第2回 「形」と「型」を、いま自分はどう分けて見ているか

前回は、型の稽古について、いま自分が何に引っかかっているのかを書きました。

同じ型を稽古している。
同じ立ち方をしている。
同じ手の位置、同じ足の位置、同じ姿勢を教わっている。

それなのに、自分の中では、少しずつ見ているものが変わってきている気がする。

前回は、その感覚を、

同じことを稽古しているけれど、同じようには稽古していない

という言葉で置きました。

今回は、その違和感をもう少し分けるために、
いま自分が「形」と「型」をどう見始めているのかを書いておきます。

なお、このシリーズでは、第0回で書いた通り、
「形」を「カタ」ではなく「カタチ」という意味で使っています。

あくまで、前回書いた違和感を整理するために、
現時点の自分が便宜的に使っている分け方です。

現時点での仮置き

いまの自分には、こう分けると整理しやすいです。

形 = 外から見える姿勢、手足の位置、角度、見た目の完成状態

型 = その形が生まれる身体の使い方、流れ、条件

これは、正しい定義として書いているわけではありません。

数年後には、この分け方では足りないと思うかもしれません。
そもそも、「形」と「型」をこう分けること自体が浅いと思うかもしれません。

それでも、今の自分には、この分け方が必要です。

なぜなら、同じ形を稽古していても、
外から見えるものを合わせている時と、
身体の中で何かが合った結果としてその形になる時では、
稽古中の感覚が違うからです。

形は、外から確認しやすい

形は、外から確認しやすいものです。

手の位置が違う。
足の位置が違う。
姿勢が崩れている。
目線が違う。
指先が甘い。
角度がずれている。

こういうものは、外から見て指摘しやすい。

自分でも、鏡を見れば確認できます。
先生や先輩にも直してもらえます。

だから、最初に教わるのは形です。

手はここ。
足はここ。
胸はこう。
あごはこう。
目線はここ。
指先はこう。

まず、外から見える基準を身体に入れていく。

これは必要なことだと思っています。

形がなければ、自分が何を稽古しているのか分からなくなる。
形がなければ、崩れているのかどうかも分からない。
形がなければ、あとで何を直せばよいのかも見えにくい。

だから、形を軽く見たいわけではありません。

むしろ、形は稽古の入口としてかなり大事だと思っています。

”気をつけ”を例にすると

たとえば、気をつけの立ち方で考えてみます。

気をつけでは、いろいろな形を教わります。

  • 結び立ちになる
  • 胸を張る
  • あごを引く
  • 中指をズボンの折り目に合わせる
  • 親指を折りたたむ
  • ほかの指を伸ばす

最初は、これらを一つずつ外から合わせます。

足を結び立ちにする。
胸を張る。
あごを引く。
中指をズボンの折り目に合わせる。
親指を折りたたむ。
ほかの指を伸ばす。

これは、形を作る稽古です。

足は足。
胸は胸。
あごはあご。
手は手。
指は指。

それぞれを別々に意識して、教わった形に近づけていく。

この段階では、身体の各部分を、外から見える正しい位置に合わせようとしています。

今の自分にも、この稽古はまだ必要です。

というより、形を外から合わせる稽古がなくなるとは思っていません。

ただ、最近は、それだけではない感じが少しあります。

外から合わせる時と、そこに来る時が違う

たとえば、中指をズボンの折り目に合わせるとします。

最初は、中指の位置を見て、そこに合わせます。

腕を少し前にする。
手首の角度を直す。
肩を下げる。
指を伸ばす。

そうやって、外から位置を合わせていく。

これは、形を作る感覚です。

でも、修行を続けていくと少し違う感覚が出てきます。

中指をそこに合わせに行くというより、
肩、肘、手首、指先の関係が合った時に、
結果として中指がそこに来るような感じです。

胸も同じです。

胸を張ろうとして胸だけを張ると、どこかに無理が出ます。

でも、足の置き方、骨盤の位置、背中、首の関係が少し合った時に、
胸を張るというより、胸が潰れずにそこにあるような感じが出ることがあります。

あごも同じです。

あごを引こうとして首だけで引くと、首まわりが固くなります。

でも、首の後ろや背中の感じが少し合うと、
あごを引くというより、あごがそこに収まるように感じることがあります。

もちろん、これを毎回できるわけではありません。

むしろ、まだほとんどできていないと思います。

ただ、外から合わせている時と、
身体の関係が合った結果としてそこに来る時では、
同じ形に見えても、内側で起きていることが違う気がしています。

形は結果であり、型は条件を含んでいるのではないか

ここで、自分の中にひとつの仮説が出てきます。

形は、外から見えるものです。

だから、教えやすい。
直しやすい。
確認しやすい。

一方で、型はそれだけではないのではないか。

その手がなぜそこに来るのか。
その足がなぜそこに置かれるのか。
その胸の状態がなぜ必要なのか。
そのあごの位置がなぜそこなのか。

そういう、形が生まれる条件まで含めて型なのではないか。

今の自分には、そう見え始めています。

外から見える形を合わせることは大事です。

でも、その形をただ外から合わせるだけではなく、
身体の使い方、重心、接地、張り、緩み、流れの中で、
その形がそこに現れる。

そのあたりまで含めて考えると、
「形」と「型」を少し分けて見た方が、今の自分には整理しやすいのです。

現時点の理解として

今の自分には、こう見えています。

形は、外から見える姿勢や位置である。
型は、その形が生まれる身体の使い方、流れ、条件まで含んでいるのではないか。

この理解は、まだ仮説です。

でも、今の自分には、この分け方をすると稽古中の感覚が整理しやすい。

最初は、形を外から合わせる。

結び立ち。
胸。
あご。
中指。
親指。
指先。

それぞれを、教わった通りに合わせていく。

でも最近は、その形をただ外から合わせるだけではなく、
身体の使い方が合った結果として、そこに来る感覚が少しある。

まだ分かったとは言えません。

ただ、今の自分は、
「形」と「型」をこう分けて考えることで、
自分が何に引っかかっているのかを少し言葉にできる気がしています。

これは正解の説明ではなく、
武歴10年にも満たない自分が、現時点で型をどう受け取っているのかを残すための稽古メモです。

コメント

  1. kosaru0830 より:

    ## 補記:近い研究について、AIに調べてもらった

    この記事を書いたあとで、
    自分が書いた「形」と「型」の分け方に近い研究や概念がないか、
    AIに調べてもらった。

    もちろん、ここで挙げる研究が、
    空手の型を直接説明しているわけではない。

    また、これらの研究を根拠にして、
    自分の分け方が正しいと証明したいわけでもない。

    この記事で書いたのは、
    あくまで今の自分が稽古中に感じている違和感である。

    形は、外から見える姿勢や位置である。
    型は、その形が生まれる身体の使い方、流れ、条件まで含んでいるのではないか。

    そう仮に分けてみると、
    今の自分には少し整理しやすい。

    その感覚に近いものとして、
    次のような研究や概念があった。

    ### 1. 暗黙知

    研究者は、マイケル・ポランニー。

    暗黙知は、
    人間には言葉では説明しきれない知識がある、
    という考え方である。

    本文との共通点は、
    外から見える形だけでは、
    身体の中で起きていることを説明しきれない、
    という点である。

    手の位置。
    足の位置。
    胸の張り方。
    あごの位置。
    指先の形。

    これらは、外から確認できる。

    しかし、
    その形を外から合わせている時と、
    身体の関係が合った結果としてその形になる時では、
    同じ形に見えても中身が違う気がする。

    中指をズボンの折り目に合わせる。
    胸を張る。
    あごを引く。

    これらも、
    ただ外から位置を合わせるだけなら形である。

    しかし、
    肩、肘、手首、指先の関係が合った結果として中指がそこに来る。
    足の置き方、骨盤、背中、首の関係が合った結果として胸が潰れずにそこにある。
    首だけで引くのではなく、背中や首の後ろの関係が合って、あごがそこに収まる。

    そういう違いは、
    言葉だけでは説明しきれない。

    この点は、
    暗黙知の考え方と近い。

    ただし、本文との差分もある。

    暗黙知の話に寄せすぎると、
    「言葉にできないから説明しなくてよい」
    という方向に流れやすい。

    この記事で書きたいのは、
    そこではない。

    形は必要である。
    外から合わせる稽古も必要である。

    そのうえで、
    形の奥にある身体の条件を、
    今の自分なりに少しでも言葉にしておきたい。

    本文でやっているのは、
    暗黙知を神秘化することではなく、
    まだ言葉にしきれない身体の違いを、
    稽古メモとして仮に切り分けることである。

    ### 2. 運動技能習得の三段階モデル

    研究者は、ポール・フィッツとマイケル・ポズナー。

    このモデルでは、
    運動技能の習得には段階があるとされる。

    最初は、動きを頭で考えながら行う段階。
    次に、失敗を修正しながら安定させる段階。
    さらに進むと、動きが自動化されていく段階。

    本文との共通点は、
    同じ形を稽古していても、
    稽古の段階によって中身が変わる、
    という点である。

    最初は、
    手はここ。
    足はここ。
    胸はこう。
    あごはこう。
    目線はここ。
    指先はこう。

    そうやって、
    外から見える基準を一つずつ身体に入れていく。

    これは必要な稽古である。

    形がなければ、
    自分が何を稽古しているのか分からなくなる。

    形がなければ、
    崩れているのかどうかも分からない。

    形がなければ、
    あとで何を直せばよいのかも見えにくい。

    ただ、稽古を続けていくと、
    同じ形を作っているはずなのに、
    少し違う感覚が出てくることがある。

    外から形を合わせに行くのではなく、
    身体の関係が合った結果として、
    その形がそこに現れるように感じる。

    この点は、
    運動技能が段階を経て変わっていく、
    という考え方と近い。

    ただし、本文との差分もある。

    このモデルは、
    運動技能の習得過程を一般的に説明するものである。

    本文で書いているのは、
    自分がどの段階にいるかを判定することではない。

    また、
    形を外から合わせる段階を卒業した、
    と言いたいわけでもない。

    今の自分にも、
    形を外から合わせる稽古はまだ必要である。

    むしろ、
    その稽古がなくなるとは思っていない。

    本文で書いているのは、
    形を合わせる稽古を続けている中で、
    その形が生まれる条件のようなものが、
    少しだけ気になり始めたということである。

    ### 3. 制約主導アプローチ

    研究者としては、カール・ニューウェルの制約の考え方が近い。

    この考え方では、
    動きは、身体、課題、環境などの条件の中で生まれるものとして捉えられる。

    本文との共通点は、
    形を単なる外見としてではなく、
    条件が合った結果として現れるものとして見ている点である。

    中指がそこに来る。
    胸が潰れずにそこにある。
    あごがそこに収まる。

    この感覚は、
    一つの部位だけを動かして作るものではない。

    肩、肘、手首、指先の関係。
    足の置き方、骨盤、背中、首の関係。
    重心、接地、張り、緩み、流れ。

    そうした条件が関係して、
    結果として形が現れる。

    本文で、
    「形は結果であり、型は条件を含んでいるのではないか」
    と書いたのは、
    この感覚に近い。

    形は外から見える。

    しかし型は、
    その形がなぜそこに生まれるのか、
    その条件まで含んでいるのではないか。

    この見方は、
    動きを条件の組み合わせから見る考え方と重なる部分がある。

    ただし、本文との差分もある。

    制約主導アプローチは、
    運動学習やスポーツ科学の文脈で使われる考え方である。

    この記事は、
    型稽古を科学モデルに置き換えたいわけではない。

    また、
    型を身体、課題、環境の条件だけで説明し切れる、
    と言いたいわけでもない。

    空手の型には、
    流派の伝承、
    先生の教え方、
    礼法、
    相手の想定、
    武術としての意味も含まれているはずである。

    本文で使っている「条件」は、
    研究上の厳密な制約という意味ではない。

    今の自分が稽古中に感じている、
    形がそこに現れるための身体の関係を、
    仮にそう呼んでいる。

    ### 4. アフォーダンス、生態心理学

    研究者は、ジェームズ・J・ギブソン。

    アフォーダンスは、
    環境が行為者に対して与える行為の可能性、
    という考え方で知られている。

    本文との共通点は、
    ものの見え方や意味が、
    単に外側にあるのではなく、
    身体との関係の中で変わる、
    という点である。

    同じ形を見ている。
    同じ立ち方をしている。
    同じ手の位置、同じ足の位置、同じ姿勢を教わっている。

    それでも、
    自分の中では少しずつ見ているものが変わってくる。

    最初は、
    手の位置や足の位置を外から合わせる。

    しかし稽古を続けていくと、
    その手がなぜそこにあるのか、
    その足がなぜそこに置かれるのか、
    その胸の状態がなぜ必要なのか、
    そのあごの位置がなぜそこなのか、
    という見方が出てくる。

    同じ形でも、
    身体の状態が変わると、
    見えてくる意味が変わる。

    この点は、
    身体と環境の関係の中で意味や行為の可能性が現れる、
    という考え方と少し重なる。

    ただし、本文との差分もある。

    アフォーダンスや生態心理学は、
    主に知覚と行為の関係を説明する考え方である。

    本文で扱っているのは、
    型稽古の中で、
    外から見える形と、
    その形が生まれる身体の条件をどう分けて見始めているか、
    ということである。

    相手との関係や環境との関係まで大きく広げると、
    この記事の焦点はぼやける。

    この記事の中心は、
    まず自分の身体の中で、
    形を外から合わせることと、
    型として条件がそろって形が生まれることは違うのではないか、
    という小さな違和感である。

    ### まとめ

    AIに調べてもらうと、
    この記事に近い研究や概念はいくつかあった。

    暗黙知。
    運動技能習得の三段階モデル。
    制約主導アプローチ。
    アフォーダンス、生態心理学。

    どれも、
    本文の一部とは重なる。

    身体で分かることは、
    外から見える形だけでは説明しきれない。

    同じ動きでも、
    習得の段階によって中身が変わる。

    動きや形は、
    身体の条件が合った結果として現れることがある。

    同じ形でも、
    身体との関係が変わると見え方が変わる。

    こうした点では、
    この記事で書いたことと近い。

    ただし、
    この記事は研究紹介ではない。

    また、
    これらの研究によって、
    空手の型を説明し切れるとも思っていない。

    自分が書きたかったのは、
    もっと稽古の中の具体的な感覚である。

    形は、外から見える姿勢や位置である。

    型は、
    その形が生まれる身体の使い方、
    流れ、
    条件まで含んでいるのではないか。

    この分け方は、
    正しい定義ではない。

    数年後には、
    この分け方では足りないと思うかもしれない。

    そもそも、
    「形」と「型」をこう分けること自体が浅いと思うかもしれない。

    それでも今の自分には、
    この分け方が必要である。

    同じ形を稽古していても、
    外から見えるものを合わせている時と、
    身体の中で何かが合った結果としてその形になる時では、
    稽古中の感覚が違うからである。

    この補記は、
    その違いを、
    少しだけ別の角度から見直すためのものである。

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