第3回 「そうする」と「そうなる」は、同じ形でも違う気がしている

前回は、いまの自分が「形」と「型」をどう分けて見ているかを書きました。

形は、外から見える姿勢や位置。
型は、その形が生まれる身体の使い方、流れ、条件まで含んでいるのではないか。

そう仮置きすると、稽古中に感じている違和感を少し整理しやすくなります。

今回は、その中でも特に引っかかっている、

「そうする」と「そうなる」は違うのではないか

ということについて書いておきます。

これは、今の自分にとってかなり大きな感覚です。

ただし、最初に書いておくと、私はまだそれを安定してできるわけではありません。

むしろ、ほとんどできていないと思います。

ただ、稽古の中で、
外から形を作っている時と、
身体の中で何かが合った結果としてその形になる時では、
同じ形でも内側で起きていることが違う気がしています。

「そうする」の稽古

最初は、教わった形を一つずつ作ります。

胸を張る。
あごを引く。
手を合わせる。
足を置く。
指を伸ばす。
目線を決める。

こういう稽古です。

これは必要なことだと思っています。

形を知らなければ、何を稽古しているのか分かりません。

手がどこにあるべきなのか。
足がどこにあるべきなのか。
胸はどうあるべきなのか。
あごはどうあるべきなのか。

まずは、それを教わる。

そして、自分の身体をその形に合わせていく。

この段階では、どうしても部位ごとに意識します。

胸は胸。
あごはあご。
手は手。
足は足。

それぞれを別々に直して、教わった形に近づけていく。

この稽古を、今の自分は「そうする」の稽古として受け取っています。

胸を張れと言われたから、胸を張る。
あごを引けと言われたから、あごを引く。
手を合わせろと言われたから、手を合わせる。
足を置けと言われた場所に、足を置く。

外から教わった形に対して、身体の部位を一つずつ合わせていく。

これは、稽古の入口として必要な段階だと思います。

「そうする」と、どうしても部位ごとになる

ただ、「そうする」の稽古では、どうしても部位ごとに操作しやすくなります。

胸を張る時は、胸だけを張ろうとする。
あごを引く時は、首だけで引こうとする。
手を合わせる時は、腕や手先だけで合わせようとする。
足を置く時は、足の位置だけを合わせようとする。

そうすると、外から見た形には近づきます。

ただ、内側では少し無理が出ることがあります。

胸を張ったつもりなのに、腰が反る。
あごを引いたつもりなのに、首が固まる。
手を合わせたつもりなのに、肩に力が入る。
足を置いたつもりなのに、重心がうまく乗らない。

もちろん、それが全部悪いという話ではありません。

最初は、そうやって形を作るしかない部分があります。

ただ、最近は、同じ形を取っていても、
部位ごとに作っている時と、
身体全体の関係の中でその形になる時は、
少し違うのではないかと感じています。

「そうなる」という感覚

それに対して、最近は「そうなる」としか言えない感覚があります。

胸を張るのではなく、胸が潰れない位置に入る。

あごを引くのではなく、あごがそこに収まる。

手を合わせるのではなく、肩、肘、手首、指先の関係が合った結果として、手がそこに来る。

足をその位置に置くのではなく、身体の流れや重心の関係の中で、足がそこにしか出ない。

こう書くと、かなり分かったように見えるかもしれません。

でも、そうではありません。

私はまだ、それを安定してできるわけではありません。

ただ、稽古の中で、ほんの少しだけ、
「今のは外から形を作った感じとは違う」
と思うことがあります。

その感覚を、今の自分は「そうなる」と呼んでいます。

胸を張る、ではなく、胸が潰れない位置に入る

たとえば、胸を張るということを考えてみます。

胸を張ろうとすると、胸だけを前に出したくなります。

でも、そうすると腰が反ったり、背中が固まったり、肩が上がったりすることがあります。

外から見ると、胸は張れているように見えるかもしれません。

ただ、自分の中では、どこか一部で形を作っている感じが残ります。

それに対して、たまに、胸を張るというより、
身体全体の位置関係が少し合った結果として、
胸が潰れずにそこにあるような感覚があります。

胸だけを操作している感じではない。

足の置き方。
骨盤の位置。
背中。
首。
肩の落ち方。

そういうものが関係した結果として、胸がそうなる。

この時、外から見た形は同じように見えるかもしれません。

でも、自分の中では、胸を張ったというより、
胸がそこにある、という感じに近い。

あごを引く、ではなく、あごが収まる

あごも同じです。

あごを引こうとすると、首の前側や喉のあたりに力が入りやすい。

あごを引くこと自体を目的にすると、首だけで形を作ってしまうことがあります。

でも、たまに、あごを引くというより、
あごがそこに収まるように感じる時があります。

首だけではなく、背中や頭の位置、胸の状態まで含めて、
あごがそこに落ち着く。

この時も、外から見れば「あごを引いている」ように見えるのかもしれません。

でも、自分の中では、首だけで引いた感じとは違います。

あごを引いたのではなく、あごが収まった。

今の自分には、その違いがあるように感じています。

手を合わせる、ではなく、手がそこに来る

気をつけで、中指をズボンの折り目に合わせることを考えてみます。

最初は、中指の位置を見て、そこに合わせます。

腕を少し前にする。
手首の角度を直す。
肩を下げる。
指を伸ばす。

これは、形を作る稽古です。

それに対して、たまに、
中指をそこに合わせに行くというより、
肩、肘、手首、指先の関係が合った結果として、
手がそこに来るような感じがあります。

手先だけを操作しているのではない。

肩だけでもない。
肘だけでもない。
手首だけでもない。

それらの関係が合った結果として、手がそこに来る。

この時、形は同じように見えても、
自分の中では、手を合わせた感じとは少し違います。

足を置く、ではなく、そこにしか出ない

足も同じように感じます。

足をその位置に置こうとすると、足だけを見てしまいます。

ここに出す。
この角度にする。
この幅にする。

もちろん、それは必要です。

でも、型の中で動いている時には、
足だけを置いているわけではないはずです。

前の動きがあります。
重心の移動があります。
腰の向きがあります。
次の動きへの準備があります。

それらが合ってくると、足をそこに置くというより、
そこにしか出ないように感じる時がある。

まだ、私はそれをきちんとできているとは言えません。

ただ、型の中の足の位置は、
単に外から決めた場所に置くものではなく、
前後の流れの中でそこに出てくるものなのではないか。

今は、そう感じ始めています。

同じ形でも、中身が違う

ここまで書いてきたことは、外から見れば同じ形に見えるかもしれません。

胸を張っている。
あごを引いている。
手が合っている。
足が置かれている。

見た目だけなら、同じように見えるかもしれない。

でも、自分の中では、
「そうする」と「そうなる」は違う気がしています。

「そうする」は、外から教わった形に身体を合わせに行く感覚です。

「そうなる」は、身体の中の関係が合った結果として、その形が現れる感覚です。

今の自分には、そういう違いとして見えています。

ただし、これはまだ仮説です。

安定して再現できているわけではありません。
説明できるほど分かっているわけでもありません。

それでも、稽古の中で、
この二つは同じではない、という感覚が少し出てきました。

現時点の理解として

今の自分には、こう見えています。

「そうする」は、外から教わった形に身体を合わせに行くこと。
「そうなる」は、身体の使い方や関係が合った結果として、その形が現れること。

胸を張る。
あごを引く。
手を合わせる。
足を置く。

これらは、最初は「そうする」ものとして教わります。

それは必要です。

ただ、稽古を続けていると、
胸が潰れない位置に入る。
あごがそこに収まる。
手がそこに来る。
足がそこにしか出ない。

そういう感覚が、少しだけ見えてくることがあります。

私はまだ、それを安定してできるわけではありません。

でも、その違いがあることだけは、少し感じ始めています。

これは正解の説明ではなく、
武歴10年にも満たない自分が、現時点で型をどう受け取っているのかを残すための稽古メモです。

コメント

  1. kosaru0830 より:

    ## 補記:近い研究について、AIに調べてもらった

    この記事を書いたあとで、
    自分が書いた「そうする」と「そうなる」の違いに近い研究や概念がないか、
    AIに調べてもらった。

    もちろん、ここで挙げる研究が、
    空手の型を直接説明しているわけではない。

    また、これらの研究を根拠にして、
    自分の理解が正しいと証明したいわけでもない。

    この記事で書いたのは、
    あくまで今の自分が稽古中に感じている違いである。

    「そうする」は、
    外から教わった形に身体を合わせに行くこと。

    「そうなる」は、
    身体の使い方や関係が合った結果として、
    その形が現れること。

    この違いを考えるうえで、
    近い研究や概念はいくつかあった。

    ### 1. 暗黙知

    研究名は、暗黙知。

    研究者は、マイケル・ポランニー。

    暗黙知は、
    人間には言葉では説明しきれない知識がある、
    という考え方である。

    本文との共通点は、
    身体の中で起きている違いが、
    すぐには言葉にしきれないという点である。

    胸を張る。
    あごを引く。
    手を合わせる。
    足を置く。

    これらは、言葉としては説明できる。

    しかし、
    胸を張ろうとして胸だけを操作している時と、
    身体全体の関係が合った結果として胸が潰れずにそこにある時では、
    同じ形に見えても中身が違う気がする。

    あごを引く時も同じである。

    首だけで引く時と、
    背中や頭の位置、胸の状態まで含めて、
    あごがそこに収まる時では、
    自分の中では違う。

    この違いは、
    言葉だけでは説明しきれない。

    その点では、
    暗黙知の考え方と近い。

    ただし、本文との差分もある。

    この記事で言いたいのは、
    「言葉にできないから説明しなくてよい」
    ということではない。

    むしろ逆である。

    まだ説明しきれない。
    まだ安定してできるわけでもない。

    それでも、
    稽古の中で感じ始めた違いを、
    今の時点で言葉に残しておきたい。

    本文で書いているのは、
    暗黙知を神秘化することではない。

    「そうする」と「そうなる」の違いを、
    稽古中の手触りとして仮に切り分けることである。

    ### 2. 運動技能習得の三段階モデル

    研究名は、運動技能習得の三段階モデル。

    研究者は、ポール・フィッツとマイケル・ポズナー。

    このモデルでは、
    運動技能の習得には段階があるとされる。

    最初は、動きを頭で考えながら行う段階。
    次に、失敗を修正しながら安定させる段階。
    さらに進むと、動きが自動化されていく段階。

    本文との共通点は、
    同じ形を稽古していても、
    段階によって中身が変わるという点である。

    最初は、
    胸を張れと言われたから、胸を張る。
    あごを引けと言われたから、あごを引く。
    手を合わせろと言われたから、手を合わせる。
    足を置けと言われた場所に、足を置く。

    これは必要な稽古である。

    形を知らなければ、
    何を稽古しているのか分からない。

    ただ、稽古を続けていくと、
    同じ形を取っているはずなのに、
    部位ごとに作っている時と、
    身体全体の関係の中でその形になる時があるように感じる。

    このように、
    同じ動作でも段階によって見え方が変わる点は、
    運動技能習得の考え方と近い。

    ただし、本文との差分もある。

    このモデルは、
    技能がどう上達していくかを整理するためのものである。

    本文で書いているのは、
    自分がどの段階にいるかを判定することではない。

    また、
    「そうなる」が自動化された完成段階だ、
    と言いたいわけでもない。

    自分はまだ、
    それを安定してできるわけではない。

    むしろ、
    ほとんどできていないと思っている。

    それでも、
    外から形を作る時と、
    身体の関係が合った結果として形が現れる時では、
    何かが違う気がしている。

    本文で書いているのは、
    上達段階の分類ではなく、
    その違いに気づき始めたという稽古メモである。

    ### 3. 制約主導アプローチ

    研究名は、制約主導アプローチ。

    研究者としては、カール・ニューウェルの制約の考え方が近い。

    この考え方では、
    動きは、身体、課題、環境などの条件の中で生まれるものとして捉えられる。

    本文との共通点は、
    形を一つの部位だけで作るものではなく、
    いくつもの条件が合った結果として現れるものとして見ている点である。

    胸が潰れずにそこにある。

    それは、
    胸だけの問題ではない。

    足の置き方。
    骨盤の位置。
    背中。
    首。
    肩の落ち方。

    そういうものが関係した結果として、
    胸がそうなる。

    手がそこに来る。

    それも、
    手先だけの問題ではない。

    肩、肘、手首、指先の関係が合った結果として、
    手がそこに来る。

    足がそこにしか出ない。

    それも、
    足だけの問題ではない。

    前の動き。
    重心の移動。
    腰の向き。
    次の動きへの準備。

    それらが関係した結果として、
    足がそこに出る。

    この見方は、
    動きを条件の組み合わせから見る考え方と近い。

    ただし、本文との差分もある。

    制約主導アプローチは、
    運動学習やスポーツ科学の文脈で使われる考え方である。

    この記事は、
    型稽古を科学モデルに置き換えたいわけではない。

    また、
    身体、課題、環境という言葉で、
    空手の型を説明し切れるとも思っていない。

    本文で言っている「関係」は、
    研究上の厳密な制約という意味ではない。

    今の自分が稽古中に感じている、
    身体のつながりや流れのことである。

    「そうなる」とは、
    身体の条件が合った結果として、
    形がそこに現れる感覚である。

    その感覚を考えるうえで、
    制約主導アプローチは近い部分がある。

    ただし、
    それで空手の型を説明し切れるわけではない。

    ### 4. ダイナミカルシステムズ理論、自己組織化

    研究名は、ダイナミカルシステムズ理論、または自己組織化の考え方。

    研究者としては、
    J・A・スコット・ケルソーや、
    エスター・セレンの研究が近い。

    この考え方では、
    動きや行動は、
    一つの命令で部品を動かすというより、
    複数の要素が関係し合う中で生まれるものとして見られる。

    本文との共通点は、
    「そうなる」という感覚が、
    部位ごとの命令では説明しにくい点である。

    胸を張る。
    あごを引く。
    手を合わせる。
    足を置く。

    これらを一つずつ命令として行うと、
    どうしても部位ごとになる。

    胸は胸。
    あごはあご。
    手は手。
    足は足。

    それぞれを別々に操作して、
    外から見える形に近づける。

    しかし、
    「そうなる」と感じる時は、
    胸だけ、あごだけ、手だけ、足だけを操作している感じではない。

    身体全体の関係が合った結果として、
    その形が現れる。

    この点は、
    動きが複数の要素の関係から生まれる、
    という自己組織化の考え方と近い。

    ただし、本文との差分もある。

    自己組織化という言葉に寄せすぎると、
    型や先生の指導の意味が薄くなってしまう危険がある。

    この記事では、
    「勝手に自然発生すればよい」
    と言いたいわけではない。

    最初は、教わった形を一つずつ作る。

    胸を張る。
    あごを引く。
    手を合わせる。
    足を置く。
    指を伸ばす。
    目線を決める。

    この稽古は必要である。

    型には、
    外から教わる形がある。

    先生から示される基準がある。

    だから、
    「そうなる」は、
    何でも自然に任せればよいという話ではない。

    外から教わった形を通して稽古する中で、
    ある時、
    身体の関係が合った結果として、
    その形が現れるように感じる。

    本文で書いているのは、
    その違いである。

    ### 5. 注意の焦点

    研究名は、注意の焦点に関する運動学習研究。

    研究者は、ガブリエレ・ウルフ。

    この研究では、
    運動学習において、
    身体の部位そのものに注意を向ける場合と、
    動きの結果や効果に注意を向ける場合で、
    学習やパフォーマンスに違いが出ることが論じられている。

    本文との共通点は、
    部位ごとに意識しすぎると、
    動き全体が固まりやすいという点である。

    胸を張る時に、胸だけを張ろうとする。
    あごを引く時に、首だけで引こうとする。
    手を合わせる時に、腕や手先だけで合わせようとする。
    足を置く時に、足の位置だけを合わせようとする。

    そうすると、
    外から見た形には近づく。

    しかし、
    内側では無理が出ることがある。

    胸を張ったつもりなのに、腰が反る。
    あごを引いたつもりなのに、首が固まる。
    手を合わせたつもりなのに、肩に力が入る。
    足を置いたつもりなのに、重心がうまく乗らない。

    この問題は、
    身体の部位そのものに注意が向きすぎることの難しさと重なる部分がある。

    ただし、本文との差分もある。

    注意の焦点の研究は、
    運動学習一般を扱うものである。

    本文で書いているのは、
    単に「身体の部位を意識しない方がよい」
    という話ではない。

    空手の型では、
    胸、あご、手、足、指先、目線など、
    部位ごとの形を教わることは必要である。

    最初から全体だけを感じようとしても、
    何を稽古しているのか分からなくなる。

    だから、
    本文は「部位への注意は悪い」と言っているのではない。

    部位ごとに形を作る稽古は必要である。

    ただし、
    そこで終わると、
    「そうする」の稽古に留まりやすい。

    稽古を続ける中で、
    身体全体の関係が合い、
    結果としてその形が現れる感覚がある。

    それを、
    今の自分は「そうなる」と呼んでいる。

    ### まとめ

    AIに調べてもらうと、
    この記事に近い研究や概念はいくつかあった。

    暗黙知。
    運動技能習得の三段階モデル。
    制約主導アプローチ。
    ダイナミカルシステムズ理論。
    注意の焦点。

    どれも、
    本文の一部とは重なる。

    身体で分かることは、
    すぐには言葉にできない。

    同じ形でも、
    稽古の段階によって中身が変わる。

    動きや形は、
    一つの部位だけで作られるのではなく、
    複数の条件が合った結果として現れることがある。

    身体の部位に意識が向きすぎると、
    かえって全体の動きが固まることもある。

    こうした点では、
    この記事で書いたことと近い。

    ただし、
    この記事は研究紹介ではない。

    また、
    これらの研究によって、
    空手の型を説明し切れるとも思っていない。

    自分が書きたかったのは、
    もっと稽古の中の具体的な感覚である。

    胸を張るのではなく、
    胸が潰れない位置に入る。

    あごを引くのではなく、
    あごがそこに収まる。

    手を合わせるのではなく、
    手がそこに来る。

    足を置くのではなく、
    そこにしか出ない。

    外から見れば、
    同じ形に見えるかもしれない。

    でも、
    自分の中では、
    「そうする」と「そうなる」は違う気がしている。

    これは正解の説明ではない。

    武歴10年にも満たない自分が、
    現時点で型をどう受け取っているのかを残すための稽古メモである。

    この補記は、
    その感覚を、
    少しだけ別の角度から見直すためのものである。

タイトルとURLをコピーしました