はじめに:サンチン立ちは止まった形に見えやすい
サンチン立ちは、一般的には「立ち方」として説明されることが多いと思います。
足をどう置くか。
つま先をどう向けるか。
膝をどうするか。
腰をどう締めるか。
腹をどう使うか。
脇をどう締めるか。
呼吸をどう合わせるか。
そういう説明は、もちろん大事です。
初心者に何かを教えるときには、まず外から見える形を使って説明するしかありません。
足幅は見える。
つま先の向きも見える。
膝の曲がりも見える。
腰の高さも、腕の位置も、脇の締まりも、ある程度は外から確認できます。
だから、サンチン立ちを教えるときにも、まずはそうした外から見える形の説明になります。
それ自体が間違っているとは思いません。
むしろ、最初から身体の内側の感覚や、力の通り方や、接触したときの圧の処理を説明されても、初心者にはほとんど分からないと思います。
だから、まず形として教える。
足を置く。
膝を見る。
腰を見る。
腹を見る。
腕を見る。
呼吸を見る。
それは必要な入口だと思います。
ただ、最近の自分は、その入口だけでは足りないのではないかと感じています。
サンチン立ちは、止まった姿勢として見ると分かりやすい。
正しい足幅。
正しいつま先の向き。
正しい膝の形。
正しい腰の位置。
正しい腕の構え。
正しい呼吸。
そうやって、一枚の写真のように切り取れば、説明しやすくなります。
でも、型の中のサンチン立ちは、本当に止まっているのでしょうか。
足を運ぶ。
接地する。
身体が移る。
膝が緩む。
足裏が地面を捉える。
腰が働く。
キメの瞬間が来る。
そこからまた次の動きへ移る。
そう考えると、サンチン立ちは、単に止まった形として見るだけでは足りない気がしています。
動くときにはどう変化するのか。
接地した瞬間に足裏はどう働くのか。
キメの瞬間には何が起きているのか。
その状態が、次の動きへどうつながるのか。
そこまで見ないと、サンチン立ちを見ているようで、実は外から見える形だけを見ていることになるのではないか。
今はそんなふうに感じています。
もちろん、ここに書くことが自分にできているわけではありません。
むしろ、できている感じはまったくありません。
足裏はすぐ抜けます。
膝は突っ張るか、緩みすぎます。
腰が使えているのかも、まだよく分かりません。
接触すれば、腕や肩で相手と喧嘩してしまうこともあります。
だからこれは、サンチン立ちの正解を説明する文章ではありません。
今の自分が、サンチン立ちを止まった形としてではなく、動きの中でどう働くものなのかを見ようとしている、その途中の記録です。
一般論は間違いではない。ただし静止画になりやすい
サンチン立ちは、身体を安定させ、締め、呼吸、姿勢を確認するための重要な立ち方として説明されることが多いと思います。
足裏で地面を捉える。
下半身を締める。
腰や腹を抜かない。
背筋を保つ。
脇を締める。
呼吸と動作を合わせる。
そういう説明は、どれも大事だと思います。
実際、そうした説明がなければ、最初に何を見ればいいのか分かりません。
足の置き方が崩れていれば、立ち方も崩れる。
膝や腰が抜けていれば、身体は安定しない。
腹が抜ければ、上半身だけで構えることになる。
脇が浮けば、腕と身体が切れる。
呼吸が乱れれば、姿勢も締めも保ちにくくなる。
だから、一般的なサンチン立ちの説明そのものが間違っているとは思いません。
むしろ、入口としては必要だと思っています。
ただ、その説明はどうしても静止画になりやすい。
サンチン立ちを、ある瞬間の完成形として切り取ってしまう。
足はこの位置。
つま先はこの向き。
膝はこの角度。
腰はこの高さ。
腕はこの場所。
呼吸はこうする。
そうやって説明すると、分かりやすい。
でも、その分、サンチン立ちが「止まった形」として見えやすくなります。
もちろん、型の中にはキメの瞬間があります。
ある瞬間に、身体が決まる。
外から見れば、そこで形が成立しているように見える。
ただ、そのキメの瞬間だけを見て、サンチン立ちのすべてだと思ってしまうと、少し違う気がしています。
型の中の立ち方は、ずっと同じ状態で固定されているわけではないと思うからです。
動く前には、動くための緩みがある。
足を運ぶ途中には、重心の移動がある。
接地の瞬間には、足裏の働きがある。
キメの瞬間には、身体がまとまる。
そして、その後には、次の動きへ移るためのほどけ方がある。
つまり、立ち方は、止まった一枚の形ではなく、動きの中で変化している。
そう考えると、サンチン立ちを見るときにも、足の形や膝の角度だけでは足りないのではないかと思います。
その形に入る前に、何が起きているのか。
その形が決まる瞬間に、身体の中で何がまとまっているのか。
その形から、次の動きへどうつながっていくのか。
そこまで見ないと、立ち方を見ているようで、実は止まった形だけを見ていることになるのではないか。
最近は、そんなふうに考えています。
サンチン立ちを「鍛錬用」に見せている前提
サンチン立ちは、実際の動きとは別の、鍛錬のための立ち方として見られることがあります。
その見方が出てくる理由も、分からなくはありません。
現代の競技組手には、遠い間合いで距離を管理し、ステップで出入りし、わずかなタイミングで踏み込んで技を届かせる高度な技術があります。
あの動きはとても強いと思います。
速さ。
反応。
間合いの管理。
踏み込みの鋭さ。
相手の動きへの対応。
どれも簡単にできるものではありません。
自分が競技組手の強い人に勝てるとも思っていません。
ただし、その動きの前提でサンチン立ちを見ると、サンチン立ちは実際の動きとは別の、鍛錬用の形に見えやすいのではないかと思います。
サンチン立ちは、足幅が広くありません。
運歩も大きくありません。
軽く跳ねて距離を変えるような構えにも見えません。
遠い間合いで出入りし、踏み込んで技を届かせる動きと比べると、かなり違うものに見えます。
だから、サンチン立ちは実際には使わない、鍛錬のための立ち方だと見られやすい。
ただ、自分はそこに違和感があります。
問題は、競技組手が強いかどうかではありません。
競技組手は強い。
あの動きには、あの動きの理があります。
そのうえで、沖縄空手が見ている実際の動きは、遠い間合いで出入りし、踏み込んで技を届かせる動きだけなのか。
自分には、そうは思えません。
沖縄空手、とくに那覇手は、もっと近い間合いを見ているように感じます。
近い。
触れる。
押す。
引く。
崩す。
外す。
入る。
相手と接触する距離。
腕が触れ、圧がかかり、身体が崩されそうになる距離。
その中で、身体をどう保つか。
そこでサンチン立ちを見る必要があるのだと思います。
首里手や泊手は、那覇手と比べれば遠間寄りに見えるかもしれません。
ただし、その「遠間」は、一般的な意味で遠くから差し合い続ける間合いではないと思います。
あくまで、那覇手と比較したときに、相対的に外側から入るように見える、という意味での遠間です。
素手で武器の間合いに居続けることはできません。
剣の届く距離で、素手のまま遠くから差し合い続ければ、基本的には勝負にならない。
どこかで距離を消す必要があります。
どこかで相手の懐に入る必要があります。
これは、那覇手だけではなく、首里手でも泊手でも同じだと思います。
だから、サンチン立ちは「遠間で使えないから鍛錬用」なのではないと思います。
むしろ、遠い間合いで出入りし、踏み込んで技を届かせる動きだけを実際の動きとして見てしまうと、サンチン立ちは鍛錬用にしか見えなくなる。
でも、沖縄空手の中には、もっと近い距離での動きがあります。
近い間合いに入る。
相手と触れる。
押される。
引かれる。
崩されそうになる。
こちらも押す。
流す。
返す。
さらに入る。
その中で、身体を割らずに動く。
足裏が抜けない。
膝が死なない。
腰が抜けない。
腕や肩だけで相手とぶつからない。
そういう身体の状態を見るために、サンチン立ちがあるのではないか。
だから自分は、サンチン立ちを、実際の動きとは別の鍛錬用の姿勢としてだけ見るのではなく、近い間合いで相手と接触したときに、身体をどう保つかを見るための立ち方として考えています。
競技組手の動きは強い。
それはそれで理にかなっている。
ただし、その動きだけを実際の動きとして見ない。
その前提を外したとき、サンチン立ちは、近間で身体を割らずに動くための立ち方として見えてくるのだと思います。
膝は曲げっぱなしではない
サンチン立ちの説明では、「膝を曲げる」と言われることがあります。
これは、外から見れば分かりやすい説明だと思います。
膝は見えやすい。
腰の高さも見えやすい。
足幅やつま先の向きと同じように、外から確認しやすい。
だから、サンチン立ちは膝を曲げるものだ、と説明されやすいのだと思います。
その説明が、まったく間違っているとは思いません。
動きの中で膝が緩む場面はあります。
重心が移るとき。
足を運ぶとき。
接地するとき。
身体の中に溜めができるとき。
その瞬間だけを外から見れば、たしかに膝は曲がっているように見える。
ただ、自分の流派では、サンチン立ちで「膝を曲げる」とは言いません。
基本は、膝を伸ばす。
ここが、自分にとってはかなり大事なところです。
もちろん、膝を伸ばすといっても、ただ突っ張るという意味ではありません。
膝を突っ張れば、動けなくなります。
足裏からの力も通りにくくなります。
股関節や腰も固まりやすい。
相手から圧が来たときにも、受け流すより先に身体が止まってしまう。
だから、動くときには緩めないと動けません。
足を運ぶ。
重心が移る。
接地する。
相手との距離が変わる。
身体の中に力が溜まる。
そのときには、膝が緩む。
ただし、その緩みは、崩れるための緩みではありません。
力が抜けてしまうのではなく、次に力を通すための緩みです。
自分の感覚では、それは溜めに近い。
一寸力のための溜め、と言ってもいいかもしれません。
大きく沈み込むわけではない。
大きく反動をつけるわけでもない。
けれど、動きの中で一瞬、膝が緩み、足裏から腰へ力が集まるような感じがある。
そして、キメの瞬間には、特に後ろ足をさらに伸ばす。
この後ろ足の伸びがないと、力が通らない気がしています。
膝を曲げたまま耐えるのではない。
膝を緩めたまま終わるのでもない。
緩めて、溜めて、キメの瞬間に伸びる。
その伸びによって、足裏から股関節、腰、体幹へ力が通る。
ただし、ここでも注意が必要です。
伸ばすといっても、膝だけを伸ばすのではありません。
膝を棒のように突っ張るのでもありません。
足裏が地面を捉えている。
そこから脚が絞られる。
踵が地面に刺さる。
膝が伸びる方向に働く。
股関節を通って、腰へつながる。
そこから体幹へ力がまとまる。
そういう伸びでなければ、ただの突っ張りになってしまう。
膝を伸ばして安定するのは、かなり難しいと思います。
膝を曲げて安定させる方が、外からは分かりやすい。
腰を落とせば、安定しているようにも見える。
太ももで支えることもできる。
でも、膝を伸ばして安定するには、足裏、膝、股関節、腰、体幹がつながっていないといけない。
膝だけ伸ばせば突っ張る。
緩めすぎれば崩れる。
伸ばしたまま居着けば、次に動けない。
その間で、動くときには緩み、キメの瞬間には伸びる。
この膝の緩みと伸びが、サンチン立ちの中ではかなり重要なのではないかと思っています。
だから自分は、サンチン立ちを「膝を曲げて固める立ち方」とは見ていません。
基本は膝を伸ばす。
動くために緩める。
緩みが溜めになる。
そしてキメの瞬間、とくに後ろ足はさらに伸びる。
その働きの中に、一寸力につながるものがあるのではないか。
今は、そんなふうに考えながら稽古しています。
足裏は、根を張るように使う
膝の話ばかりになりやすいですが、サンチン立ちでは足裏もかなり重要だと思っています。
膝を伸ばす。
動くときには緩める。
キメの瞬間には、特に後ろ足をさらに伸ばす。
そう考えたとき、その前提になるのは、足裏が地面をどう捉えているかです。
足裏が抜けていれば、膝を伸ばしても力は通りません。
膝を伸ばしているつもりでも、ただ突っ張っているだけになる。
逆に、足裏が決まっていないまま膝を緩めれば、身体は崩れやすくなる。
だから、膝の使い方を考えるなら、足裏の使い方も一緒に見ないといけないと思っています。
サンチン立ちでは、足裏で地面を掴む、と言われることがあります。
ただ、自分の感覚では、足の指だけで地面を掴むだけでは足りません。
足指で床を握る。
それだけなら、足の指の力で頑張っているだけになりやすい。
それでは、根を張る感覚にはならない気がしています。
自分の感覚では、足を地面につける瞬間が大事です。
足を置くとき、いきなり足裏全体をベタッと置くのではない。
親指側から入る。
そこから、親指から踵にかけて接地させる。
そして、接地したあとに脚を絞る。
脚を絞りつつ、足の指で地面を掴む。
この順番が大事なのではないかと思っています。
足指で掴むこと自体が悪いわけではありません。
ただ、足指だけで掴むのではない。
親指側から入り、踵へ接地がつながる。
脚が絞られる。
その中で足指が地面を掴む。
そうすると、踵が地面に刺さるような感覚が出ることがあります。
踵に体重を乗せる、というだけではありません。
後ろへ居着く感じでもない。
踵が抜けず、地面との関係が深くなる。
そのうえで、足裏全体が根を張るようになる。
この感覚がないと、膝を伸ばして安定することも難しい気がしています。
足裏が根を張る。
踵が抜けない。
脚が絞られる。
膝が伸びる方向に働く。
股関節を通って、腰へつながる。
そこから体幹へ力がまとまる。
そういう流れがあって、はじめて膝の伸びもただの突っ張りではなくなるのではないかと思います。
ただし、この「根を張る」も、張りっぱなしではないはずです。
根を張りっぱなしにすれば、動けなくなります。
地面に居着いてしまう。
次の動きに移れない。
相手の圧を受け流すことも難しくなる。
でも、根が抜ければ崩れます。
足裏が浮く。
踵が抜ける。
足指だけでしがみつく。
膝が死ぬ。
腰が抜ける。
そうなると、身体全体がつながらない。
だから、足裏も静的に考えるのではなく、動的に考える必要があると思っています。
根を張る。
動くために緩む。
重心が移る。
接地し直す。
また根を張る。
キメの瞬間に、さらに足裏から力が通る。
この変化の中で、足裏が地面との関係を切らさないこと。
それが大事なのではないかと思います。
サンチン立ちの足裏は、ただ地面を掴むためのものではない。
親指側から接地し、踵へつなげる。
脚を絞る。
足指で地面を掴む。
踵が地面に刺さる。
足裏全体が根を張る。
そして、その根は固定された根ではなく、動きの中で張り、緩み、張り直される。
今は、そういう足裏の使い方を意識しながら稽古しています。
足裏の内側に乗る、だけでも足りない
足裏の使い方で、もう一つ気になっていることがあります。
足裏の内側に体重を乗せる、という説明を聞いたことがあります。
自分の誤解かもしれません。
ただ、膝を緩め、脚を絞りながら安定させようとすると、たしかに足裏の内側に体重が乗るような感覚はあります。
親指側。
母指球側。
足裏の内側。
そこに意識が集まりやすい。
脚を外へ逃がさず、内側へまとめる。
膝を緩めながら、身体をばらけさせない。
一瞬、溜めを作る。
そういう場面では、足裏の内側に乗る感覚は大事なのだと思います。
ただ、別の話では、それではダメだとも聞きます。
これも、自分の中では最初、少し混乱しました。
足裏の内側に乗るのが大事なのか。
それとも、内側に乗ってはいけないのか。
今の自分の解釈では、両方とも合っているのだと思います。
ただし、両方とも、それだけでは足りない。
足裏の内側に乗る感覚は、脚を絞るときや、溜めを作るときには必要になる。
でも、内側だけに乗ってしまうと、足裏全体では立てなくなる。
親指側に寄りすぎる。
踵が抜ける。
足の外側が死ぬ。
足裏全体で根を張れない。
膝や腰へ力が通らない。
そうなると、足裏の内側に乗っているつもりでも、身体全体としては安定しない気がします。
だから、内側に乗るのが正しいか、間違いかではないのだと思います。
問題は、どの局面で、何のために内側を使っているのか。
動きの中で膝が緩む。
脚を絞る。
身体の中に溜めができる。
その局面では、足裏の内側の感覚が出やすい。
しかし、そこからキメに向かうときには、内側だけでは足りない。
親指側から入り、踵へつなげる。
脚を絞る。
足指で地面を掴む。
踵が地面に刺さる。
足裏全体が根を張る。
そこまでいって、足裏の感覚が一つにつながるのではないかと思っています。
足裏の内側は大事です。
でも、内側だけでは足りない。
内側を使いながら、踵へつなげる。
踵を効かせながら、足裏全体で根を張る。
その根が、膝、股関節、腰、体幹へつながる。
そう考えると、足裏の内側に乗るという話も、単独の正解としてではなく、動きの中の一局面として見た方がよい気がしています。
連動の中心にあるのが腰、ガマク
ここまで、足裏や膝の話をしてきました。
足裏で根を張る。
膝を緩める。
キメの瞬間に後ろ足を伸ばす。
足裏の内側を使いながら、踵へつなげる。
足裏全体で根を張る。
どれも大事だと思います。
ただ、それらをばらばらに考えているうちは、サンチン立ち全体は見えないのだと思います。
足裏だけを意識しても、上半身へ通らない。
膝だけを意識しても、突っ張るか、緩みすぎる。
足指だけで地面を掴んでも、身体全体の根にはならない。
キメの瞬間に後ろ足を伸ばしても、それが腰につながらなければ、ただ膝を伸ばしただけになる。
それらを連動させるために重要になるのが、腰です。
ガマクと言ってもいいと思います。
足裏で根を張る。
膝が緩む。
後ろ足が伸びる。
股関節を通る。
腰につながる。
体幹へまとまる。
腕へ伝わる。
接触点へ出る。
この流れがなければ、サンチン立ちは足元だけの話になってしまう。
ガマクが働かないと、足裏で作った根は上半身へ通りません。
足裏では根を張っているつもりでも、腰で切れてしまう。
膝を伸ばしているつもりでも、腰へつながらなければ、ただの突っ張りになる。
キメているつもりでも、身体全体がまとまらず、腕や肩だけで力を出すことになる。
そうなると、接触点で相手と喧嘩しやすくなります。
相手の圧を腕だけで受ける。
肩で押し返す。
肘が浮く。
胸で固める。
腰が抜ける。
足裏へ圧が落ちない。
こうなると、サンチン立ちをしているつもりでも、身体の中ではつながっていないのだと思います。
逆に、ガマクが働くと、足裏、膝、股関節、体幹、腕、接触点がつながる。
相手の圧を腕だけで受けない。
接触点でぶつからない。
腰を通して足裏へ落とす。
足裏からの力を、腰を通して接触点へ返す。
そのとき、サンチン立ちは、単に外からの力に耐える形ではなくなります。
受ける。
流す。
外す。
返す。
入る。
そういう動きの中で、身体を割らずに保つための立ち方になる。
その中心にあるのが、腰であり、ガマクなのだと思います。
チンクチも、ガマクと切り離して考えると、局所的な力みに近づきやすい気がします。
腕だけを固める。
肩だけを締める。
膝だけを伸ばす。
腹だけに力を入れる。
それでは、チンクチが掛かっているというより、どこかを固めているだけになりやすい。
ガマクを通して、足裏から膝、股関節、体幹、腕までがつながる。
その中で、必要なところにチンクチが掛かる。
そう考えると、チンクチも、ガマクなしにはうまく働かないのではないかと思います。
もちろん、自分にそれができているわけではありません。
むしろ、稽古していると、腰でつなぐことの難しさばかり感じます。
足裏を意識すると、膝が固まる。
膝を意識すると、腰が抜ける。
腰を使おうとすると、上半身が力む。
接触すると、まだ腕や肩で相手と喧嘩してしまう。
だからこそ、サンチン立ちではガマクが大事なのだと思います。
足裏だけでもない。
膝だけでもない。
腕だけでもない。
チンクチだけでもない。
それらをばらばらにせず、動きの中でつなぐ中心として、腰がある。
サンチン立ちは、足裏で根を張り、膝で緩みと伸びを作り、ガマクでつなぎ、チンクチで決まり、接触点で相手と喧嘩しないための立ち方なのだと思います。
サンチン立ちは、外圧を受け止めるだけの形ではない
サンチン立ちは、外からの圧力に耐える立ち方として見られやすいと思います。
押されても崩れない。
叩かれても身体が割れない。
呼吸が乱れない。
姿勢が崩れない。
そういう確認の稽古もあります。
サンチンでは、外から身体に圧をかけられたときに、姿勢や締めが崩れないかを確認することがあります。
だから、外から見ると、サンチン立ちは「強く受け止めるための立ち方」に見えやすい。
たしかに、瞬間的には外圧を受け止められる必要があると思います。
押された瞬間に身体が割れる。
叩かれた瞬間に腹が抜ける。
腕に触れられた瞬間に肩が浮く。
足裏が抜けて、膝や腰が崩れる。
それでは、近い間合いでは身体を保てない。
だから、外圧を受けられる身体は必要です。
ただし、それだけではないと思っています。
沖縄空手では、相手の力をただガチッと受け止めるだけではなく、受け流すことも必要になります。
相手の力を全部、真正面から受け止める。
力と力でぶつかる。
その場で耐え続ける。
それだけでは、相手の圧に付き合うことになってしまう。
近い間合いでは、受けるだけではなく、流す。
外す。
角度を変える。
崩す。
返す。
入る。
そういう働きも必要になるはずです。
そのときに大事なのは、接触点で相手と喧嘩しないことだと思います。
腕と腕がぶつかる。
肩で押し返す。
肘が浮く。
腕だけで止める。
胸で固める。
腰が抜ける。
そうなると、接触点で力が喧嘩します。
接触点で力が喧嘩すると、相手の圧をその場で受けるしかなくなる。
腕で止める。
肩で耐える。
上半身だけで押し返す。
そうなると、サンチン立ちをしているつもりでも、身体全体としてはつながっていないのだと思います。
接触点で喧嘩しないためには、腕だけを柔らかくしても足りません。
腕だけ力を抜けばよい、という話ではない。
肩だけを下げればよい、という話でもない。
足裏。
膝。
股関節。
ガマク。
体幹。
脇。
腕。
接触点。
そこまでがつながっている必要がある。
相手の圧を、接触点だけで処理しない。
腕だけで止めない。
肩だけで受けない。
身体全体へ通す。
必要なら受ける。
必要なら流す。
必要なら返す。
そのために、サンチン立ちが重要になるのだと思います。
サンチン立ちは、外圧を受け止めるための強い形ではある。
でも、それは受け止めっぱなしになるための形ではない。
瞬間的には受けられる。
けれど、そこで居着かない。
接触点で相手と喧嘩しない。
足裏、膝、ガマクを通して、圧を流し、返し、次の動きへつなげる。
そう考えると、サンチン立ちは、ただ耐えるための立ち方ではなく、近い間合いで相手の圧を扱うための立ち方なのだと思います。
補助運動、移動稽古、型稽古で立ち方を見る
ここまで考えると、立ち方は止まった形だけで見るものではないと思えてきます。
足幅。
つま先。
膝。
腰。
腹。
脇。
呼吸。
そうした外から見える形は大事です。
ただ、それだけを見ていると、立ち方は静止した姿勢として固定されてしまう。
でも実際の稽古では、立ち方は止まっていません。
動く前がある。
動いている途中がある。
接地する瞬間がある。
キメの瞬間がある。
そこから次の動きへ移る瞬間がある。
その全部の中で、立ち方は変化しているのだと思います。
だから、補助運動、移動稽古、型稽古のそれぞれで、立ち方を見直す必要があるのだと思います。
補助運動では、要素を分解して確認する。
足裏で地面をどう捉えるのか。
親指側から入り、踵へどうつなげるのか。
足裏全体が根を張る感覚はあるのか。
膝は突っ張っていないか。
緩めたときに崩れていないか。
腰、ガマクへつながっているか。
チンクチを掛ける部分はどこなのか。
そういうことを、一つずつ取り出して見る。
もちろん、補助運動だけで型になるわけではありません。
ただ、補助運動で分解しておかないと、型の中では何が崩れているのか分かりにくい。
足裏が抜けているのか。
膝が死んでいるのか。
腰が抜けているのか。
腕や肩で頑張っているのか。
そうした崩れを見つけるためにも、補助運動は大事なのだと思います。
移動稽古では、立ち方が動きの中でどう変わるのかを見る。
動くときには、どこかが緩まないと動けません。
でも、緩めばよいわけではない。
緩めすぎれば崩れる。
固めすぎれば動けない。
動くときに、膝はどう緩むのか。
足を置く瞬間、親指側から踵へどう接地するのか。
接地したあと、脚をどう絞るのか。
足裏はどう根を張るのか。
キメの瞬間、とくに後ろ足はどう伸びるのか。
その伸びが腰へ通っているのか。
移動稽古では、そういう変化を見たい。
ただ前へ進むだけではなく、緩み、接地、根、伸び、キメがどうつながっているのかを見る。
型稽古では、さらに相手との関係の中で立ち方を見る必要があると思います。
型は、一人で動いているように見えます。
でも、そこには相手がいるはずです。
どの間合いなのか。
どこで触れているのか。
どこから圧が来ているのか。
接触点で相手と喧嘩していないか。
受け止めるのか。
受け流すのか。
返すのか。
次の動きへどうつながるのか。
そういう関係の中で、立ち方を見る。
サンチン立ちも同じです。
止まった形として立っているのではなく、相手との間合い、接触、押し引き、崩しの中で、身体をどう保つのか。
そこまで見ないと、型の中の立ち方にはならない気がしています。
だから、立ち方は稽古全体の中で意識するものなのだと思います。
補助運動では、身体の要素を分解して見る。
移動稽古では、動きの中で緩み、接地し、根を張り、キメる流れを見る。
型稽古では、相手との関係、接触点、受け流し、次の動きへのつながりの中で見る。
立ち方は、静止した形ではなく、稽古の中で変化しながら働いている。
そう考えると、サンチン立ちも、ただ形として作るものではなく、補助運動、移動稽古、型稽古の中で何度も確認し直すものなのだと思います。
おわりに:できていないが、この理解で稽古している
ここまで、サンチン立ちについて書いてきました。
一般的な説明では、サンチン立ちは静的な形として語られやすい。
でも、自分は最近、サンチン立ちを止まった姿勢として見るだけでは足りないのではないかと感じています。
動くときに、どこが緩むのか。
足を接地した瞬間に、足裏はどう根を張るのか。
キメの瞬間に、膝や後ろ足はどう伸びるのか。
その力は、腰、ガマクを通って体幹や腕へつながっているのか。
接触点で、相手と喧嘩していないか。
そこから、受け流し、返し、次の動きへつながっているのか。
そういうことを考えながら稽古するようになってきました。
ただ、正直に言えば、ここまで書いてきたことが自分にできている感じはまったくありません。
足裏で根を張る。
膝を緩める。
キメの瞬間に、特に後ろ足を伸ばす。
ガマクでつなぐ。
チンクチを掛ける。
接触点で相手と喧嘩しない。
言葉にすると、いかにも分かっているように見えます。
でも実際の稽古では、全然そんな感じではありません。
足裏はすぐ抜けます。
踵が刺さっている感じも、いつもあるわけではありません。
足指だけで掴もうとしてしまうこともあります。
膝も、伸ばしているつもりがただ突っ張っているだけだったり、動こうとして緩めすぎたりします。
腰が使えているのかも、まだよく分かりません。
ガマクでつないでいるつもりでも、実際には腰が抜けていたり、上半身だけで頑張っていたりする。
接触すれば、まだ腕や肩で相手と喧嘩してしまいます。
受け流しているつもりでも、ただ逃げているだけだったり、逆に受け止めようとして固まってしまったりします。
だからこれは、できている人間の説明ではありません。
サンチン立ちの正解を説明しているつもりもありません。
今の自分が、サンチン立ちをただ静止した形としてではなく、動きの中でどう働くものなのかを見ようとしている、その途中の記録です。
サンチン立ちは止まっていない。
止まっているように見えても、そこには足裏の接地があり、膝の緩みと伸びがあり、腰の働きがあり、チンクチがあり、接触点での圧のやり取りがある。
そして、そのすべては次の動きへつながっているはずです。
まだ自分には、ほとんどできていません。
ただ、静的な形だけを追っていても、そこには届かない気がしています。
だから、今はこの理解を持って、もう少しサンチン立ちを稽古してみたいと思っています。

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