第23回 隠されていたのではない。読める身体になるまで分からなかった

はじめに:隠されていた、という言い方に引っかかる

ガマクやチンクチという言葉について考えている。

どちらも、自分にはまだ十分に説明できない。
分かったとは言えないし、
自分の身体で使えているとも言えない。

ただ、最近少し引っかかっていることがある。

それは、ガマクやチンクチのようなものを、
「隠されていた」
「教えられていなかった」
という言い方で片づけてしまうことだ。

自分は、そこに違和感がある。

ガマクやチンクチが簡単なものだと言いたいのではない。
秘伝のように扱われてきたものを、
ただの日常語や、ただの姿勢の話に戻したいわけでもない。

むしろ、かなり深いものだと思っている。

ただ、その深さは、
先生方が意図的に隠していたから生まれたものではない気がしている。

最初から稽古の中にはあったのだと思う。

肩を下げる。
脇を締める。
肘を下にする。
頭を上下させない。
丹田に重心を置く。
型を繰り返す。

そういう、何度も言われる基本の中に、
ガマクやチンクチと呼ばれてきたものは含まれていたのではないか。

ただ、修行が浅い段階では、それを読めない。

言葉として聞いていても分からない。
形として見ていても分からない。
稽古としてやっていても、その意味までは分からない。

だから、
「教えられていなかった」
というより、
「教えられていても、身体がまだ受け取れなかった」
という方が近いのではないかと思っている。

隠されていたのではない。

最初から稽古の中にあった。
ただ、修行を進めないと、その意味を読めなかった。

まず、その前提で、
ガマクという言葉そのものから少し切り分けておきたい。

ガマクという言葉は、扱いが難しい

ガマクという言葉は、沖縄の言葉としては、
腰まわりを指す語だと思われる。

ただ、この言葉は扱いが難しい。

現代の沖縄で、日常的に広く使われている方言というよりは、
琉球舞踊や沖縄空手など、
身体技法の文脈の中で残っている言葉として見た方が近いのかもしれない。

だからといって、
空手と関係の薄い言葉だと言いたいわけではない。

逆である。

日常語として一般的に使われていないことと、
身体操作として重要ではないことは、同じではない。

むしろ、あまりにも基本的な身体状態や身体操作として前提になっていたからこそ、
わざわざ言葉として細かく説明されにくかった可能性もある。

ただし、自分の流派では、
「ガマク」という言葉で指導されるわけではない。

稽古の中で、
「ガマクを入れろ」
「ガマクを使え」
と教わっているわけではない。

ここは、はっきり分けておきたい。

自分がここで使っているガマクという言葉は、
自分の流派の公式な用語ではない。

稽古の中で行っている腰腹部、丹田、腹圧、胸郭まわりの操作を、
自分なりに説明しようとしたときに、
近い言葉として引っかかっているものである。

肩を下げる。
頭を上下させない。
丹田を操作する。
腹圧を変える。
腰腹部から胸郭へ圧を通す。
肩口を胴体につなげる。

自分の流派では、
こうした操作をかなり明確に稽古していると思っている。

しかし、それをガマクという言葉で教わっているわけではない。

だから、
「うちの流派ではガマクを教えている」
と言いたいわけではない。

また、
「ガマクという言葉を使わない流派は分かっていない」
と言いたいわけでもない。

言葉としてのガマクと、
身体操作としてのガマク的な働きは、
分けて考えた方がいい。

自分が考えたいのは、
ガマクという言葉の正統性ではない。

その言葉で指されてきたかもしれない、
腰腹部から胸郭にかけての身体操作である。

では、自分がガマクという言葉で考えている身体操作とは何か。

ガマクが入っている状態と、ガマクを操作することは違う

ガマクが入っている、という言い方をするなら、
まずは腰が引けていない状態を指すのだと思う。

へっぴり腰になっていない。
腹が抜けていない。
骨盤まわりが後ろに逃げていない。
上体が腰の上に乗っている。
身体の中心が抜けていない。

形として見れば、
この状態が「ガマクが入っている」ということなのかもしれない。

これは大事だと思う。

腰が引けている。
腹が抜けている。
上体だけが前に出ている。
骨盤まわりが崩れている。

そういう状態で、
いくら突きや受けの形を整えても、
身体の中心から力は出てこない。

だから、まず形として、
ガマクが入っている状態は必要なのだと思う。

ただ、自分はそこで終わりではないと思っている。

沖縄空手で問題になるのは、
ガマクが入っている姿勢を作ることだけではなく、
そのガマクを動きの中で操作できるかどうかではないか。

自分は、ガマクは抜き差しするものだと思っている。

ここでいう「抜く」は、
腰が引けることではない。
腹が落ちることでもない。
身体が崩れることでもない。

逆に「入れる」も、
腰腹部を固めっぱなしにすることではない。
腹に力を入れて動けなくなることでもない。
胸郭や肩まで詰まらせることでもない。

抜くことと、抜けることは違う。
入れることと、固めることも違う。

抜けてしまえば、
腰が引ける。
腹が落ちる。
身体がばらける。
力が手先へ逃げる。

入れっぱなしにすれば、
身体が固まる。
居着く。
次の動きに移れない。
胸郭や肩まで詰まり、動きが死ぬ。

必要なのは、
入れっぱなしでも、抜けっぱなしでもない。

必要な瞬間に入る。
必要な瞬間に圧が通る。
そして、そのまま固まらずに次へ移れる。

その抜き差しができるかどうかが、
自分の考えているガマクの操作に近い。

突く瞬間に、
腰腹部から胸郭へ圧が通る。

受ける瞬間に、
身体の中心がばらけない。

転身するときに、
腰腹部の働きが消えず、
丹田や腹圧の操作が残っている。

しかし、それは常に腹を固めているということではない。

むしろ、固めっぱなしでは操作にならない。

ガマクが入っている状態は、必要な土台である。
しかし、ガマクを入れたまま固めてしまえば、
それは鍛錬ではなく、ただの居着きになる。

自分が考えたいのは、
ガマクという言葉を、
腰を入れること、
腹圧をかけること、
丹田を意識すること、
と一つの言葉に置き換えることではない。

そうすると、すぐに浅くなる。

ガマクは、腰だけの話ではないと思う。
腹圧だけの話でもない。
丹田だけの話でもない。

腰腹部、丹田、腹圧、骨盤まわり、胸郭への圧。
それらが切り離されず、
必要な瞬間に働き、
次の瞬間には動きへ移れる。

その一連の操作を考えるために、
自分はガマクという言葉を使っている。

だから、
ガマクが入っている状態と、
ガマクを操作することは分けて考えたい。

形としてガマクが入っていること。
動きの中でガマクを抜き差しできること。

この二つは同じではない。

前者がなければ、そもそも身体の中心が抜ける。
しかし前者だけで止まれば、身体は固まる。

沖縄空手で本当に問題になるのは、
その先にあるのではないかと思っている。

ただし、ここで誤解してはいけないことがある。

ガマクを操作するからといって、
身体の全部を動かすわけではない。

肩は下げっぱなし。固定する部分があるから、操作できる

ガマクは抜き差しするものだと思っている。

ただし、それは肩も抜き差しするという意味ではない。

ここを間違えると、
すぐに話がずれる。

全身を柔らかく使えばよい。
力を抜けばよい。
固定しない方がよい。
動いている方がよい。

そういう話ではない。

少なくとも自分が考えているガマクの操作は、
どこも固定しない身体操作ではない。

むしろ逆である。

固定した部分を作らないと、ガマクの操作は成り立たない。

肩は下げっぱなしでよいのだと思う。

もちろん、
肩を力ませて固めるという意味ではない。

肩をすくめない。
肩で呼吸しない。
肩で上下動を作らない。
肩を上げ下げして力を出そうとしない。

肩は下げた状態を保つ。

頭も同じである。

空手の指導では「頭を上下させるな」と言われることがある。

頭が上下すれば、
軸がぶれる。
重心が浮く。
動きの起こりが外に見える。
力が上へ逃げる。

だから、頭は大きく上下させない。

それと同じように、
肩も上下させないのだと思っている。

肩が上下してしまうと、
丹田や腹圧で行うべき操作が、
肩の上げ下げに化けてしまう。

本来は身体の内側で起こすべき上下や圧の変化が、
肩や胸の外形的な動きとして外へ逃げてしまう。

それでは、ガマクの操作にならない。

肩を下げる。
頭を上下させない。
上体の外枠を崩さない。

その固定された外枠の中で、
丹田を上下させる。
腹圧を変える。
腰腹部から胸郭へ圧を通す。

ここが大事なのだと思う。

外から見れば、
頭は大きく上下しない。
肩も大きく上下しない。
上体の外枠も崩れない。

しかし、内側では止まっていない。

丹田は動いている。
腹圧は変化している。
腰腹部から胸郭へ圧が通っている。
身体の中心で、入れる、抜く、沈める、浮かせるような操作が起きている。

それを、
膝の屈伸でごまかさない。

肩の上下でごまかさない。

上体の揺れでごまかさない。

外枠を崩さずに、
内側で操作する。

自分は、この操作をガマクの操作として考えている。

だから、
「ガマクは抜き差しする」
と言うとき、
肩まで抜き差しするわけではない。

肩は下げる。
肩は上下させない。
肩は基準として置く。

その基準があるから、
丹田や腹圧を操作できる。

固定する部分があるから、
動かす部分がはっきりする。

固定と居着きは同じではない。

居着きは、
動くべきところまで止まってしまうことだと思う。

しかし、固定は違う。

固定すべきところを固定することで、
動かすべきところを動かせるようにする。

肩が動いてしまえば、
ガマクで行うべき操作が肩へ逃げる。

頭が上下してしまえば、
丹田の上下が身体全体の上下動に化ける。

膝の屈伸で上下してしまえば、
腹圧や腰腹部の操作をしているつもりでも、
ただ身体を沈めたり伸び上がったりしているだけになる。

だから、外枠は崩さない。

頭を上下させない。
肩を上下させない。
肩は下げたままにする。

そのうえで、
丹田を上下させる。
腹圧を変える。
腰腹部から胸郭へ圧を通す。

この順番を崩すと、
ガマクの話はすぐに全身脱力論になってしまう。

自分が考えているのは、
そういう話ではない。

肩は下げっぱなし。
頭は大きく上下させない。
上体の外枠は崩さない。

その固定された外枠の中で、
腰腹部、丹田、腹圧、胸郭を操作する。

この操作の見せ方には、
流派による違いがあると思っている。

見せる流派と、見せすぎない流派がある

この腰腹部から胸郭にかけての操作は、
外から見えるように行う流派と、
外に見せすぎないことを重視する流派があると思っている。

どちらが正しい、という話にしたいわけではない。

ただし、
「外から見えるなら未熟」
という見方には、少し引っかかる。

少なくとも自分の流派では、
この操作は見せる。

というより、
かなり明確に操作する。

腰腹部を動かす。
丹田を操作する。
腹圧を変える。
胸郭へ圧を通す。

その動きは、外から見ても分かる。

もちろん、見せびらかすためではない。

大きく動いているように見せたいわけでもない。
派手に見せたいわけでもない。
技を飾りたいわけでもない。

鍛錬として、明確に操作しているのだと思う。

曖昧な内面感覚のままにしない。
なんとなく腰を入れたつもりにならない。
なんとなく腹圧を使ったつもりにならない。
なんとなく丹田を意識したつもりにならない。

腰腹部、丹田、腹圧、胸郭の連動を、
身体に覚えさせるために、
見えるくらい明確に操作する。

だから、
外から見えること自体が未熟なのではない。

少なくとも自分の流派では、
見えるくらい明確に操作することで鍛えている。

ここを間違えると、
見えないことだけが上等で、
見える操作は低い段階のものだ、
という雑な理解になる。

それは違うと思う。

見せすぎないことを重視する流派には、
その流派の理屈があるのだと思う。

外形が大きく出すぎれば、
動きの起こりが読まれる。
腰や胸が波打てば、
それ自体が隙になる。
外に出すぎた操作は、
相手に情報を与えることにもなる。

そういう考え方はあると思う。

しかし、自分の流派で行っている明確な操作は、
それとは別の目的を持っている。

隠すためではなく、鍛えるために行う。

見えないようにする前に、
まず身体の中で何が起きているのかを作る。

腰腹部から胸郭へ圧を通す。
丹田を操作する。
腹圧を変える。
肩や頭を上下させずに、内側を動かす。

その操作を身体に覚え込ませるためには、
曖昧に小さくまとめるより、
明確にやる必要があるのだと思っている。

だから、自分の流派では、
ガマク的な操作を隠し味のようには扱わない。

外から見えるくらい、
はっきり操作する。

それは、
「見せるための動き」
ではなく、
「鍛えるための動き」
である。

ここは、自分の中ではかなり大事な切り分けである。

見えるから未熟なのではない。
見せないから高級なのでもない。
流派差だから何でもよい、という話でもない。

自分の流派では、
明確に操作することで身体を作っている。

少なくとも今の自分には、そう見えている。

ただし、自分の流派でこの操作をガマクと呼んでいるわけではない。

うちの流派では、ガマクという言葉は使わない

ここまでガマクという言葉を使ってきた。

しかし、ここははっきり分けておきたい。

自分の流派では、
「ガマク」という言葉を使って指導されるわけではない。

稽古の中で、
「ガマクを入れろ」
「ガマクを抜け」
「ガマクを使え」
と言われているわけではない。

だから、
自分の流派ではガマクという言葉で教えている、
と言いたいわけではない。

むしろ逆である。

自分は、稽古の中で行っている身体操作を、
あとから自分なりに説明しようとしている。

そのときに、
ガマクという言葉が近いのではないか、
と考えている。

肩を下げる。
頭を上下させない。
丹田を操作する。
腹圧を変える。
腰腹部から胸郭へ圧を通す。
肩口を胴体につなげる。
上体の外枠を崩さずに、内側を動かす。

こうした操作は、
自分の流派の稽古の中でかなり明確に行っていると思っている。

しかし、それをガマクという言葉で教わっているわけではない。

ここを曖昧にすると、
話がすぐにおかしくなる。

「ガマクという言葉を使っていないなら、ガマクは伝わっていない」
という話になってしまう。

それは違うと思う。

言葉がないことと、
身体操作がないことは同じではない。

また逆に、
「うちの流派こそ本当のガマクを伝えている」
と言いたいわけでもない。

それも違う。

自分の流派ではガマクという言葉は使わない。

しかし、ガマクと呼ばれるものに近い腰腹部から胸郭への操作は、
鍛錬としてかなり明確に行っている。

自分が言いたいのは、この切り分けである。

用語としてのガマク。
身体操作としてのガマク的な働き。
自分の流派で実際に稽古している操作。

この三つを混ぜてはいけない。

用語としてのガマクを知らないからといって、
その身体操作が伝わっていないとは限らない。

逆に、
ガマクという言葉を知っているからといって、
その身体操作ができているとも限らない。

大事なのは、言葉を知っているかどうかだけではない。

その言葉で指されているかもしれない身体操作が、
稽古の中でどう扱われているかである。

自分の流派では、
ガマクという言葉は使わない。

けれど、
肩を下げたまま、
頭や肩を上下させず、
丹田や腹圧を操作し、
腰腹部から胸郭へ圧を通す稽古はしている。

しかも、それを曖昧にはしない。

見えるくらい明確に操作する。
鍛錬として、はっきり行う。

だから自分は、
その操作を説明するために、
ガマクという言葉を手がかりにしている。

これは、流派の公式用語としての説明ではない。

今の自分が、
自分の稽古を理解するために置いている仮の言葉である。

ただし、仮の言葉だからといって、
軽い話ではない。

むしろ、
言葉が違っても、
身体操作として伝わっているものがあるのではないか。

そのことを考えるために、
自分はガマクという言葉を使っている。

この理解の一部には、
以前読んだ資料の影響もある。

資料の中にある、ガマク的操作の部品

以前読んだ資料の中に、
自分の理解の土台になっている部分がある。

ただし、その資料が「ガマク」を中心に説明しているわけではない。

ここは間違えないようにしたい。

自分は、
その資料に「ガマクと書いてある」と言いたいのではない。

また、その資料に書かれている剛柔流や白鶴拳の説明を、
そのまま自分の流派の説明として置き換えたいわけでもない。

そうではなく、
そこに出てくるいくつかの身体操作が、
自分が今考えているガマク的な働きを考えるうえで、
かなり大きな手がかりになっている。

たとえば、
咽喉を開いた呼吸。
腹式呼吸。
体幹をボール状にすること。
肛門や会陰を垂直に引き上げること。
一寸力。
チンクチ。
チル。
丹田に重心を置くこと。
頭正・身正・馬正。
胸を張り、両肩を落とすこと。

そうした身体操作が、
三戦や転掌を題材にして説明されている。

自分は、これらを別々の知識として読んでいるわけではない。

呼吸の話。
腹圧の話。
肛門や会陰の話。
チンクチの話。
チルの話。
丹田の話。
姿勢の話。

それぞれを独立した部品として覚えても、
たぶん身体の中ではつながらない。

自分が引っかかっているのは、
それらが全部、
腰腹部から胸郭へ圧を通す操作に関係しているように見えることだ。

咽喉を開く。
腹式呼吸をする。
体幹を内側から膨らませる。
肛門や会陰を垂直に引き上げる。
丹田に重心を置く。
胸を張り、肩を落とす。
肩口を胴体につなげる。

これらは、別々の注意点ではなく、
一つの身体操作の周辺に集まっているように見える。

もちろん、自分はまだ完全に理解しているわけではない。

自分の身体で、
それが十分にできているとも言えない。

ただ、少なくとも今の自分には、
これらは単なる知識の羅列ではない。

頭や肩を上下させず、
外枠を崩さず、
その中で丹田を操作し、
腹圧を変え、
腰腹部から胸郭へ圧を通す。

そういう身体技法として読める。

だから、自分がガマクという言葉で考えているものは、
ただ腰を入れることではない。

ただ腹圧をかけることでもない。
ただ丹田を意識することでもない。
ただ肩を落とすことでもない。

それらが切り離されず、
一つの身体操作としてつながっている状態である。

資料に出てくる言葉を借りれば、
呼吸、腹圧、丹田、肛門や会陰の引き上げ、チンクチ、チル、姿勢が、
ばらばらではなく、
同じ身体の中で連動している。

自分はその連動を、
ガマク的な操作として考えている。

ただし、この資料がすべての正解だとは思っていない。

資料を根拠にして、
自分の流派の稽古を説明し切れるとも思っていない。

あくまで、
自分が稽古の中で感じていることを考えるための、
土台の一部である。

それでも、この資料を読んだことで、
自分の中ではかなり見え方が変わった。

肩を落とすこと。
丹田を置くこと。
腹圧を使うこと。
胸郭へ圧を通すこと。
肩口を胴体につなげること。
頭や肩を上下させないこと。

これらは、
単なる姿勢の注意ではない。

腰腹部から胸郭にかけての操作を成立させるための条件なのだと思う。

だから、自分にとってガマクは、
神秘的な言葉ではない。

しかし、浅い言葉でもない。

身体の中で何が起きているのかを考えようとすると、
呼吸、腹圧、丹田、胸郭、肩、姿勢、チンクチ、チルまでつながってしまう。

それくらい厄介な言葉である。

では、なぜこうした言葉が秘伝めいて見えるのか。

言葉は使われなくなった。しかし伝承が消えたわけではない

ガマクやチンクチという言葉は、
沖縄空手の中に伝わっていた言葉なのだと思う。

ただ、現代の沖縄空手の稽古で、
沖縄方言そのもので指導されることはほとんどない。

少なくとも自分は、
日々の稽古の中で、

「ガマクを入れろ」
「チンクチをかけろ」

という言葉で直接教わっているわけではない。

仮にそう言われたとしても、
沖縄方言を知らない者からすれば、
それだけで身体操作をイメージすることは難しい。

ガマクとは何か。
チンクチとは何か。
どこをどうすればよいのか。
何ができていて、何ができていないのか。

言葉だけを渡されても、
身体の中に対応する感覚がなければ、
それはただの分からない言葉になってしまう。

だから、ガマクやチンクチという言葉は、
後から聞くと、どこか秘伝めいて見える。

何か特別なもの。
普通には教えてもらえないもの。
一部の人だけが知っているもの。

そういう雰囲気をまといやすい。

しかし、自分はそこに少し違和感がある。

言葉が使われなくなったことと、
指導が継続してなされなかったことは、
同じではないと思うからである。

言葉は今は使われていないが、伝承はされている。

肩を下げる。
脇を締める。
肘を下げる。
頭を上下させない。
丹田に重心を置く。
腹圧を使う。
肩口を胴体につなげる。
三戦を繰り返す。
転掌を繰り返す。

そうした稽古の中に、
ガマクやチンクチと呼ばれてきた身体操作は、
別の言葉、別の形で残っているのではないか。

もちろん、
方言としての言葉が残っていた方がよかった、
という面はあると思う。

言葉が残っていれば、
昔の先生方が何を指していたのかを考える手がかりになる。

しかし、方言の言葉が使われなくなったからといって、
身体操作そのものまで消えたと考えるのは早い。

むしろ現代の稽古では、
別の言葉に置き換えられているのだと思う。

肩を下げる。
脇を締める。
肘を下げる。
腰を引くな。
腹を抜くな。
頭を動かすな。
姿勢を崩すな。
丹田に置け。
呼吸を止めるな。

こうした言葉は、
一見すると普通の注意に見える。

しかし稽古を進めていくと、
それらが単なる姿勢の注意ではないことが少しずつ見えてくる。

肩を下げることは、
肩を楽にするだけの話ではない。

脇を締めることは、
腕を胴体に近づけるだけの話ではない。

頭を上下させないことは、
見た目を整えるだけの話ではない。

丹田に重心を置くことも、
腹を意識するだけの話ではない。

それらは、
腰腹部、腹圧、胸郭、肩口、接地をつなげるための条件になっている。

そこまで見えてくると、
ガマクやチンクチという言葉は、
突然、謎の秘伝用語ではなくなってくる。

ただし、簡単になるわけではない。

ここは分けたい。

神秘ではない。
しかし、簡単でもない。

言葉だけで分かるものではない。
しかし、隠されていたわけでもない。

この切り分けが大事だと思っている。

ガマクやチンクチが神秘的に見えるのは、
技術が隠されていたからではない。

言葉と身体操作の接続が切れたまま、
言葉だけが後から見つかるからだと思う。

身体操作につながらないまま、
「ガマク」
「チンクチ」
という言葉だけが浮かび上がる。

すると、それは秘伝のように見える。

しかし実際には、
稽古の中で別の言葉として、
すでに何度も言われていた可能性がある。

肩を下げろ。
脇を締めろ。
肘を下げろ。
頭を上下させるな。
三戦をやれ。
転掌をやれ。

その中に、
言葉は変わっても、
身体操作は残っている。

だから、自分が否定したいのは、
ガマクやチンクチの深さではない。

むしろ深いと思っている。

否定したいのは、
それを「隠されていた」という読み方だけで処理することである。

隠されていたのではない。修行しないと読めなかった

自分が否定したいのは、
ガマクやチンクチのようなものが深いということではない。

むしろ、深いとは思っている。

言葉だけで分かるものではない。
一度説明されたくらいで身体に入るものでもない。
本を読んだから分かるものでもない。

そこは間違えたくない。

ただ、その深さを、
「隠されていた」
という言い方で処理することには違和感がある。

隠されていた、という言い方には、
知っている側が、意図的に教えなかった、
という響きがある。

先生方が大事なものを奥にしまい込み、
弟子には形だけを教え、
本当の使い方や身体操作を出し惜しみしていた。

そういう物語になりやすい。

自分は、そこが違うと思っている。

ガマクやチンクチに関わる身体操作は、
隠されていたわけではない。

型はあった。
稽古はあった。
言葉もあった。
注意もあった。

肩を下げる。
脇を締める。
肘を下げる。
腰を引くな。
頭を上下させるな。
丹田に置け。
姿勢を崩すな。
三戦を繰り返せ。
転掌を繰り返せ。

そうしたことは、最初から言われていたのだと思う。

ただ、修行を進めないと、
その意味を読めなかった。

ここを分けたい。

隠されていた、
というのは、
知っている側が意図的に教えなかったということだと思う。

しかし、
修行しないと分からない、
というのは違う。

型、言葉、稽古は与えられている。

しかし、
身体が育たないと、
その意味を受け取れない。

肩を下げろと言われても、
最初はただ肩の位置を下げる話にしか聞こえない。

脇を締めろと言われても、
最初はただ腕を身体に寄せる話にしか聞こえない。

頭を上下させるなと言われても、
最初は見た目を整える注意にしか聞こえない。

丹田に置けと言われても、
最初は腹のあたりを意識する程度にしか分からない。

しかし稽古を続けていくと、
同じ言葉の意味が変わってくる。

肩を下げることが、
肩を脱力するだけではなく、
肩口を胴体につなげることに関わってくる。

脇を締めることが、
腕を固めることではなく、
体幹から腕を切り離さないことに関わってくる。

頭を上下させないことが、
外形をきれいにするためではなく、
丹田や腹圧の操作を肩や頭へ逃がさないためだと見えてくる。

丹田に置くことが、
ただ腹を意識することではなく、
腰腹部から胸郭へ圧を通す操作とつながってくる。

見せられていないのではない。

見えていても、読めなかったのだと思う。

教えられていなかったのではない。

教えられていても、
身体がまだ受け取れなかったのだと思う。

だから、
「隠されていた」
という言い方は、
自分には少し雑に感じる。

もちろん、
すべてが懇切丁寧に説明されていた、
と言いたいわけではない。

昔の先生方が、
今のように言葉を尽くして理論的に説明していた、
と言いたいわけでもない。

ただ、
説明されなかったから隠されていた、
とは限らない。

説明しすぎれば、
弟子は分かった気になる。

身体で分かる前に、
頭で理解したつもりになる。

すると、稽古の中で自分で探す力が弱くなる。

肩を下げる。
脇を締める。
肘を下げる。
頭を上下させない。

そういう一見単純な言葉の中に、
どれだけの意味が含まれているのか。

それを自分で稽古の中から掘り出していく。

そこに、沖縄空手の教え方の大事な部分があるのではないかと思っている。

だから自分は、
ガマクやチンクチを浅く見たいわけではない。

むしろ、簡単に説明できない深さがあると思っている。

ただ、その深さは、
隠されていたから深いのではない。

最初から稽古の中にあった。

ただ、修行を進めないと読めなかった。

では、先生方は何をしていたのか。

教えなかったのではなく、
気づかせようとしていたのだと思う。

教えないのではない。考えさせ、気づかせる

沖縄空手の先生方は、
教えなかったのではないと思う。

型は教える。
言葉も渡す。
稽古もさせる。

肩を下げろ。
脇を締めろ。
肘を下げろ。
頭を上下させるな。
腰を引くな。
サンチンをやれ。
転掌をやれ。

そういう言葉は、最初から渡されている。

ただし、最初から全部を説明して、
分かった気にさせることはしない。

ここが大事なのだと思う。

答えを隠していたのではない。

答えを早く固定しすぎないようにしていたのだと思う。

最初から、
「これはガマクである」
「これはチンクチである」
「ここでは腹圧をこう使う」
「ここでは胸郭へこう圧を通す」
と全部説明されれば、
頭では分かった気になるかもしれない。

しかし、身体がまだそこまで育っていなければ、
その説明は本当の意味では入らない。

むしろ、余計な意識になることもある。

肩を下げると言われているのに、
腹圧を考えすぎて肩が上がる。

脇を締めると言われているのに、
胸郭を意識しすぎて上体が固まる。

丹田を意識しろと言われているのに、
腹に力を入れすぎて居着く。

そういうことは起こると思う。

だから、先生方は、
今の段階で必要な言葉だけを渡す。

肩を下げろ。
脇を締めろ。
肘を下げろ。
頭を上下させるな。

それ以上を、すぐには説明しない。

それは不親切なのではなく、
弟子が自分の身体で考える余地を残しているのだと思う。

身体で理解するものは、
説明された瞬間に分かるものではない。

言われたことをやってみる。
できない。
またやる。
少し変わる。
また分からなくなる。
ある時、前に言われた同じ言葉が違って聞こえる。

そういう順番がある。

沖縄空手の先生方が大事にしていたのは、
たぶんこの順番なのだと思う。

答えを与えないのではない。

型を与える。
言葉を与える。
稽古を与える。
見るべき方向を与える。

しかし、最後の意味までは、
弟子自身に身体で取りに行かせる。

自分で意味を考えさせる。
身体で試させる。
失敗させる。
また稽古させる。
ある時期に気づかせる。

それが、ただ説明することよりも大事にされていたのではないか。

だから、
「教えなかった」
という言い方は違うと思う。

教えてはいる。

ただ、答えを完成品として渡さない。

弟子が自分の身体で到達するまで、
型と言葉と稽古の中に置いておく。

その教え方を、
隠していた、
と読んでしまうと、
沖縄空手の伝承の大事な部分を取り違える気がする。

問題は、情報を隠したかどうかではない。

身体が育つ前に答えを固定してしまうと、
その先へ進めなくなる。

だから、先生は言いすぎない。

説明しないことが常に良い、
という話ではない。

ただ、段階を無視して説明しすぎれば、
弟子は自分で考えなくなる。

自分の身体で確かめなくなる。

分かったつもりになって、
言葉だけを持ち帰る。

それでは、型の中に置かれているものを読めない。

だから、
教えないのではない。

考えさせる。
試させる。
気づかせる。

そのことをよく表している話がある。

「合ってる」とだけ言う先生

昔の先生は、弟子が、

「この型はこう使うのですか」

と聞いたとき、

「合ってる」

とだけ答えた、という話を聞いたことがある。

この話は、かなり大事だと思っている。

ここで言う「合ってる」は、
最終解答として正しい、
という意味ではないのだと思う。

いまのお前の理解度であれば、
それで合っている。

その理解で、
もう少し稽古してみなさい。

そういう意味だったのではないか。

もし先生がそこで、
「違う」
とだけ言えば、
弟子の理解は折れる。

逆に、
細かい正解を全部説明してしまえば、
弟子は分かった気になる。

しかし、その先生は、
どちらもしなかった。

「合ってる」
とだけ言った。

その言葉によって、
弟子は今の理解を捨てずに済む。

ただし、
それを完成形として固定することも許されない。

そこが、この話の面白いところだと思う。

その弟子は、
「師匠が合っていると言った。
だからこれが完成形だ」
とは受け取らなかった。

「いまの自分には、これで合っている。
しかし修行が進めば、
同じ型はまた違って見えるはずだ」

そう受け取った。

だから、さらに稽古に励んだ。

この受け取り方が大事なのだと思う。

「合ってる」は、
終わりの言葉ではない。

稽古を続けるための言葉である。

今の理解をいったん認める。
その理解で身体を動かす。
その理解で型を繰り返す。
その理解で相手を想定する。

しかし、
その理解を絶対化しない。

身体が変われば、
同じ型の意味も変わって見える。

力の出方が変われば、
同じ受けの意味も変わる。

間合いの見え方が変われば、
同じ動作の使い方も変わる。

接地が変われば、
突きの意味も変わる。

肩の下がり方が変われば、
脇や肘の意味も変わる。

腹圧や丹田の操作が変われば、
同じ型の中に見えてくるものも変わる。

だから、
「合ってる」は、
正解を固定する言葉ではない。

今の段階での理解を認めながら、
その先へ進ませる言葉なのだと思う。

これは、
型の意味を固定しない教え方である。

否定して折るのでもない。
正解を全部渡すのでもない。

今の理解を認める。
その理解でさらに稽古させる。
その先で、同じ型の意味が変わって見えるようにする。

この教え方を、
単に説明不足だとは思えない。

もちろん、
何も考えずに「合ってる」と言っているだけなら、
それは指導ではない。

しかし、この話で重要なのは、
弟子の理解度を見たうえで、
その段階の理解を認めているように見えることだ。

「いまのお前なら、それでよい」

しかし、

「それが最後だとは思うな」

この二つが同時に含まれている。

ここを外すと、
沖縄空手の教え方を読み違える気がする。

正解は人それぞれ、
という話ではない。

型の意味は何でもよい、
という話でもない。

段階によって、
読める意味が変わるという話である。

同じ型をやっている。
同じ動作をしている。
同じ言葉を聞いている。

それでも、
白帯の頃に見えるものと、
稽古を重ねた後に見えるものは違う。

だから、
先生は最初から答えを固定しない。

弟子が今見えているところを認め、
その理解で稽古を続けさせる。

そして、
身体が変わったときに、
同じ型がもう一度問い直される。

「合ってる」
という一言の中には、
その余地が残されている。

自分は、そこに沖縄空手の教え方の厳しさがあると思う。

優しく全部説明するのではない。

突き放して教えないのでもない。

今の理解を認めながら、
その理解に留まることは許さない。

だから弟子は、
「合ってる」と言われても安心して終わるのではなく、
さらに稽古する。

その先で、
前に「合ってる」と言われた理解が、
もっと深く、あるいは別の形で見えてくる。

ガマクやチンクチも、
これと同じなのだと思う。

ガマクやチンクチは、最初から稽古の中にあった

ガマクやチンクチも、
隠されていた秘伝ではないのだと思う。

もちろん、
簡単なものだと言いたいわけではない。

自分に分かっているとも言えない。

むしろ、
まだ分からないことの方が多い。

ただ、
分からないことと、
隠されていたことは違う。

肩を下げる。
脇を締める。
肘を下にする。
頭を上下させない。
丹田に重心を置く。
腹圧を使う。
肩口を胴体につなげる。
型を繰り返す。

そうした稽古の中に、
ガマクやチンクチと呼ばれてきたものは、
最初から置かれていたのではないかと思っている。

ただ、白帯の頃にはそれが分からない。

肩を下げる、
という言葉は聞こえている。

でも、それはただ、
肩の位置を下げることにしか聞こえない。

脇を締める、
という言葉も聞こえている。

でも、それはただ、
腕を身体に近づけることにしか聞こえない。

頭を上下させない、
という言葉も聞こえている。

でも、それはただ、
見た目を安定させるための注意にしか聞こえない。

丹田に重心を置く、
という言葉も聞こえている。

でも、それはただ、
腹のあたりを意識することにしか聞こえない。

最初は、それでいいのだと思う。

いまの理解度では、
それで稽古するしかない。

ただ、稽古を続けていくと、
同じ言葉の意味が少しずつ変わってくる。

肩を下げることが、
肩を楽にするだけではなく、
肩口を胴体につなげることに関わってくる。

脇を締めることが、
腕を固めることではなく、
体幹と腕を切り離さないことに関わってくる。

肘を下にすることが、
ただ形を整えることではなく、
肩を浮かせず、力を手先へ逃がさないための条件に見えてくる。

頭を上下させないことが、
見た目の問題ではなく、
丹田や腹圧の操作を肩や頭へ逃がさないための条件に見えてくる。

丹田に重心を置くことが、
ただ腹を意識することではなく、
腰腹部から胸郭へ圧を通す操作とつながってくる。

そうなると、
最初に言われていた言葉が、
まったく別の深さを持って聞こえてくる。

新しい秘密を教えられたわけではない。

同じ言葉を、
自分の身体が前より少し読めるようになっただけである。

ここが大事なのだと思う。

ガマクやチンクチは、
どこか奥に隠されていて、
ある段階になったら突然教えてもらえるものではないのかもしれない。

少なくとも今の自分には、
そうは見えていない。

むしろ、
最初から稽古の中にあった。

最初から言われていた。
最初から型の中にあった。
最初から身体に求められていた。

ただ、自分の身体がまだ読めなかった。

だから、
ガマクやチンクチを知らなかったのではない。

言葉として知らなかった、
ということはある。

沖縄方言としての意味を知らなかった、
ということもある。

しかし、
身体操作としては、
稽古の中で何度も触れていた可能性がある。

肩を下げる。
脇を締める。
肘を下げる。
腹を抜くな。
腰を引くな。
頭を上下させるな。
型を繰り返せ。

その中に、
すでに置かれていた。

ただ、それがガマクやチンクチと呼ばれてきたものに関わっているとは、
その時点では読めなかった。

だから、
秘伝は奥に隠されていたのではなく、
最初の言葉の中に置かれていたのだと思う。

これは、
秘伝など存在しない、
という話ではない。

また、
全部説明できる、
という話でもない。

昔の指導がすべて完璧だった、
と言いたいわけでもない。

そうではなく、
隠されていたという読み方だけでは、
この伝承のあり方を読み違えるのではないか、
ということだ。

最初から示されている。

しかし、
修行が進まないと読めない。

この構造を、
ただの秘匿として扱ってしまうと、
沖縄空手の先生方が大事にしてきたものを、
少し違う形で受け取ってしまう気がする。

ガマクやチンクチは、
神秘化するための言葉ではない。

しかし、
浅く説明して終わらせてよい言葉でもない。

言葉としては使われなくなっていても、
稽古の中には残っている。

最初の言葉の中にある。

ただ、それを読める身体になるまで、
時間がかかる。

だから自分は、
ガマクやチンクチを神秘化したいわけではない。

ただ、浅く扱いたいわけでもない。

おわりに:隠されていたのではない。読める身体になるまで分からなかった

ここまで書いてきたが、
自分はガマクやチンクチを分かったとは言えない。

ましてや、
それを正しく説明できているとも思っていない。

自分の身体で十分に使えているとも言えない。

ただ、今の自分には、
ガマクやチンクチが、
ただ奥に隠されていた秘伝だったとは思えない。

言葉は薄れたのだと思う。

沖縄方言としては分かりにくくなった。
現代の稽古では、
別の言葉で指導されることも多い。

「ガマクを入れろ」
「チンクチをかけろ」

そういう言葉そのもので教わることは、
少なくなっているのだと思う。

しかし、それは伝承が消えたという意味ではない。

肩を下げる。
脇を締める。
肘を下げる。
頭を上下させない。
丹田に置く。
腹圧を使う。
肩口を胴体につなげる。
型を繰り返す。

そうした稽古の中に、
ガマクやチンクチと呼ばれてきた身体操作は、
残っているのではないかと思っている。

隠されていたのではない。

最初から言われていた。
最初から型の中にあった。
最初から稽古の中に置かれていた。

ただ、自分の身体がまだ読めなかった。

肩を下げる、という言葉も、
最初はただ肩の位置の話にしか聞こえない。

脇を締める、という言葉も、
最初はただ腕を身体に寄せる話にしか聞こえない。

頭を上下させない、という言葉も、
最初はただ見た目を安定させる注意にしか聞こえない。

しかし稽古を続けると、
同じ言葉の意味が変わってくる。

肩を下げることが、
肩口を胴体につなげることに関わってくる。

脇を締めることが、
腕を固めることではなく、
体幹と腕を切り離さないことに関わってくる。

頭を上下させないことが、
丹田や腹圧の操作を、
肩や頭へ逃がさないための条件に見えてくる。

同じ言葉を聞いている。
同じ型を稽古している。

でも、身体が変わると、
そこに見えてくるものが変わる。

だから、
教えられていなかったのではないのだと思う。

教えられていても、
身体がまだ受け取れなかった。

見せられていなかったのではない。

見えていても、
読めなかった。

自分は今、
ガマクやチンクチを神秘化したいわけではない。

ただ、浅く扱いたいわけでもない。

言葉だけを知って、
分かった気になることは避けたい。

逆に、
よく分からない言葉だからといって、
すぐに秘伝や謎として遠ざけることもしたくない。

稽古の中で、
何度も言われている基本の言葉へ戻る。

肩を下げる。
脇を締める。
肘を下げる。
頭を上下させない。
丹田に置く。
腹圧を使う。
型を繰り返す。

そこに何が含まれているのかを、
自分の身体で確かめていくしかない。

隠されていたのではない。

ただ、読める身体になるまで、
見えていても分からなかったのだと思う。

コメント

  1. kosaru0830 より:

    ## 補記:近い研究について、AIに調べてもらった

    この記事を書いたあとで、
    自分の考えに近い研究や概念がないか、
    AIに調べてもらった。

    もちろん、ここで挙げる研究が、
    沖縄空手のガマクやチンクチを直接説明しているわけではない。

    また、これらの研究を根拠にして、
    自分の稽古理解が正しいと証明したいわけでもない。

    ただ、
    「教えられていなかったのではなく、教えられていても身体がまだ受け取れなかった」
    という見方には、
    いくつか近い考え方があるように思えた。

    整理すると、次のようになる。

    ### 1. 暗黙知

    研究者は、マイケル・ポランニー。

    ポランニーは、
    人間には言葉で説明できる知識だけでなく、
    言葉にしきれない知識がある、
    ということを論じた研究者である。

    有名な言い方として、
    「私たちは、語れる以上のことを知っている」
    という考え方がある。

    本文との共通点は、
    身体で分かっていることと、
    言葉で説明できることは同じではない、
    という点である。

    空手の稽古でも、
    肩を下げる。
    脇を締める。
    頭を上下させない。
    丹田に置く。

    そうした言葉は聞いている。

    しかし、その言葉の中にある身体操作を、
    すぐに言葉として理解できるわけではない。

    身体が育ってから、
    前に言われた言葉の意味が変わって聞こえる。

    この点は、暗黙知の考え方とかなり近い。

    ただし、本文との差分もある。

    暗黙知の研究は、
    沖縄空手の伝承や、
    ガマク、チンクチのような具体的な身体技法を説明するための研究ではない。

    本文で問題にしているのは、
    単に「言葉にできない知識がある」ということではない。

    言葉はあった。
    稽古もあった。
    型もあった。

    しかし、
    身体が育つまで読めなかった。

    そこに重点がある。

    ### 2. 状況的学習、正統的周辺参加

    研究者は、ジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガー。

    この考え方では、
    学習は頭の中だけで起こるものではなく、
    実際の共同体や実践の中に参加していくことで起こる、
    とされる。

    初心者は、いきなり中心に立つのではなく、
    周辺から参加しながら、
    少しずつ実践の意味を身につけていく。

    本文との共通点は、
    稽古の場そのものが学びになっている、
    という点である。

    ガマクやチンクチも、
    机の上で定義を覚えるものではない。

    型を習う。
    先生の動きを見る。
    同じ注意を何度も受ける。
    自分で動いてみる。
    できない。
    また稽古する。

    その繰り返しの中で、
    言葉の意味が少しずつ変わってくる。

    これは、
    稽古の共同体に参加しながら、
    身体で意味を読めるようになっていく、
    という見方に近い。

    ただし、本文との差分もある。

    状況的学習は、
    学習一般や職能共同体の参加を説明する考え方であって、
    沖縄空手の型や身体操作そのものを説明しているわけではない。

    本文で書いているのは、
    共同体に参加すれば自然に分かる、
    という話ではない。

    肩を下げる。
    脇を締める。
    頭を上下させない。
    丹田に置く。
    腹圧を使う。

    そうした具体的な稽古の言葉が、
    身体の変化によって読めるようになる、
    という話である。

    ### 3. 運動技能習得の三段階モデル

    研究者は、ポール・フィッツとマイケル・ポズナー。

    このモデルでは、
    運動技能の習得には段階があるとされる。

    最初は、動きを頭で考えながら行う段階。
    次に、失敗を修正しながら安定させる段階。
    さらに進むと、動きが自動化されていく段階。

    本文との共通点は、
    身体操作は一度説明されただけで身につくものではなく、
    段階を経て変わっていく、
    という点である。

    白帯の頃に、
    肩を下げろと言われても、
    それは肩の位置の話にしか聞こえない。

    脇を締めろと言われても、
    腕を身体に近づける話にしか聞こえない。

    頭を上下させるなと言われても、
    見た目を安定させる注意にしか聞こえない。

    しかし、稽古を続けると、
    同じ言葉が別の意味を持ってくる。

    肩を下げることが、
    肩口を胴体につなげることに関わってくる。

    頭を上下させないことが、
    丹田や腹圧の操作を外へ逃がさないための条件に見えてくる。

    このように、
    同じ言葉でも、
    身体の段階によって読める意味が変わる。

    この点は、運動技能習得の段階モデルと近い。

    ただし、本文との差分もある。

    フィッツとポズナーのモデルは、
    運動技能の習得段階を説明するものであって、
    伝承や秘伝の問題を扱っているわけではない。

    本文で書きたいのは、
    単に「上達には段階がある」という一般論ではない。

    隠されていたのではない。
    最初から稽古の中にあった。
    ただ、身体が育つまで読めなかった。

    この伝承の読み違えを問題にしている。

    ### 4. ドレイファス・モデル

    研究者は、スチュアート・ドレイファスとヒューバート・ドレイファス。

    このモデルでは、
    技能の習得は、
    初心者から熟達者へ進むにつれて、
    ルールや手順に頼る段階から、
    状況を直感的に捉えて動ける段階へ変わっていく、
    とされる。

    本文との共通点は、
    初心者と熟達者では、
    同じ状況を見ても読めるものが違う、
    という点である。

    初心者は、
    肩を下げる、
    脇を締める、
    肘を下げる、
    という言葉を、
    個別の注意として受け取る。

    しかし稽古が進むと、
    それらが別々の注意ではなく、
    一つの身体操作の条件としてつながって見えてくる。

    同じ型を見ている。
    同じ言葉を聞いている。
    同じ稽古をしている。

    それでも、
    段階によって読めるものが違う。

    この点は、ドレイファス・モデルの熟達化の考え方と近い。

    ただし、本文との差分もある。

    ドレイファス・モデルは、
    技能一般の熟達過程を説明するものである。

    本文で扱っているのは、
    もっと具体的に、
    沖縄空手の稽古の中で、
    ガマクやチンクチのような言葉が、
    なぜ秘伝のように見えてしまうのか、
    という問題である。

    だから、
    このモデルをそのまま空手に当てはめたいわけではない。

    あくまで、
    「段階によって同じ言葉の意味が変わる」
    という点で近いと見ている。

    ### まとめ

    AIに調べてもらうと、
    この記事に近い研究や概念はいくつかあった。

    暗黙知。
    状況的学習。
    運動技能習得の段階モデル。
    ドレイファス・モデル。

    どれも、
    本文の一部とは重なる。

    言葉にできない知識がある。
    実践の中で学ぶ。
    身体技能には段階がある。
    初心者と熟達者では、同じものの見え方が変わる。

    こうした点は、
    この記事で書いたことと近い。

    ただし、
    この記事はそれらの研究を紹介するために書いたものではない。

    また、それらの研究で、
    ガマクやチンクチを説明し切れるとも思っていない。

    自分が書きたかったのは、
    もっと稽古の中で感じていることである。

    ガマクやチンクチは、
    奥に隠されていた秘伝だったのではない。

    肩を下げる。
    脇を締める。
    肘を下げる。
    頭を上下させない。
    丹田に置く。
    腹圧を使う。
    型を繰り返す。

    そうした最初から言われていた言葉の中に、
    すでに置かれていたのではないか。

    ただ、
    身体が育つまで、
    それを読めなかった。

    近い研究を調べることで、
    この考えは少し整理しやすくなった。

    しかし最後は、
    研究名ではなく、
    稽古の中で確かめるしかない。

    今の自分には、
    そう見えている。

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