜けて弱くなっているわけではない。

ここが難しいところです。

楽なのに抜けていない。
力んでいないのに弱くない。
固まっていないのに形がある。

今の自分が探しているのは、たぶんそのあたりです。

問題は、力を使うか使わないかではない

ここまで考えると、問題は、力を使うか使わないかではない気がしてきます。

力を使うのが悪い。
力を抜くのが正しい。

そういう単純な話ではない。

最初は力で形を作る。

それは必要です。

力でかなり達成できる世界もある。

それも否定しません。

ただ、稽古を続けたり、年齢を重ねたりする中で、
同じ形を力だけで支え続けることが難しくなる時がある。

その時に、力をなくすのではなく、
力の置き場所や働き方が変わる世界が見えてくるのではないか。

今の自分には、そう感じられます。

現時点の理解として

今の自分には、こう見えています。

脱力という言葉は便利だが、
「力を入れないこと」と受け取ると、かえって分からなくなることがある。

最初は力で構わない。
力で形を作ることは、形を覚えるために必要な段階だと思う。

力でかなり達成できる世界もある。
若さ、筋力、瞬発力で成立する稽古もある。
それを否定するつもりはない。

ただ、年齢を重ねると、
力だけで成立させることが難しくなる。

そこで、力を抜くというより、
力の置き場所や働き方が変わる世界が見えてくるのではないか。

問題は、力を使うか使わないかではない。

何によって形が成立しているか、なのだと思います。

この理解は、まだ仮説です。

それでも、現時点の自分には、
「脱力」という言葉より、
「力の使い方が変わる」という言い方の方がしっくり来ています。

これは正解の説明ではありません。

武歴10年にも満たない自分が、
現時点で型をどう受け取っているのかを残すための稽古メモです。

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