前回は、オープンワールドだからこそ、先生・先輩・師匠が必要になる、という話を書きました。
形を覚える段階でも、先生や先輩は必要です。
外形から内部操作へ移る段階では、さらに必要になる。
自分では、内部のズレに気づけないことがある。
勝手に揃ったつもりでも、勘違いはある。
そして、修行が広がっていくほど、自由だからこそ迷う。
だから、先生・先輩・師匠は、単に形を採点する人ではなく、進む方向を示してくれる存在なのではないか。
前回は、そこまでを書きました。
今回は、その続きとして、「達人」という言葉について考えてみたいと思います。
自分は、この言葉を簡単に使いたくありません。
「達人」という言葉への違和感
空手や武道の話をしていると、「達人」という言葉が出てくることがあります。
とても強い先生。
とても上手い先生。
普通では考えられない動きをする先生。
長く修行を続けてきた先生。
そういう先生に対して、「達人」という言葉が使われることがあります。
もちろん、その気持ちは分かります。
すごいものを見た時に、そう言いたくなる。
自分の理解を超えたものを見た時に、そう呼びたくなる。
それは自然な反応なのかもしれません。
ただ、自分はこの言葉を、少し軽く使いすぎると危ない気がしています。
なぜなら、「達人」と呼んだ瞬間に、その人を完成者のように見てしまうからです。
この人は到達した人だ。
この人は分かった人だ。
この人は完成した人だ。
そういう響きが出てしまう。
でも、空手の修行は、そんなに簡単に完成したと言えるものなのだろうか。
今の自分には、そこに引っかかりがあります。
沖縄空手の先生方は、自らを簡単に達人とは言わないのではないか
これは自分の現時点での見方ですが、沖縄空手の先生方は、自らを簡単に達人とは言わないのではないかと思っています。
もちろん、すべての先生について知っているわけではありません。
自分が見聞きしてきた範囲での印象です。
それでも、沖縄空手の先生方には、自分を完成者として置かない距離感があるように感じています。
長く稽古している。
深く研究している。
後進を指導している。
大きな実力を持っている。
それでも、自分はまだ修行の途中である。
そういう感覚を持っているのではないか。
自分には、そう見えています。
だからこそ、「達人」という言葉を外から簡単に貼ることにも、少し慎重になりたい。
先生への敬意はあります。
先輩への敬意もあります。
でも、敬意があることと、簡単に達人と呼ぶことは同じではないと思います。
先生や先輩への敬意は、軽い称号で表すものではない
先生や先輩を軽く見たいわけではありません。
むしろ逆です。
自分より長く稽古している人がいる。
自分より深く型を見ている人がいる。
自分では気づけないズレを見抜いてくれる人がいる。
自分ではまだ入れないところを、身体で示してくれる人がいる。
そういう存在への敬意はあります。
ただ、その敬意を「達人」という言葉で簡単に処理したくない。
「すごいですね」
「達人ですね」
「神業ですね」
そう言ってしまうと、見ている側は楽です。
自分には分からないものを、すごいものとして棚上げできるからです。
でも、それでは、その先生が何を積み上げてきたのか、何を今も探っているのか、どこで修行し続けているのかが見えにくくなる気がします。
先生や先輩への敬意は、称号で飾ることではなく、稽古の積み重ねや、見えている深さに対して、こちらも誠実に向き合うことなのではないか。
今の自分には、そう感じられます。
どれほど優れた先生でも、修行の途中にいる
どれほど優れた先生でも、修行の途中にいる。
今の自分には、そう考える方がしっくり来ます。
もちろん、段階はまったく違います。
自分のような武歴10年にも満たない者と、長年稽古してきた先生方を同じ場所に置くつもりはありません。
見えているものも違う。
身体に入っているものも違う。
稽古の質も違う。
人に伝えられるものも違う。
それでも、「修行の途中にいる」という意味では、道は続いているのではないかと思っています。
もし、どこかで「自分は到達した」「自分は完成した」と思ってしまったら、そこで稽古は止まる気がします。
型についても同じです。
「この型は分かった」
「この動きはもう分かっている」
「これはこういう意味だ」
そう言い切った瞬間に、見えなくなるものがあるのではないか。
もちろん、指導の場では、ある程度はっきり言わなければならないこともあると思います。
初心者に対しては、形を明確に教える必要があります。
でも、内側では、まだ先があるという感覚を失ってはいけないのではないか。
今の自分には、そこが大事に見えています。
本当に達人と言えるとすれば、流祖の先生くらいではないか
本当に「達人」と言えるとすれば、流祖の先生くらいなのではないか。
今の自分には、そう感じられます。
流祖は、ただ強かった人というだけではないと思います。
その流派の型を残した人。
身体の使い方、技の考え方、稽古の方向性を、型という形で後世に残した人。
その人が見ていたものは、後世の自分たちには簡単には分からない。
だからこそ、型を稽古するということは、流祖が残したものを、身体で少しずつ読み直すことでもあるのではないか。
今の自分には、そう見えています。
もちろん、自分には流祖の先生の見ていた世界など分かりません。
分かったと言えるはずもありません。
だからこそ、簡単に「達人」と言いたくない。
本当にその言葉を使えるとすれば、型を残し、その流派の道筋を作った流祖の先生くらいなのではないか。
そのくらいの距離感でいた方が、型に対して謙虚でいられる気がしています。
流祖への距離感があるから、「分かった」と簡単には言えない
流祖への距離感を考えると、型を「分かった」と簡単には言えなくなります。
今、自分が稽古している型には、長い時間があります。
流祖がいる。
先生方がいる。
先輩方がいる。
受け継がれてきた稽古がある。
自分は、その末端で稽古しているだけです。
今の自分が少し感じたこと。
少し分かりかけたこと。
少し「嵌まる」感覚が出てきたこと。
それらは大事にしたい。
でも、それだけで型を分かったとは言えない。
たまたま一部の感覚に触れただけかもしれない。
自分の身体の条件の中で、少し入口が見えただけかもしれない。
もっと先には、今の自分には想像できない理解があるかもしれない。
そう考えると、型について語る時には、どうしても慎重になります。
これは分かったことではない。
現時点で、こう見えているだけ。
そういう書き方になる。
この距離感は、自分にとってかなり大事です。
自分も「分かった」と言い切らない
このシリーズで何度も書いているように、私はまだ武歴10年にも満たない未熟者です。
型について、分かったと言える段階ではありません。
だから、このシリーズも、正解を書くためのものではありません。
今の自分がどう見ているのか。
何に引っかかっているのか。
どこに少し手触りを感じているのか。
それを残すための文章です。
「形を通って型に入る」
「勝手に揃うことはゴールではなく前提条件である」
「そこから修行はオープンワールドになる」
そう書いていますが、これも現時点の理解です。
あとで変わるかもしれません。
数年後に読み返したら、浅かったと思うかもしれません。
もっと違う言葉で言い直したくなるかもしれません。
それでいいと思っています。
むしろ、今の段階で「分かった」と言い切る方が怖い。
分かったと言い切ると、そこで見直す余地が減ってしまう。
だから、自分も「分かった」とは書かない。
今どう分かりかけているのかを書く。
その姿勢でいたいと思っています。
稽古メモを改訂前提にする理由
自分が稽古メモを改訂前提で書いているのも、このためです。
今の理解は、今の理解でしかありません。
今の身体で感じていること。
今の稽古量で見えていること。
今の言葉で整理できること。
それらを、いったん残しているだけです。
稽古が進めば、見え方は変わると思います。
同じ形の意味も変わるかもしれません。
同じ型の受け取り方も変わるかもしれません。
「嵌まる」という言葉も、あとで違う言葉に置き換えたくなるかもしれません。
「勝手に揃う」という表現も、あとで粗いと感じるかもしれません。
でも、それでいい。
今の理解を残しておかないと、あとで何が変わったのかが分からなくなります。
だから、改訂前提で書く。
間違っている可能性も含めて、今の自分の理解を残す。
それも稽古の一部なのではないかと思っています。
型を稽古することは、完成者として語ることではない
型を稽古するということは、完成者として語ることではないと思っています。
少なくとも、今の自分にとってはそうです。
型を分かった人間として語るのではない。
型の正解を説明するのでもない。
流祖の意図を知っているかのように語るのでもない。
そうではなく、型を通じて、自分の身体がどう変わり、見え方がどう変わり、何をまだ分かっていないのかに気づいていく。
その過程なのだと思います。
だから、型について書く時にも、完成者の言葉にはしたくありません。
断定しすぎない。
分かったふりをしない。
ただし、曖昧に逃げるわけでもない。
今の自分にはこう見えている。
ここまでは感じている。
でも、まだ先がある。
その形で書きたい。
流祖への距離を感じながら、理解を更新し続ける
流祖への距離を感じるということは、自分を小さくすることではないと思います。
むしろ、型の大きさを見失わないための姿勢なのだと思います。
自分が今感じていることは大事です。
稽古の中で出てきた手触りは、大事にしたい。
でも、それを型のすべてだとは思わない。
流祖が残した型には、今の自分にはまだ見えていないものがある。
先生方や先輩方が稽古してきた中にも、自分にはまだ届かないものがある。
だから、自分の理解を更新し続ける。
今日見えたものを残す。
数年後に読み返す。
違っていたら直す。
浅かったら深める。
言葉が足りなければ書き換える。
そうやって、自分の理解を更新し続けることも、型の稽古の一部なのだと思います。
現時点の理解として
今の自分には、こう見えています。
沖縄空手の先生方は、自らを簡単に達人とは言わないのではないか。
どれほど優れた先生でも、修行の途中にいる。
本当に達人と言えるとすれば、流祖の先生くらいではないか。
この距離感があるから、型を「分かった」と簡単には言えない。
先生や先輩への敬意はあります。
でも、敬意があることと、簡単に達人と呼ぶことは同じではない。
型を稽古するということは、完成者として語ることではない。
流祖への距離を感じながら、自分の理解を更新し続けることなのだと思います。
これは正解の説明ではありません。
武歴10年にも満たない自分が、
現時点で型稽古をどういう修行の階層として見ているのかを残すための稽古メモです。

コメント