はじめに:白帯の頃から言われていることがある
白帯の頃から、同じことを言われてきた。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
どれも、特別な言葉ではない。
入門してすぐの頃から聞く。
基本稽古の中で聞く。
移動稽古の中で聞く。
型の中でも聞く。
だから最初は、初心者に向けた注意なのだと思っていた。
肩が前に出ているから直す。
脇が開いているから締める。
肘が浮いているから下げる。
肘が曲がっているから伸ばす。
肩が上がっているから下げる。
そのくらいのものとして聞いていた。
そして、その時の自分は、それをやっているつもりだった。
突く時に肩を前に出さないようにしていた。
脇を締めているつもりだった。
肘を下にしているつもりだった。
肘を伸ばしているつもりだった。
肩を下げているつもりだった。
聞いていなかったわけではない。
ふざけていたわけでもない。
その時の自分なりには、ちゃんとやっているつもりだった。
でも今から見ると、出来ていなかったと思う。
肩を前に出さないつもりで、結局どこかで肩を使っていた。
脇を締めているつもりで、ただ腕を固めていただけだったかもしれない。
肘を下にしているつもりで、突きの中では浮いていたかもしれない。
肘を伸ばしているつもりで、伸びているだけで通ってはいなかったかもしれない。
肩を下げているつもりで、力を抜いたつもりになっていただけかもしれない。
今は、白帯の頃よりは少し出来ていると思う。
少なくとも、あの頃と同じ見え方ではない。
身体の感じ方も少し違う。
突いた時に、何が崩れているのかも、昔よりは見えるようになってきた気がする。
けれど、だから今は出来ている、とは言えない。
もっと先に行けば、今の自分についても、
「あの頃は出来ているつもりだっただけだ」
と思うのだろう。
それでも、戻ってくる言葉は変わらない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
白帯の頃から言われていた言葉が、今もそのまま残っている。
言葉が変わったのではない。
変わるのは、たぶん身体の方だ。
同じことを愚直にやり続ける。
出来ているつもりになる。
後から、出来ていなかったと分かる。
それでもまた、同じ言葉へ戻る。
その繰り返しの中で、肩甲骨の位置が変わる。
筋肉の使い方が変わる。
突きそのものの出方も変わっていく。
でも、言葉は変わらない。
だから最近思う。
秘伝は、奥に隠された特別な教えではないのかもしれない。
白帯の頃から言われている。
最初から開示されている。
ただ、その時の身体では受け取れていない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この、白帯の頃から言われていることが、
実は秘伝なのではないかと思っている。
秘伝は、隠された奥義として扱われがちだ
秘伝という言葉は、どうしても怪しく扱われやすい。
一部の人だけが知っている奥義。
上級者だけに、こっそり教えられる技。
外には出さない秘密。
もったいぶった特別な教え。
何かすごいことを、どこかに隠しているような言葉。
そういう響きがある。
だから「秘伝」と聞くと、どうしても構えてしまうところがある。
本当にそんなものがあるのか。
ただの神秘化ではないのか。
特別な言葉で、基本的なことを大げさに見せているだけではないのか。
そう見られても仕方がないくらい、秘伝という言葉は、雑に使われてきたのだと思う。
でも、自分が最近感じている秘伝は、それとは少し違う。
秘伝は、隠されているから秘伝なのではない。
むしろ、最初から言われている。
白帯の頃から言われている。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
こういう言葉は、別に奥へ進んでから初めて教わるものではない。
最初から言われる。
基本として言われる。
何度も言われる。
そして、その時の自分は、それをやっているつもりになる。
けれど、後から見ると出来ていなかったと分かる。
聞いていなかったわけではない。
教わっていなかったわけでもない。
隠されていたわけでもない。
ただ、その時点の身体では、受け取れていなかった。
ここが大事なのだと思う。
秘伝は、先生が奥に隠しているものではないのかもしれない。
白帯の頃から目の前に置かれている。
何度も言われている。
でも、自分の身体がまだそこに届いていない。
だから、見えているのに見えていない。
聞いているのに聞けていない。
やっているつもりなのに出来ていない。
そこに、秘伝のようなものがあるのではないかと思っている。
白帯の頃から言われていた言葉
白帯の頃から、同じ言葉を聞いていた。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
どれも、難しい言葉ではない。
特別な理論でもない。
長く稽古した人だけに、後からこっそり教えられる言葉でもない。
入門して間もない頃から言われる。
基本稽古の中で言われる。
移動稽古の中で言われる。
型の中でも言われる。
先生によって言い方の細かい違いはあるかもしれないが、少なくとも自分は、白帯の頃からこういうことを言われてきた。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
本当に、それだけのことだ。
でも、この「それだけ」が難しい。
最初は、言葉そのものは分かった気になる。
肩を前に出さないと言われれば、肩を前に出さないようにする。
脇を締めろと言われれば、脇を締める。
肘を下にしろと言われれば、肘を下にする。
肘を伸ばせと言われれば、肘を伸ばす。
肩を下げろと言われれば、肩を下げる。
言葉は分かる。
やるべきことも、分かった気になる。
だから、出来ているつもりにもなる。
けれど、問題はそこではなかったのだと思う。
問題は、言葉が難しいかどうかではない。
問題は、その言葉を受け取る身体があるかどうかだ。
白帯の頃から言われていた。
隠されていなかった。
特別に後から教えられたわけでもなかった。
それなのに、今から見ると、あの頃の自分は受け取れていなかったと思う。
聞いていた。
やっているつもりだった。
でも、身体の側がまだその言葉に届いていなかった。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この言葉は変わらない。
変わらないからこそ、怖い。
白帯の頃から同じ言葉を聞いていたのに、今になってようやく、少しだけその重さが違って見えてくる。
そして、もっと先に行けば、今の自分もまた、同じ言葉を本当には受け取れていなかったと思うのだろう。
それでも、戻ってくる言葉は変わらない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
白帯の頃も、出来ているつもりだった
白帯の頃も、聞き流していたわけではない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
そう言われれば、その通りにやろうとしていた。
肩を前に出さないようにしていた。
脇を締めているつもりだった。
肘を下にしているつもりだった。
肘を伸ばしているつもりだった。
肩を下げているつもりだった。
その時点では、自分なりにやっていた。
ふざけていたわけではない。
聞いていなかったわけでもない。
先生の言葉を無視していたわけでもない。
むしろ、言われたことを守ろうとしていた。
だからこそ、出来ているつもりだった。
でも今から見ると、出来ていなかったと思う。
肩を前に出さないようにしていたつもりでも、突く時にはどこかで肩が前に出ていたのだと思う。
脇を締めているつもりでも、本当に締まっていたのかは分からない。
肘を下にしているつもりでも、突きの中で肘がどうなっていたのかは見えていなかった。
肘を伸ばしているつもりでも、ただ伸ばしていただけだったのかもしれない。
肩を下げているつもりでも、肩を下げるということが何なのか、今とは違う見え方をしていたのだと思う。
ただし、これは白帯の頃の自分を馬鹿にしているわけではない。
あの頃はあの頃で、ちゃんとやっていた。
その時点の身体で、言われたことを受け取ろうとしていた。
でも、身体がまだその言葉を受け取れる状態ではなかった。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
言葉は、最初からそこにあった。
隠されていなかった。
難しい理論でもなかった。
それでも、出来ていなかった。
ここが怖いところだと思う。
言われていなかったから出来なかったのではない。
知らなかったから出来なかったのでもない。
言われていた。
知っているつもりだった。
やっているつもりだった。
それでも、身体がまだ受け取れていなかった。
だから、白帯の頃の自分を単純に「分かっていなかった」とは言いたくない。
分かっていなかったのではなく、その時点で分かれる範囲で分かっていた。
出来ていなかったのではなく、その時点で出来る範囲でやっていた。
しかし、今から見ると、やはり出来ていなかった。
このずれがある。
そしてたぶん、このずれは今もある。
今の自分も、肩を前に出さないつもりでいる。
脇を締めているつもりでいる。
肘を下にしているつもりでいる。
肘を伸ばしているつもりでいる。
肩を下げているつもりでいる。
でも、もっと先に行けば、今の自分についても同じように思うのだろう。
あの頃は、出来ているつもりだっただけだ、と。
それでも戻る言葉は変わらない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
今は昔より出来ている。しかし、先へ行けば今も出来ていなかったと思うはずだ
今は、白帯の頃よりは出来ていると思う。
少なくとも、あの頃とは見えているものが違う。
身体の感じ方も違う。
突きの出方も違う。
突いた時に、どこが崩れているのか。
どこで肩が出ているのか。
どこで脇が甘くなっているのか。
どこで肘が浮いているのか。
どこで肩に力が入っているのか。
そういうものも、白帯の頃よりは少し見えるようになってきた気がする。
だから、昔よりは出来ている。
これは否定しなくていいと思う。
白帯の頃と今がまったく同じなら、稽古してきた意味がない。
同じ言葉を聞き続けて、
同じことを直され続けて、
同じ基本に戻り続けてきた分だけ、
身体は少しずつ変わっているはずだ。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この言葉に対する身体の反応は、白帯の頃とは違う。
ただし、だから今は出来ている、とは言えない。
ここを間違えると、また止まる。
白帯の頃も、出来ているつもりだった。
今から見ると、出来ていなかった。
今は昔より出来ていると思う。
でも、もっと先へ行けば、今の自分もまた、
「あの頃は出来ているつもりだっただけだ」
と思うのだろう。
たぶん、その繰り返しなのだと思う。
出来ているつもりになる。
後から、出来ていなかったと分かる。
昔よりは出来るようになる。
さらに先で、今も出来ていなかったと分かる。
それでも戻る言葉は同じだ。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
これは、「出来ている」と「出来ていない」を単純に分ける話ではない。
白帯の頃は出来ていなかった。
今は出来ている。
そういう話ではない。
白帯の頃は、白帯の頃なりにやっていた。
今は、今の身体なりにやっている。
でも、未来から見れば、今の自分もまだ浅いのだと思う。
だから、今の自分を完全に否定する必要はない。
同時に、今の自分を完成として扱うこともできない。
昔よりは出来ている。
でも、まだ出来ていない。
この両方を抱えたまま、同じ言葉へ戻る。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
ここで戻る場所が変わらないから、稽古はただの反省で終わらない。
出来ていなかったと分かるたびに、別の場所へ逃げるのではない。
もっと難しい言葉を探すのでもない。
新しい理論で上書きするのでもない。
同じ言葉へ戻る。
同じ基本へ戻る。
ただし、戻る身体は前と同じではない。
白帯の頃の身体で戻るのではない。
今の身体で戻る。
そして、もっと先へ行けば、また違う身体で戻ることになる。
同じところへ戻っている。
でも、同じ高さには戻っていない。
ここに、螺旋のようなものがあるのだと思う。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
白帯の頃から言われている同じ言葉に、今も戻る。
昔よりは出来ている。
でも、まだ出来ていない。
そして、もっと先に行けば、今の自分もまた出来ていなかったと分かる。
それでも戻る言葉は変わらない。
愚直にやり続けると、身体が変わる
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
白帯の頃から、同じことを言われてきた。
そして、同じことをやろうとしてきた。
最初は、言われた形を直している感覚だった。
肩が前に出ているから、出さないようにする。
脇が開いているから、締める。
肘が浮いているから、下にする。
肘が曲がっているから、伸ばす。
肩が上がっているから、下げる。
そのように、外から見える形を直しているつもりだった。
それでも、愚直にやり続ける。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
何度も同じことをやる。
何度も同じことを直される。
出来ているつもりになって、また出来ていなかったと分かる。
それでも、また同じ言葉へ戻る。
すると、少しずつ身体の側が変わってくる。
肩甲骨の位置が変わる。
筋肉の使い方が変わる。
突きの出方が変わる。
これは、「言葉の意味が分かった」というだけの話ではない。
もちろん、見え方は変わる。
感じ方も変わる。
でも、それだけではない。
同じ言葉を愚直にやり続けることで、身体そのものが変わってくる。
白帯の頃と同じように突こうとしても、もう同じ身体ではない。
肩の出方が変わる。
脇の締まり方が変わる。
肘の下がり方が変わる。
肘の伸び方が変わる。
肩の下がり方が変わる。
ただし、ここで言葉が変わるわけではない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
言われることは変わらない。
変わるのは、言葉ではない。
変わるのは、身体の方だ。
ここを間違えると、また秘伝を別の場所に探してしまう。
もっと難しい説明。
もっと特別な理論。
もっと奥にある隠された教え。
そういうものを探しに行ってしまう。
でも、自分が今感じているものは、たぶんそこではない。
白帯の頃から言われていた同じ言葉へ戻る。
その言葉を愚直にやり続ける。
出来ているつもりが壊れる。
また戻る。
身体が変わる。
それでも、言葉は変わらない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この変わらない言葉に、変わっていく身体で何度も戻る。
そこに、稽古の怖さがある。
そして、そこに秘伝と呼ぶしかないものがあるのではないかと思う。
それでも、言葉は変わらない
身体は変わる。
肩甲骨の位置が変わる。
筋肉の使い方が変わる。
突きの出方が変わる。
白帯の頃と同じように突いているつもりでも、もう同じ身体ではない。
肩の感覚も変わる。
脇の感覚も変わる。
肘の感覚も変わる。
肩を下げるということの感じ方も変わる。
でも、戻ってくる言葉は変わらない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
また同じ言葉である。
前にも出てきた。
白帯の頃から出てきた。
今も出てくる。
たぶん、もっと先に行っても出てくる。
ここで「同じ言葉なのに、実は別の意味になる」と言ってしまうと少し違う。
そうではない。
言葉は変わらない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この言葉のまま戻ってくる。
変わるのは、その言葉の方ではない。
変わるのは、それを聞く身体の方だ。
同じ言葉に戻るから、自分の変化が分かる。
白帯の頃は、同じ言葉を聞いて、出来ているつもりだった。
今も、同じ言葉を聞いて、出来ているつもりになっている。
でも、白帯の頃の自分を今から見ると、出来ていなかったと思う。
ならば、もっと先の自分から見れば、今の自分も同じように見えるはずだ。
出来ているつもりだった。
まだ身体が受け取れていなかった。
そう見えるはずだ。
それでも戻る言葉は同じである。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この反復は、読みやすく整理するための反復ではない。
同じ言葉に戻ることそのものが、稽古の構造なのだと思う。
同じ言葉に戻るから、前の自分の浅さが分かる。
同じ言葉に戻るから、今の自分の出来ているつもりも疑える。
同じ言葉に戻るから、まだ先があると分かる。
もし戻る言葉が毎回変わってしまえば、自分が変わったのか、言葉が変わったのか分からなくなる。
でも、言葉は変わらない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
だから、身体の変化が見える。
だから、出来ていなかったことが見える。
だから、昔よりは出来ていることも見える。
そして、だからこそ、まだ出来ていないことも見える。
同じ言葉に戻ることは、同じ場所に戻ることではある。
でも、同じ高さに戻ることではない。
白帯の頃の身体で戻る。
少し稽古した身体で戻る。
今の身体で戻る。
もっと先の身体で戻る。
戻る言葉は同じ。
戻る身体が変わる。
そこに螺旋がある。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この言葉は、白帯の頃から変わらない。
だからこそ、基本なのだと思う。
そして、変わらない基本へ何度も戻ることで身体が変わっていくなら、そこに秘伝があると言ってもいいのではないかと思う。
基本は初心者用ではなく、戻るべき型である
基本というと、最初に習う簡単なもののように見られやすい。
まず基本を習う。
それが出来るようになったら、次へ進む。
もっと難しい技を習う。
応用へ進む。
さらに奥へ進む。
そういう順番で考えたくなる。
でも、今は少し違う気がしている。
基本は、初心者用だから最初にあるのではない。
根本だから最初にある。
根本だから、最初に言われる。
根本だから、何度も言われる。
根本だから、先へ進んでも消えない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
これは、白帯の頃だけの注意ではない。
最初に習って、あとで卒業するものでもない。
むしろ、先へ進んでも戻る場所である。
白帯の頃は、この言葉を初心者向けの注意として聞いていた。
肩が出ているから直す。
脇が開いているから締める。
肘が浮いているから下げる。
肘が曲がっているから伸ばす。
肩が上がっているから下げる。
そのくらいのものとして聞いていた。
でも、稽古を続けていくと、同じ言葉へ戻される。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
戻ってみると、白帯の頃とは身体が違う。
肩甲骨の位置が違う。
筋肉の使い方が違う。
突きの出方が違う。
でも、戻る言葉は同じである。
ここで、基本の見え方が変わる。
基本は入口である。
しかし、入口で終わるものではない。
基本は帰還点でもある。
最初に入る場所であり、崩れた時に戻る場所でもある。
分からなくなった時に戻る場所でもある。
出来ているつもりが壊れた時に戻る場所でもある。
だから、基本は初心者用ではない。
基本は、戻るべき型である。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
ここへ戻る。
白帯の頃の身体で戻る。
少し稽古した身体で戻る。
今の身体で戻る。
もっと先へ行った身体で戻る。
戻る場所は同じ。
しかし、戻る身体は同じではない。
だから、同じところへ戻っているのに、同じ高さには戻っていない。
ここに螺旋があるのだと思う。
基本へ戻ることは、後退ではない。
基本へ戻ることは、初心者に戻ることでもない。
同じ基本へ、変わった身体で戻ること。
そのたびに、昔の自分の浅さが見える。
そのたびに、今の自分の出来ているつもりも疑える。
そのたびに、まだ先があると分かる。
だから、基本は入口であり、帰還点である。
入口であり、帰還点であるから、そこへ戻るたびに稽古が螺旋になる。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この言葉は、白帯の頃から変わらない。
変わらないから戻れる。
戻れるから、身体の変化が分かる。
身体の変化が分かるから、また出来ていなかったことが見える。
そして、また同じ基本へ戻る。
そう考えると、基本は秘伝の手前にあるものではない。
基本の先に、別の秘伝が隠されているのでもない。
基本そのものが、戻るべき型として残っている。
そこへ戻り続けることの中に、秘伝と呼ぶしかないものがあるのだと思う。
稽古とは、同じ基本へ戻って身体を変えること
稽古とは、新しい技を増やすことだけではない。
もちろん、新しいことを覚えることもある。
新しい型を覚える。
新しい動きを教わる。
新しい分解を知る。
今まで見えていなかった使い方に触れる。
それも稽古だと思う。
でも、それだけではない。
むしろ、稽古の中心には、何度も同じ基本へ戻ることがあるのだと思う。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
白帯の頃から言われている同じ言葉へ戻る。
ただし、戻ると言っても、白帯の頃に戻るわけではない。
今の身体で戻る。
今の身体で、同じ言葉をやり直す。
今の身体で、肩を前に出さないことをやり直す。
今の身体で、脇を締めることをやり直す。
今の身体で、肘を下にすることをやり直す。
今の身体で、肘を伸ばすことをやり直す。
今の身体で、肩を下げることをやり直す。
すると、昔とは違うものが見える。
白帯の頃は、出来ているつもりだった。
今から見ると、出来ていなかった。
今は昔より出来ていると思う。
でも、同じ基本へ戻ると、今の自分の出来ていなさも見えてくる。
ここが稽古なのだと思う。
稽古は、出来ていることを確認するだけのものではない。
出来ているつもりを壊されるものでもある。
肩を前に出していないつもりだった。
脇を締めているつもりだった。
肘を下にしているつもりだった。
肘を伸ばしているつもりだった。
肩を下げているつもりだった。
でも、やってみると崩れる。
突くと肩が出る。
脇が甘くなる。
肘が浮く。
肘が伸びているつもりでも、ただ伸ばしているだけになる。
肩を下げているつもりでも、別のところに力が残る。
そこでまた、同じ言葉へ戻る。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
同じことを繰り返しているように見える。
でも、ただの単純反復ではない。
同じ言葉へ戻るたびに、身体の条件が少し変わる。
肩甲骨の位置が変わる。
筋肉の使い方が変わる。
突きの出方が変わる。
前は力で形を合わせていたものが、少し違う出方になる。
前は外から直していたものが、少し内側から変わってくる。
ただし、ここで「分かった」と言い切ることはできない。
分かったと思った瞬間に、また出来ているつもりになる。
だから、稽古は終わらない。
同じ基本へ戻る。
今の身体でやり直す。
出来ているつもりを壊される。
それでもまた戻る。
その反復の中で、身体の方が変わっていく。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この言葉は変わらない。
変わらない言葉へ戻り続けることで、変わっていく身体の方が見えてくる。
だから稽古とは、
白帯の頃から言われている同じ基本へ戻り、
今の身体でそれをやり直すことで、
身体の側を少しずつ変えていく反復である。
そして、その反復は、同じ場所をぐるぐる回っているだけではない。
同じ基本へ戻っている。
でも、戻る身体は前と同じではない。
白帯の頃の身体で戻る。
少し稽古した身体で戻る。
今の身体で戻る。
もっと先へ行った身体で戻る。
戻る言葉は同じ。
戻る身体が変わる。
だから稽古は、直線的に先へ進むことだけではない。
同じ基本へ戻り続けることで、螺旋のように身体が変わっていくものなのだと思う。
修行とは、出来ているつもりを何度も壊されながら戻り続けること
修行というと、苦しいことに耐えることのように見える。
長い時間をかけること。
厳しい稽古を続けること。
自分を追い込むこと。
弱い心に負けないこと。
そういう言葉として使われることがある。
でも、この話の中では少し違う。
修行とは、苦しみに耐えることそのものではない。
精神の強さを見せることでもない。
今の自分の「出来ているつもり」を、何度も壊されながら、それでも同じ基本へ戻り続けることなのだと思う。
白帯の頃、自分は出来ているつもりだった。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
言われたことを聞いていた。
言われた通りにやっているつもりだった。
でも今から見ると、出来ていなかった。
それは、白帯の頃の自分が不真面目だったという話ではない。
その時点の身体では、そこまでしか受け取れなかったということだと思う。
今は、白帯の頃よりは出来ていると思う。
肩を前に出さないこと。
脇を締めること。
肘を下にすること。
肘を伸ばすこと。
肩を下げること。
その見え方は、昔とは違う。
身体の感じ方も違う。
突きの出方も、昔とは違う。
でも、だから今は出来ている、とは言えない。
もっと先に行けば、今の自分もまた、出来ていなかったと思うはずだ。
「あの頃は出来ているつもりだっただけだ」
そう思うはずだ。
それでも戻る。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この同じ言葉へ戻る。
修行とは、この繰り返しなのだと思う。
出来ているつもりになる。
後から、出来ていなかったと分かる。
昔よりは出来るようになる。
さらに先で、今も出来ていなかったと分かる。
それでも同じ基本へ戻る。
この繰り返しを、美談にしたいわけではない。
苦しいことに耐えればいい、という話でもない。
自分を責め続ける話でもない。
ただ、今の自分が「出来ている」と思っているものは、未来の稽古によって壊される。
その前提を持ったまま、同じ基本へ戻り続ける。
そこに、修行という時間の長さがあるのだと思う。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この言葉は、白帯の頃から変わらない。
変わらない言葉へ戻るたびに、自分の出来ていなさが見える。
変わらない言葉へ戻るたびに、昔より少し変わった身体も見える。
変わらない言葉へ戻るたびに、まだ先があることも見える。
だから修行とは、
今の自分の「出来ているつもり」を未来の稽古によって壊されながら、
それでも同じ基本へ戻り続ける長い過程である。
同じ基本へ戻る。
でも、同じ自分では戻らない。
戻るたびに、身体が少し変わる。
戻るたびに、見え方が少し変わる。
戻るたびに、前の自分の浅さが見える。
そして、また同じ言葉へ戻る。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
これが、白帯の頃から言われている。
そして、たぶんこれからも言われ続ける。
だから、秘伝とは何か
ここまで書いてきて、ようやく「秘伝」という言葉に戻る。
秘伝は、奥に隠された特別な情報ではない。
少なくとも、今の自分はそう感じている。
秘伝は、白帯の頃から言われている。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
これが基本である。
これが基礎である。
これが戻るべき型である。
秘伝というと、どこか奥にあるもののように思ってしまう。
基本を終えた先に応用があり、
応用を越えた先に奥義があり、
さらにその奥に秘伝がある。
そんなふうに考えたくなる。
でも、今は逆なのではないかと思っている。
秘伝は、基本の外側に隠されているのではない。
基本そのものの中にある。
ただし、それは最初から分かるという意味ではない。
白帯の頃から言われている。
聞いている。
知っているつもりになる。
やっているつもりにもなる。
でも、その時点の身体では、浅くしか受け取れない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この言葉は、白帯の頃から聞いていた。
でも、白帯の頃の自分は、それを出来ているつもりだった。
今から見ると、出来ていなかった。
今は昔よりは出来ていると思う。
しかし、もっと先へ行けば、今の自分もまた出来ていなかったと思うのだろう。
それでも戻る。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
戻り続ける。
同じ基本へ戻り続ける。
すると、身体が変わる。
肩甲骨の位置が変わる。
筋肉の使い方が変わる。
突きの出方が変わる。
でも、言葉は変わらない。
ここが秘伝なのだと思う。
隠されていたから秘伝なのではない。
白帯の頃から言われている。
最初から開示されている。
しかし、身体が変わらなければ受け取れない。
聞いただけでは届かない。
知っただけでは届かない。
出来ているつもりになっても、まだ届いていない。
何度も戻る。
出来ているつもりを壊される。
また戻る。
身体が変わる。
また戻る。
その螺旋の中で、白帯の頃から言われていた同じ言葉が、同じ言葉のまま現れ直す。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この言葉は、最初からあった。
隠されていなかった。
ただ、自分の身体がまだ受け取れていなかった。
だから、秘伝とは、隠された特別な情報ではない。
白帯の頃から開示されている基本が、身体の変化によって初めて受け取れるようになる構造である。
もっと言えば、秘伝とは、基本の外側に隠された奥義ではない。
基本へ戻り続ける螺旋の中で、身体の方が変わったときに、白帯の頃から言われていた同じ言葉として現れるものだ。
だから、秘伝は遠くにあるのではない。
最初から言われている。
ただ、最初の自分には受け取れない。
白帯の頃から言われていたことへ戻り続ける。
その戻りの中で身体が変わる。
そして、変わった身体でまた同じ言葉へ戻る。
そこに、秘伝と呼ぶしかないものがあるのだと思う。
おわりに:秘伝は、最初から言われていた
ここまで書いてきたが、自分に出来ているとは言えない。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
この程度のことも、まだ出来ているとは言えない。
白帯の頃から言われている。
何度も聞いている。
今も意識している。
それでも、出来ているとは言えない。
突く時には肩を前に出さないつもりでいても、どこかで肩が出る。
脇を締めているつもりでも、崩れる。
肘を下にしているつもりでも、浮く。
肘を伸ばしているつもりでも、ただ伸ばしているだけになる。
肩を下げているつもりでも、力が残る。
だから、自分はこれが出来ています、とは言えない。
ただ、白帯の頃とは見え方が違う。
あの頃は、言われた形を直しているつもりだった。
肩が出ているから引く。
脇が開いているから締める。
肘が浮いているから下げる。
肘が曲がっているから伸ばす。
肩が上がっているから下げる。
その時点では、その時点なりにやっていた。
でも今から見ると、出来ていなかったと思う。
今は、昔よりは少し出来ていると思う。
身体も少しは変わっていると思う。
肩甲骨の位置も変わってきたのかもしれない。
筋肉の使い方も変わってきたのかもしれない。
突きの出方も、白帯の頃とは違うのかもしれない。
でも、もっと先へ行けば、今の自分もまた出来ていなかったと思うのだろう。
あの頃は出来ているつもりだった。
そう思うのだろう。
それでも戻る言葉は同じだ。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
白帯の頃から言われていた。
今も言われている。
たぶん、これからも戻ることになる。
基本は、最初に習って終わるものではなかった。
基本は、初心者用の簡単な注意ではなかった。
基本は、戻る場所だった。
出来ているつもりが壊れた時に戻る場所。
昔より出来るようになったと思った時にも戻る場所。
もっと先へ進んで、今の自分の浅さが見えた時にも戻る場所。
そのたびに、同じ言葉へ戻る。
突く時には肩を前に出さない。
脇を締める。
肘を下にする。
肘を伸ばす。
肩を下げる。
言葉は変わらない。
変わるのは身体の方だ。
同じ言葉へ戻り続ける。
戻るたびに、身体が変わる。
身体が変わるたびに、同じ言葉をまた受け取り直す。
その繰り返しの中に、稽古があるのだと思う。
そして、その長い繰り返しの中に、修行があるのだと思う。
秘伝は、奥に隠されていたのではない。
白帯の頃から、ずっと言われていた。
ただ、その時の身体では受け取れていなかった。
だから、秘伝とは基本から離れた先にあるものではない。
白帯の頃から言われていた基本へ戻り続ける。
その螺旋の中で、身体の方が変わっていく。
そして、変わった身体に、同じ言葉がまた開いてくる。
秘伝とは、基本へ戻り続けた身体に、ようやく開いてくるものなのだと思う。

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