このシリーズでは、空手の型について、いま自分が考えていることを整理していきます。
ただし、これは型について正解を書くものではありません。
私はまだ武歴10年にも満たない未熟者です。
型について分かったと言える段階ではありません。
それでも、稽古を続けている中で、少しずつ見えてきた気がすることがあります。
最初は、教わった形を合わせる。
手の位置。
足の位置。
姿勢。
角度。
目線。
指先。
それを一つずつ直していく。
この稽古は必要だと思っています。
形を知らなければ、何を稽古しているのか分からない。
形を教わらなければ、崩れているのかどうかも分からない。
だから、最初は形を合わせるしかない。
ただ、最近思うのは、形を合わせることがゴールではないのではないか、ということです。
形を通って、型に入る。
さらに、型に嵌まり、身体が勝手に揃うことも、まだゴールではない。
そこから、威力や自在さ、相手との関係、歴史への理解を含んだ、本当の修行が始まるのではないか。
このシリーズでは、そのあたりを考えていきます。
このシリーズは、形を否定するためのものではない
まず、ここははっきりさせておきたいです。
このシリーズは、形を否定するためのものではありません。
最初は形を合わせる必要があります。
初心者にいきなり、型に嵌まるとか、身体の条件が合うとか、力の通り方が変わるとか言っても、たぶん分かりません。
だから、まず形を教わる。
手はここ。
足はここ。
胸はこう。
あごはこう。
目線はここ。
指先はこう。
それを身体に入れる。
この段階は必要です。
ただし、形を合わせることが最終目的になると、型の稽古は外形合わせに閉じてしまう気がしています。
形は入口です。
でも、入口を出口と間違えると、その先に進めなくなる。
このシリーズで考えたいのは、そこです。
このシリーズで使う「形」と「型」について
このシリーズでは、「形」を「カタ」ではなく、「カタチ」という意味で使います。
外から見える姿勢。
手足の位置。
角度。
見た目として教わるもの。
そういうものを、ここでは「形」と呼びます。
一方で「型」は、その形が生まれる身体の使い方、流れ、条件まで含んだものとして考えます。
ただし、これは表記論争をしたいわけではありません。
「形」と書くのが正しいのか。
「型」と書くのが正しいのか。
そういう話をしたいわけではありません。
自分の稽古中の感覚を整理するために、便宜的に分けているだけです。
大事なのは、表記の勝ち負けではありません。
形を通って、型に入る。
その順番をどう考えるかです。
このシリーズで考えたいこと
このシリーズでは、次の流れで考えていきます。
1. 「形」を否定しない。でも「形」で終わらない
最初に、形を合わせることの必要性を書きます。
形を教わることは必要です。
外から見える基準がなければ、稽古の入口に立てません。
ただし、形を合わせることをゴールにすると、型の稽古は外形合わせに閉じてしまう。
形は否定しない。
でも、形で終わらない。
このシリーズの出発点はそこです。
2. 「形」と「型」は対立ではなく、段階として見る
次に、「形」と「型」を対立としてではなく、段階として考えます。
形は、外から見える姿勢や位置。
型は、その形が生まれる身体の使い方、流れ、条件。
そう仮に分けてみると、稽古中の感覚を整理しやすくなります。
形を通らずに型には入れない。
でも、形だけでは型には届かない。
この二つを、勝ち負けではなく順番として見たいと思っています。
3. 「整える」から「勝手に揃う」へ
最初は、自分で形を整えます。
胸を張る。
あごを引く。
手を合わせる。
足を置く。
これは必要な段階です。
ただ、稽古を続けていると、整えるというより、身体の条件が合った結果として勝手に揃うことがある気がしています。
手をそこに置くのではなく、そこに来る。
あごを引くのではなく、そこに収まる。
足を置くのではなく、そこにしか出ない。
この「勝手に揃う」という感覚を、まずは丁寧に考えたいと思っています。
4. 勝手に揃うことは、ゴールではなく前提条件である
ただし、勝手に揃うことをゴールにしてしまうと、それもまたズレる気がしています。
身体が勝手に揃う。
それは大事です。
でも、それは完成ではない。
威力が出るための前提。
意識しなくても技が出るための前提。
相手に働くための前提。
勝手に揃うことは、修行の終点ではなく、むしろそこから本当の修行が始まるための条件なのではないか。
この回が、シリーズの大きな山になると思います。
5. クエスト探索系としての「形から型へ」
ロールプレイングゲームに例えるなら、形から型への移行までは、クエスト探索系に近い気がしています。
決められた形がある。
直される。
癖に気づく。
身体の条件を探る。
少しずつ、外から整える稽古から、身体の条件が合って揃う稽古へ移っていく。
これは低い段階という意味ではありません。
必要な探索段階です。
この段階を飛ばして、いきなり自由には入れない。
形から型への移行は、自由の前に必要な稽古なのだと思っています。
6. 勝手に揃ったあと、修行はオープンワールドになる
身体が勝手に揃うようになったとしても、そこで終わりではありません。
むしろ、そこからオープンワールドが始まる。
揃った身体を前提に、威力がどう出るのか。
技がどう自由に出るのか。
相手と接触した時にどう働くのか。
状況が変わった時にどう変化するのか。
そこから先は、決められたクエストを消化するというより、広い世界の中で、自分の身体と型の意味を探索していく段階なのではないか。
今の自分は、そう感じています。
7. オープンワールドだからこそ、先生・先輩・師匠が必要になる
自由になれば、一人で進めるようになるわけではありません。
むしろ、自由だからこそ迷います。
形から型へ移る段階でも、先生や先輩は必要です。
外見は合っていても、内部の使い方が違うことがあります。
自分では、そこに気づけないことがある。
さらに、オープンワールドの段階では、自由だからこそ独りよがりにもなります。
その時、先生・先輩・師匠の存在は、単に形を採点する人ではなく、進む方向を示してくれる存在になるのではないか。
この話も、かなり大事に扱いたいと思っています。
8. 簡単に「達人」と呼ばないこと
空手の話をしていると、「達人」という言葉が出てくることがあります。
でも、自分はこの言葉を軽く使いたくありません。
特に沖縄空手の先生方は、自分のことを簡単に達人とは言わないのではないかと思っています。
どれほど優れた先生でも、修行の途中にいる。
本当に達人と言えるとすれば、流祖の先生くらいなのではないか。
この距離感は、型を考えるうえで大事な気がしています。
簡単に分かったと言わない。
簡単に到達したことにしない。
自分の理解を改訂し続ける。
その態度を、この回で考えたいと思っています。
9. 修行は道場だけではない。空手の歴史も研究する必要がある
最後に、修行は道場の中だけで完結しないという話を書きたいと思っています。
もちろん、道場での稽古は必要です。
身体で稽古しなければ、型は身体に入りません。
ただ、型には歴史があります。
流祖がいる。
流派の成り立ちがある。
時代背景がある。
受け継がれてきた文脈がある。
身体で稽古することと、歴史を調べること。
この両方が必要なのではないか。
歴史研究だけでは身体に入りません。
でも、身体感覚だけでも文脈を見失うかもしれません。
道場で稽古し、空手の歴史も研究し、自分の理解を改訂し続ける。
そこまで含めて、型の修行なのではないか。
このシリーズは、そこまで考えて終えたいと思っています。
このシリーズで外したくないこと
このシリーズで、絶対に外したくないことがあります。
形を否定しない。
形は必要です。
でも、形を整えることがゴールではない。
身体の条件が合うと、勝手に揃うことがある。
ただし、勝手に揃うこともゴールではない。
それは、威力や自在さが出るための前提条件でしかない。
そこから本当の修行が始まる。
その先は、オープンワールドです。
自由だからこそ、先生・先輩・師匠が必要になる。
そして、修行は道場だけでは終わらない。
空手の歴史も研究していく必要がある。
今の自分には、そう見えています。
これは、現時点の理解の指針である
ここまで書いたことは、すべて現時点の理解です。
たぶん、今後変わります。
数年後には、かなり違うことを言っているかもしれません。
それでいいと思っています。
むしろ、稽古を続けているのに理解が変わらない方が怖い。
このシリーズは、完成した理論ではありません。
武歴10年にも満たない自分が、
いま型稽古をどういう修行の階層として見ているのかを残すためのものです。
形を通って、型に入る。
型に入って、勝手に揃う。
でも、勝手に揃うことすらゴールではない。
そこから、オープンワールドとしての修行が始まる。
この見方が正しいかどうかは分かりません。
ただ、今の自分には、この見方で整理すると、空手の型稽古が少し立体的に見えてきます。
だから、第0回として、このシリーズの指針を先に置いておきます。

コメント