第9回 修行は道場だけではない。空手の歴史も研究する必要がある

前回は、簡単に「達人」と呼ばないことについて書きました。

沖縄空手の先生方は、自らを簡単に達人とは言わないのではないか。

どれほど優れた先生でも、修行の途中にいる。

本当に達人と言えるとすれば、流祖の先生くらいなのではないか。

この距離感があるから、型を「分かった」と簡単には言えない。

前回は、そういう話を書きました。

今回は、このシリーズの締めとして、修行は道場の中だけで完結しないのではないか、ということを書いておきます。

型には歴史があります。

流祖がいる。

流派の成り立ちがある。

時代背景がある。

受け継がれてきた文脈がある。

だから、型を稽古するなら、身体で稽古することだけではなく、空手の歴史についても研究していく必要があるのではないか。

今の自分には、そう見えています。

型は身体感覚だけで完結しない

これまでのシリーズでは、かなり身体感覚の話をしてきました。

形を合わせること。

形から型へ入ること。

整えることと、勝手に揃うことの違い。

型に嵌まる感覚。

身体が揃ったあとに始まる、オープンワールドとしての修行。

先生・先輩・師匠の必要性。

そういう話を書いてきました。

どれも、自分の身体で稽古していく中で感じたことです。

だから、型の稽古に身体感覚は必要です。

身体で稽古しなければ、型は身体に入りません。

頭だけで理解しても、動けるようにはならない。

歴史を読んだだけで、技が出るわけでもない。

だから、道場で稽古することは必要です。

ただ、それだけで完結するのかというと、今の自分には少し違う気がしています。

型は、自分の身体感覚だけで完結するものではない。

そこには、歴史があるからです。

型には歴史がある

型は、いま自分が稽古している目の前の動きだけではないと思います。

そこには、受け継がれてきた時間があります。

誰かが作った。

誰かが伝えた。

誰かが直した。

誰かが守った。

誰かが失ったものもあるかもしれない。

誰かが変えたものもあるかもしれない。

そういう長い流れの中で、いま自分が稽古している型があります。

だから、自分が今感じていることだけで型を語るのは、少し危うい気がしています。

もちろん、自分の身体で感じたことは大事です。

稽古の中で出てきた感覚は、大事にしたい。

でも、その感覚だけで型の意味を決めてしまうと、自分の身体の範囲に閉じてしまうかもしれない。

型には、自分がまだ知らない背景があります。

なぜその動きがあるのか。

なぜその順番なのか。

なぜその方向なのか。

なぜその立ち方なのか。

なぜその技が、そこに入っているのか。

それを考えるには、身体だけでは足りないのではないかと思っています。

流祖がいる

型には、流祖がいます。

その流派を作り、型を残した先生がいます。

前回も書いたように、自分は「達人」という言葉を簡単には使いたくありません。

本当に達人と言えるとすれば、流祖の先生くらいなのではないか。

今の自分には、そう感じられます。

流祖の先生が何を見ていたのか。

何を残そうとしたのか。

なぜその型を残したのか。

そのすべてを、自分が分かるはずはありません。

ただ、分からないからこそ、調べる必要があるのだと思います。

身体で稽古する。

そのうえで、流祖の先生が生きた時代や、稽古していた環境や、影響を受けたものを調べる。

そうすることで、型の見え方が少し変わるかもしれない。

今まで単なる動きとして見ていたものが、別の文脈を持って見えてくるかもしれない。

もちろん、それで正解が分かるわけではありません。

でも、流祖がいるという事実を考えるなら、自分の身体感覚だけで型を閉じてはいけない気がしています。

流派の成り立ちがある

型には、流派の成り立ちも関係していると思います。

同じ空手と言っても、流派によって考え方が違います。

重視する型も違う。

身体の使い方も違う。

稽古の順番も違う。

何を守ろうとしてきたのかも違う。

だから、自分の流派がどう成り立ってきたのかを知ることは、型を理解するうえで大事なのではないかと思っています。

なぜ、この型を稽古するのか。

なぜ、この順番で学ぶのか。

なぜ、この形を大事にするのか。

なぜ、この動きにこだわるのか。

そこには、流派の歴史が関係しているかもしれない。

自分が道場で教わっていることは、今ここで突然生まれたものではありません。

過去から続いてきたものです。

もちろん、受け継がれる中で変わったものもあると思います。

伝わり方によって、強調される部分も変わるかもしれません。

だからこそ、歴史を調べる必要がある。

ただ受け取るだけではなく、どのように伝わってきたのかを知ろうとすることも、型の稽古の一部なのではないかと思っています。

時代背景がある

型には、時代背景もあるはずです。

今の自分たちは、現代の道場で稽古しています。

安全な場所があります。

先生がいます。

先輩がいます。

稽古時間があります。

動画もあります。

本もあります。

情報もあります。

でも、型が生まれた時代は、今とは違うはずです。

その時代の身体感覚。

その時代の武術観。

その時代の生活。

その時代の危険。

その時代の交流。

その時代の制約。

そういうものの中で、型は作られ、伝えられてきたのだと思います。

だとすれば、今の感覚だけで型を見ると、見落とすものがあるかもしれません。

現代のスポーツや運動の感覚で見てしまう。

現代の自分の身体感覚だけで判断してしまう。

今の道場の稽古だけで意味を決めてしまう。

それでは、型の背景が見えにくくなる気がします。

型を考えるなら、その型がどのような時代の中で残されてきたのかも見たい。

今の自分には、そういう必要性を感じています。

道場での稽古は必要である

ここで誤解したくないのは、歴史研究をすれば道場での稽古が不要になる、という話ではないことです。

道場での稽古は必要です。

身体で稽古しなければ、何も分かりません。

形を合わせる。

直される。

癖に気づく。

筋肉で作る限界に気づく。

内部操作を探る。

勝手に揃う感覚の入口に触れる。

相手と接触する。

先生や先輩に見てもらう。

そういう稽古がなければ、型は身体に入らない。

歴史をいくら調べても、身体が変わらなければ、型を稽古したことにはならないと思います。

文献を読んで、言葉を知って、由来を知って、それだけで分かった気になるのも危うい。

型は、身体で稽古するものです。

そこは外したくありません。

歴史研究も必要である

ただし、身体で稽古していればそれだけで十分かというと、そこも違う気がしています。

身体だけで稽古していると、自分の感覚に閉じる危うさがあります。

自分にはこう感じる。

自分にはこう使える気がする。

自分にはこう見える。

それは大事です。

でも、それだけだと、自分の身体や自分の時代の感覚だけで型を解釈してしまうかもしれません。

だから、歴史研究も必要だと思っています。

流祖について調べる。

流派の成り立ちを調べる。

型が伝わってきた流れを調べる。

沖縄空手の歴史を調べる。

時代背景を調べる。

他の流派や武術との関係を調べる。

そうすることで、道場で稽古している型の見え方が変わるかもしれない。

稽古中に感じた違和感の意味が、あとで歴史の文脈から見えてくることもあるかもしれない。

逆に、歴史を調べたことで、道場での稽古中に新しい問いが生まれるかもしれない。

だから、歴史研究は身体稽古の外側にある趣味ではなく、型の理解を深めるためのもう一つの稽古なのではないか。

今の自分には、そう見えています。

歴史だけでは身体に入らない

ただし、歴史だけでも足りません。

歴史を調べることは大事です。

でも、歴史を知っただけで型が身体に入るわけではありません。

流祖について知る。

流派の成立を知る。

時代背景を知る。

文献を読む。

それは必要です。

でも、そこで止まると、知識で終わってしまいます。

型は身体で稽古するものです。

どれだけ歴史を調べても、立ち方が変わらなければ、身体は変わりません。

どれだけ由来を知っても、手がそこに来なければ、型には入りません。

どれだけ文脈を知っても、相手と接触した時に働かなければ、技にはなりません。

だから、歴史研究は道場での稽古に戻らなければいけない。

知ったことを、身体で確かめる。

文脈を、稽古の中で検証する。

そうしないと、歴史は知識のままで止まってしまう。

今の自分には、そう思えます。

身体だけでは文脈を失う

一方で、身体だけでも危ういと思っています。

身体で感じたことは大事です。

でも、その感覚だけで型を決めてしまうと、自分の身体に閉じるかもしれない。

自分にはこう感じた。

だから、この型はこういう意味だ。

そう言い切るのは危うい。

自分の身体感覚は、今の自分の段階に影響されます。

筋力。

年齢。

癖。

稽古量。

先生から受けた指導。

過去の経験。

それらによって、感じ方は変わります。

だから、自分の身体感覚だけで型の意味を決めると、文脈を失う可能性があります。

型には歴史がある。

流祖がいる。

流派の成り立ちがある。

時代背景がある。

そこを見ずに、自分の感覚だけで解釈すると、型を自分の中に閉じ込めてしまうかもしれない。

だから、身体だけでも足りない。

身体で感じたことを、歴史や文脈の中に置き直す必要があるのだと思います。

両方を行き来する必要がある

結局、道場での稽古と歴史研究は、どちらか一方ではなく、両方を行き来する必要があるのだと思います。

身体で稽古する。

違和感が出る。

歴史を調べる。

文脈を知る。

また道場に戻る。

身体で確かめる。

また違和感が出る。

さらに調べる。

また稽古する。

この往復が必要なのではないか。

道場での稽古は、身体を通した検証です。

歴史研究は、型が置かれている文脈を調べることです。

どちらかだけでは足りない。

身体だけでは、自分の感覚に閉じる。

歴史だけでは、知識で止まる。

両方を行き来することで、型の理解は少しずつ深まるのではないか。

今の自分には、そう見えています。

自分の理解を改訂し続ける

このシリーズでは、何度も「現時点の理解」と書いてきました。

それは、自分がまだ分かっていないからです。

今の理解は、たぶん変わります。

道場で稽古を続ければ、身体感覚は変わる。

先生や先輩に直されれば、見えるものも変わる。

歴史を調べれば、型の受け取り方も変わる。

今はこう思っていることも、数年後には違う言葉で言い直したくなるかもしれない。

それでいいと思っています。

むしろ、変わらない方が怖い。

型を稽古するということは、自分の理解を固定することではないと思います。

形を通って型に入る。

勝手に揃う感覚を探る。

そこからオープンワールドとしての修行が始まる。

先生や先輩に導かれる。

簡単に達人と呼ばず、流祖への距離を感じる。

そして、歴史も調べる。

この全部を通じて、自分の理解を改訂し続ける。

そのこと自体が、型の修行の一部なのではないかと思っています。

現時点の理解として

今の自分には、こう見えています。

修行は道場の中だけで完結しません。

型には歴史があります。

流祖がいる。

流派の成り立ちがある。

時代背景がある。

だから、身体で稽古することと、歴史を調べることは両方必要だと思っています。

道場での稽古は必要です。

身体で稽古しなければ、型は身体に入りません。

でも、歴史研究も必要です。

歴史を知らなければ、型の文脈を見失うかもしれません。

歴史だけでは身体に入らない。

身体だけでは文脈を失う。

だから、両方を行き来する必要がある。

修行は道場の中だけで完結しない。

身体で稽古し、歴史を学び、自分の理解を改訂し続けることまで含めて、型の修行なのだと思います。

これは正解の説明ではありません。

武歴10年にも満たない自分が、
現時点で型稽古をどういう修行の階層として見ているのかを残すための稽古メモです。

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