このシリーズでは、空手の型稽古について、いま自分が考えていることを整理していきます。
第0回では、全体の指針として、
形を通って、型に入る。
でも、型に嵌まり、身体が勝手に揃うことも、まだゴールではない。
そこから、オープンワールドとしての修行が始まるのではないか。
という話を置きました。
今回は、その出発点として、まず「形」について書いておきます。
なお、このシリーズでは、第0回で書いた通り、
「形」を「カタ」ではなく、「カタチ」という意味で使っています。
ここで言う形とは、外から見える姿勢、手足の位置、角度、目線、指先など、見た目として教わるもののことです。
この文章は、形を否定するためのものではありません。
むしろ、最初は形を合わせるしかないと思っています。
ただし、形を合わせることがゴールになってしまうと、型の稽古は外形合わせに閉じてしまうのではないか。
今の自分は、そこに危うさを感じています。
最初は、形を合わせるしかない
空手を習い始めると、まず形を教わります。
手はここ。
足はここ。
胸はこう。
あごはこう。
目線はここ。
指先はこう。
そうやって、外から見える基準を教わります。
これは必要なことだと思っています。
最初から、身体の内側の使い方や、力の通り方や、型に嵌まる感覚を分かれと言われても、たぶん分かりません。
まだ身体の中に、それを受け取るだけの経験がないからです。
だから、まず外から見える形を覚える。
教わった位置に手を置く。
教わった位置に足を置く。
姿勢を直す。
目線を直す。
指先を直す。
この段階を飛ばすことはできないと思っています。
形を知らなければ、そもそも何を稽古しているのか分からない。
形を教わらなければ、崩れているのかどうかも分からない。
だから、最初は形を合わせるしかない。
そこは、はっきり肯定しておきたいです。
形は、稽古の基準になる
形には、基準としての役割があります。
たとえば、気をつけの姿勢でも、いろいろなことを教わります。
- 結び立ちになる
- 胸を張る
- あごを引く
- 中指をズボンの折り目に合わせる
- 親指を折りたたむ
- ほかの指を伸ばす
最初は、これらを一つずつ合わせていきます。
足が違えば直す。
胸が落ちていれば直す。
あごが出ていれば直す。
手の位置が違えば直す。
指先が甘ければ直す。
外から見える形があるから、直すことができます。
もし形がなければ、自分が何を間違えているのかも分かりません。
先生や先輩も、最初は外から見える形を通して教えてくれます。
そこには意味があります。
形は、稽古の入口であり、基準です。
だから、形を軽く見たいわけではありません。
形を否定して、いきなり内側の感覚に入ろうとすると、それはそれで自分の癖に流れる危うさがあると思っています。
初心者はいきなり内側の感覚には入れない
初心者に、いきなり内側の感覚を説明しても、たぶん伝わりません。
「型に嵌まる」と言われても分からない。
「身体の条件が合う」と言われても分からない。
「力の通り方が変わる」と言われても分からない。
「勝手に揃う」と言われても、何が勝手に揃うのか分からない。
むしろ、言葉だけが先に入ると、変な誤解をする可能性があります。
たとえば、「力を抜け」と言われて、ただ力を入れないことだと思ってしまう。
その結果、姿勢が崩れる。
手が死ぬ。
足元が緩む。
目線がなくなる。
そうなると、型の稽古としては崩れてしまいます。
だから、初心者にはまず形を教える。
これは必要な順番だと思っています。
まずは、形を作る。
手の位置を覚える。
足の位置を覚える。
姿勢を覚える。
角度を覚える。
目線を覚える。
その段階があるから、あとで違和感も出てくる。
最初の形がなければ、「そこからズレている」という感覚も持てません。
ただし、形を整えることが最終目的になると危うい
ただし、形を合わせることが、そのまま最終目的になってしまうと危うい気がしています。
手の位置が合っている。
足の位置が合っている。
姿勢がきれいに見える。
角度が揃っている。
動きがそろっている。
それは大事です。
でも、それだけで型が分かったことになるのかというと、今の自分にはそうは思えません。
外から見える形が合っていても、内側で起きていることは違うかもしれない。
筋肉で無理に作っているだけかもしれない。
部位ごとに頑張っているだけかもしれない。
止まっているように見えても、次へ動けない状態かもしれない。
相手と接触した瞬間に崩れる形かもしれない。
そう考えると、外から見える形が合っているだけでは足りないのではないかと思います。
形を整えることは必要です。
でも、形を整えることだけが目的になると、型の稽古は外形合わせに閉じてしまう。
そこが、今の自分には一番気になっています。
形が入口であることと、出口であることは違う
形は入口です。
でも、出口ではない。
今の自分には、そう見えています。
入口としての形は必要です。
形があるから、身体に基準が入る。
形があるから、先生や先輩に直してもらえる。
形があるから、自分の癖にも気づける。
でも、その形を整えることだけで終わってしまうと、型の中にあるはずの身体の使い方や、流れや、条件には入っていけない気がします。
形を合わせる。
そこから、なぜその形になるのかを考える。
その形が、どの身体の使い方から生まれるのかを探る。
身体の条件が合った時に、形が勝手に揃う感覚を探る。
そういう方向へ進んでいく必要があるのではないか。
今の自分には、そう感じられます。
形を否定するのではなく、形に閉じない
この話は、形を否定する話ではありません。
形を軽く見たいわけでもありません。
むしろ、形は必要です。
最初は形を合わせるしかない。
そこは変わりません。
ただ、形を合わせることだけに閉じたくない。
形を整えることを、最終目的にしたくない。
形を入口として通り、その先にある型の条件へ入っていきたい。
そのために、まずこの第1回では、形の必要性と、形で終わる危うさを両方置いておきたいと思いました。
現時点の理解として
今の自分には、こう見えています。
最初は形を合わせるしかない。
手足の位置、姿勢、角度、目線を教わることは、稽古の入口として必要である。ただし、形を合わせることがゴールになると、
型の稽古は外形合わせに閉じてしまう。
形は必要です。
でも、形で終わらない。
形を入口として認めた上で、
そこに閉じないために型を考えたい。
このシリーズの第1回として、まずそこを置いておきます。
これは正解の説明ではありません。
武歴10年にも満たない自分が、
現時点で型稽古をどういう修行の階層として見ているのかを残すための稽古メモです。

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