第37回 2005年の月刊空手道記事は、ルールーコー調査をどう描いたのか

2005年9月号の『月刊空手道』に、ルールーコー調査を扱った記事が掲載されている。1

この記事は、1988年当時の調査速報ではない。

また、1999年の最終報告書そのものでもない。

1990年に福州で建立された、東恩納寛量とルールーコーの顕彰碑。

その建立から15年を迎えた時点で、改めてルールーコー調査を振り返った記事である。

だから、この2005年の記事には、独特の位置がある。

調査の途中経過をそのまま伝える記事ではない。

すでに劉祥京説が退き、謝如如/謝崇祥説が立ち上がり、異論への回答もあり、最終報告書も出た後に書かれている。

そのうえで、顕彰碑建立15周年という時点から、ルールーコー調査をもう一度たどり直している。

この記事で重要なのは、単に「新しい情報があるかどうか」ではない。

劉祥京説がどのように後退したのか。

調査がどこで行き詰まり、どこで転換したのか。

ルールーコーという音を、別の漢字名へ無理に当てはめる調査方法にどんな限界があったのか。

謝如如という人物が、家譜、本名、字、呼称、鳴鶴拳、住居跡、墓、位牌、子孫証言によって、どのように具体化されていったのか。

さらに、東恩納寛量の修行期間や、三戦・転掌・白鶴拳との技術的接点が、どのように整理されているのか。

今回は、この2005年の記事を、そういう後年の整理として読んでみたい。

1. この記事の入口は、調査開始ではなく顕彰碑建立15周年である

まず重要なのは、記事の入口である。

2005年記事は、渡嘉敷唯賢会長が調査を始める場面から始まらない。

福州体育センターの顕彰碑から始まる。

1990年に建立された、東恩納寛量とルールーコーの顕彰碑。

その建立から15年が過ぎ、2005年6月に記念式典が開かれる。

日本側、中国側の関係者が集まり、現地のテレビ局も取材に来ている。

つまり、この記事では、ルールーコー調査は単なる過去の謎解きではない。

調査の結果が、福州の地に顕彰碑として残り、15年後にも日中武術交流の場として機能している。

ここから記事は、過去の調査へ戻っていく。

この構成はかなり重要である。

この記事の主眼は、単に「ルールーコーは誰だったのか」ではない。

その調査は、15年後にどういう意味を持っていたのか。

その結果は、福州でどう記憶されていたのか。

剛柔流の源流をたどることが、日中の武術交流にどうつながったのか。

そこまで含めて見せようとしている。

2. 東恩納寛量の資料が少ない理由を、脱清人という仮説で読む

2005年記事は、東恩納寛量に関する資料が少ない理由についても踏み込んでいる。

東恩納寛量は、中国へ武術を習いに行った人物として語られることが多い。

しかし、この記事ではそれだけでは終わらない。

東恩納寛量は、琉球処分前後の政治的緊張の中で福州へ渡った人物として描かれている。

記事では、寛量が脱清人であり、頑固党の義村御殿から嘆願書を託されて福州へ渡ったのではないか、という仮説が置かれている。

ここが大事である。

資料が少ないのは、たまたま残らなかったからだけではない。

意図的に残されなかった可能性がある。

帰国後に、福州での行動を多く語らなかった理由も、そこに関係するかもしれない。

この読み方によって、東恩納寛量の福州行きは、単なる武術修行ではなくなる。

琉球処分。

脱清人。

義村御殿。

嘆願書。

福州。

そして、その後に武術修行がある。

2005年記事は、東恩納寛量の足取りを、武術史だけでなく政治史の中にも置いている。

3. 劉祥京説の後退は、かなり具体的に描かれている

2005年記事の中で、特に重要なのが劉祥京説の扱いである。

劉祥京説そのものは、すでに剛泊会の新聞掲載資料の中にも出ている。

しかし、2005年記事では、劉祥京説が後退していく過程が、かなり具体的に書かれている。

福州市武術協会は、劉祥京という人物を候補として提示する。

そして、1988年5月までに劉祥京の全てを解明しておく、と約束する。

ここまでは、調査が前へ進んでいるように見える。

ところが、約束の5月に渡嘉敷唯賢会長が福州を訪れると、福州市武術協会の態度が変わっている。

以前とは違い、よそよそしい。

副主席からも、現時点で話せることはない、という返答しかない。

劉祥京はルールーコーではない、と明言するわけでもない。

しかし、調査が進んでいる様子もない。

渡嘉敷会長は、その態度から、劉祥京はルールーコーではないと確信する。

ここがこの記事の細かいところである。

劉祥京説は、書類上きれいに否定されたわけではない。

福州市武術協会が明確に撤回したわけでもない。

約束。

態度の変化。

沈黙。

説明のなさ。

読みの不一致。

そして、渡嘉敷会長自身の判断。

この積み重なりで、劉祥京説は後退していく。

しかも、渡嘉敷会長はそこで福州市武術協会を切り捨てない。

これまで協力してくれた義理がある。

福州市武術協会の誠実さも信じたい。

だから、他の調査メンバーを帰国させ、自分は滞在を延長し、誠意を込めて再調査を依頼する。

しかし、その後、調査結果どころか連絡も来ない。

これは、単なる「劉祥京説は間違いだった」という話ではない。

2005年記事では、劉祥京説の後退が、調査相手との関係、信頼、沈黙、義理、判断の問題として描かれている。

ここは、月刊誌的な演出だけでは片づけられない。

2005年記事で、調査経過が具体的に厚くなっている部分である。

4. 問題は、音で探したことではなく、音をどの名前の層に結びつけるかだった

劉祥京説が行き詰まったあと、記事は福建省旅游局へ進む。

ここで重要なのは、単に「発音照合から武術源流の調査へ移った」という話ではない。

問題はもっと細かい。

それまでの調査では、沖縄に伝わる「ルールーコー」という音に、どの漢字名を当てるかが大きな焦点になっていた。

劉龍公。

劉良欣。

劉良興。

劉祥京。

こうした名前が候補として出てくるのは、ルールーコーという音を、中国側の人物名へ直接結びつけようとしたからである。

しかし、2005年記事では、この調査方法そのものの限界が、かなりはっきり書かれている。

調査した鳴鶴拳の老師たちは、謝崇祥という名前は知らなかった。

しかし、如如、つまりルールーという名前は知っていた。

ここが大きい。

謝崇祥という名で探しても、鳴鶴拳の老師たちの記憶には届かない。

一方で、如如という名前であれば、鳴鶴拳の老師たちの記憶に残っていた。

ただし、ここで注意しなければならないのは、如如を単なる通称として扱ってはいけないということだ。

最終的に東嵐謝氏家譜によって確認される関係では、如如が本名であり、崇祥が字である。

そして、福州地方では若い人に対して「○○哥」と呼ぶ習慣がある。

つまり、

如如という本名。

崇祥という字。

如如哥という呼称。

この三つを分けて読まなければならない。

問題は、「ルールーコーという音で探したこと」ではない。

ルールーコーという音を、どの名前の層に結びつけるかである。

本名なのか。

字なのか。

呼称なのか。

門派内で記憶されていた名なのか。

ここを取り違えると、調査は見当違いになる。

2005年記事の重要なところは、まさにそこにある。

ルールーコーという音を捨てたのではない。

むしろ、その音をより正しく扱い直している。

音を無理に別の漢字名へ当てはめるのではなく、鳴鶴拳の老師たちの記憶に残る「如如」という名へ戻していく。

そうすると、謝崇祥という名だけでは見えにくかった人物が、如如という本名から見えてくる。

そして、その如如は、鳴鶴拳の一代宗師として知られていた。

ここで調査の方向が変わる。

「ルールーコー」に近い漢字名を探す調査から、鳴鶴拳の老師たちの記憶に残る「如如」という名をたどる調査へ。

さらに、その人物の家譜、武術系譜、住居跡、道場跡、子孫証言へと進む調査へ。

この転換によって、謝如如/謝崇祥説は、単なる発音の一致ではなくなる。

如如という本名。

崇祥という字。

如如哥という呼称。

鳴鶴拳の老師たちの記憶。

鳴鶴拳の一代宗師という位置づけ。

剛柔流の型や三戦との技術的接点。

これらがつながって、ルールーコーの人物像が立ち上がってくる。

だから、2005年記事で重要なのは、「音だけではなく武術源流から探した」という程度の話ではない。

ルールーコーという音を、別の漢字名へ無理に当てはめる調査では届かなかった。

如如という本名と、如如哥という呼称を、鳴鶴拳の流派内の記憶として受け取り直した時に、字を崇祥とする謝如如という人物へたどり着いた。

ここに、調査の大きな転換がある。

5. 謝如如は、名前ではなく現地でたどれる人物として立ち上がる

2005年記事では、謝如如/謝崇祥の人物像もかなり具体的に描かれている。

東嵐謝氏家譜で確認すると、如如が本名であり、崇祥が字である。

1852年生まれ。

1930年没。

13歳の時に父とともに福州南台へ移り住む。

幼少のころから父の仕事を手伝い、潘嶼八に拝師入門し、拳を習い、技を究め、名を馳せた。

さらに、福州地方では若い人を「○○哥」と呼ぶ習慣があった。

如如哥。

それが、沖縄に伝わったルールーコーという音とつながる。

ここで謝如如は、単なる名前の候補ではなくなる。

家譜に出る。

本名が如如である。

字が崇祥である。

如如哥という呼称がある。

鳴鶴拳と結びつく。

父の仕事がある。

靴づくりがある。

住居跡がある。

道場跡がある。

墓がある。

位牌がある。

子孫証言がある。

2005年記事は、謝如如を、現地でたどれる人物として立ち上げている。

この点は重要である。

ルールーコーという音を、別の漢字名へ無理に当てはめるだけなら、調査はそこで行き詰まる。

しかし、如如という本名と、如如哥という呼称として受け取り直すと、話が変わる。

その名は、鳴鶴拳の老師たちの記憶に残っていた。

さらに、その如如が、家譜上の謝如如、字・崇祥と結びつく。

そこに、家、仕事、武術、呼称、子孫、場所が重なる。

だから、2005年記事では、ルールーコーは「謎の音」から、「福州で生活し、拳を教え、墓と位牌を持つ人物」へ変わっていく。

6. 謝品寛氏の証言と現地確認が、生活史を厚くしている

2005年記事で特に厚いのが、謝品寛氏の証言と現地確認である。

記事では、謝品寛氏の話として、ルールーコーは昼間は靴づくりの仕事をし、夜になると拳術を教えていたとされる。

また、沖縄側には、東恩納寛量が昼間は如如の父親の竹細工を手伝い、夜にルールーコーから拳術を学んだという話が伝わっている。

2005年記事は、この二つを対応させている。

さらに、渡嘉敷会長は、謝品寛氏に案内されて、謝崇祥が住んでいた木造二階建ての家、閩江に通じる水路、星安橋、靴屋跡、最初の武術道場跡、長男・謝周学の住居、長楽県首占郷岱辺村、生誕地、チーシー、墓、位牌までたどっている。

ここは、名前や拳種だけの話とは違う。

生活の跡である。

住んでいた場所。

働いていた場所。

教えていた場所。

生まれ育った場所。

鍛錬具。

墓。

位牌。

子孫。

ここまで出てくると、謝如如説は、単なる推測ではなく、現地確認を伴った人物調査としてかなり厚みを持つ。

もちろん、これだけで何もかも自動的に確定するわけではない。

しかし、2005年記事が見せているのは、少なくとも、謝如如が現地で痕跡をたどれる人物であるということだ。

これは大きい。

7. 宮城長順がルールーコーに会えなかった問題を、別の角度から見る

2005年記事は、宮城長順が1915年に福州へ行った時、ルールーコー本人に会えなかった問題も扱っている。

ここは謝如如説への疑問になる。

もしルールーコーが謝如如であり、謝如如が1930年まで生きていたなら、1915年の時点では存命だったはずである。

では、なぜ宮城長順は会えなかったのか。

記事では、いくつかの仮説が出される。

福州で関係者にたどり着くには、太い紹介者やパイプが必要だったのではないか。

一度や二度訪ねたくらいでは、中国人は簡単に心を開かないのではないか。

1915年は日中関係が悪化していた時期であり、行動が制限された可能性もあるのではないか。

これは、謝如如説を直接証明する話ではない。

しかし、宮城長順がルールーコー本人に会えなかったことだけで、謝如如説を否定するのは早い、という補助線にはなる。

また、この記事は宮城長順を下げていない。

むしろ、宮城長順が那覇で出会った呉賢貴の白鶴拳や、古くからの那覇手をまとめ上げ、現在の剛柔流の礎を築いた人物であることを認めている。

そのうえで、宮城長順の調査だけでは見えなかった別の事実もありうる、と置いている。

ここは慎重である。

8. 修行期間は、三年説の否定ではなく、期間の分解として読める

2005年記事では、東恩納寛量が何年学んだのか、という問題も扱われている。

ここも重要である。

記事はまず、三年説、八年説、十年説、十六年説、三十年以上説など、さまざまな説があることを示す。

そのうえで、長男・寛仁の出生、次男・松助の出生、義村朝義が東恩納寛量に学んだ時期などを使い、長期滞在説には無理があると整理する。

その後、三年説の根拠も丁寧に出す。

東恩納寛量の孫にあたる人物の証言。

知花朝信が糸洲安恒から聞いた話。

佐久田繁氏の「近世琉球奇譚、空手修業物語」。

つまり、2005年記事は、三年説を乱暴に捨てていない。

そのうえで、中国側資料を使って、1877年9月18日に慎寛量が琉球館を発って乗船し帰国したことを示す。

記事では、東恩納寛量が1876年6月から1877年9月まで福州に滞在したとし、修行歴は1年4ヶ月、出国から帰国までは3年5ヶ月と整理している。

ここは、かなり大事である。

三年説が否定されたのではない。

「福州でルールーコーから実際に学んだ期間」

と、

「沖縄を出てから帰沖するまでの全体期間」

が分けられている。

つまり、2005年記事では、従来の三年説の中身が、後年の考証によって分解されている。

福州にいた期間。

福州を出てから本島へ戻るまでの期間。

全体として沖縄を離れていた期間。

これらを分けることで、三年説を捨てずに、より精密な年表へ移そうとしている。

これは、2005年記事の大きな意義だと思う。

9. 技術章は、歴史調査を稽古論へ接続している

2005年記事の後半には、三戦、転掌、白鶴拳、沖縄伝武備志、八歩連、落地生根、腹式呼吸、肛門の引き上げ、チンクチ、一寸力、六機手などが出てくる。

ここを単なる付録と見ると、記事の構成を取り逃がす。

この記事は、ルールーコーの正体を探して終わる記事ではない。

ルールーコーは誰か。

東恩納寛量は何を学んだのか。

その技術は剛柔流のどこに残っているのか。

三戦や転掌をどう見るべきなのか。

白鶴拳や沖縄伝武備志と、どうつながるのか。

ここまで進む。

つまり、この記事は、歴史調査を稽古論へ接続している。

特に、落地生根、腹式呼吸、肛門を垂直に引き上げること、一寸力、チンクチ、チル、丹田重心、八歩連と三戦、六機手と転掌などは、単なる歴史情報ではない。

身体操作の話である。

型の理解の話である。

剛柔流の三戦や転掌をどう読むかという話である。

だから、この技術章は別記事にできるほど重い。

ルールーコー調査の記事に全部入れると、主題が膨らみすぎる。

しかし、2005年記事全体の構成としては必要である。

歴史の謎解きから、稽古の意味へ進むために置かれている。

10. 月刊誌的な語りはある。しかし、それを理由に軽く見てはいけない

2005年記事には、「ミステリー」「最大の謎」「振り出しに戻った」「一筋の光明」「ルールーコー、見つかる!?」といった月刊誌的な構成がある。

これは一般論ですが、月刊誌の記事は、読者に読ませるために、調査経過を物語として配置することがある。

ただし、それを理由に内容を軽く扱ってはいけない。

今回の劉祥京説の箇所がそうである。

月刊誌的な語りの中に、旧資料ではそこまで明確に見えていなかった、福州市武術協会との約束、態度変化、渡嘉敷会長の判断、義理と信頼、再調査依頼、その後の断絶が書かれている。

つまり、月刊誌的だから軽い、ではない。

月刊誌的な構成の中に、後年になって書けるようになった具体的な調査経過が入っている。

さらに、ルールーコーという音をどう扱うかという、調査方法そのものへの反省も含まれている。

そこを分けて読む必要がある。

おわりに:2005年記事は、調査結果を「現在形」に戻している

2005年9月号『月刊空手道』の記事は、剛泊会のルールーコー調査をただ紹介した記事ではない。

また、過去の資料を短くまとめただけの記事でもない。

この記事は、顕彰碑建立15周年という時点から、ルールーコー調査をもう一度現在形に戻している。

劉祥京説がどのように後退したのか。

調査がどのように福州市武術協会から福建省旅游局、林偉功氏、陳君氏へと移ったのか。

ルールーコーという音を別の漢字名へ無理に当てはめるのではなく、如如という本名と如如哥という呼称として受け取り直したこと。

謝如如が、名前だけでなく、家譜、仕事、住居、道場、墓、位牌、子孫証言によって、現地でたどれる人物として立ち上がったこと。

東恩納寛量の修行期間が、三年説を捨てるのではなく、福州で学んだ期間と帰沖までの全体期間に分けて整理されたこと。

そして、その調査が三戦、転掌、白鶴拳、沖縄伝武備志という技術理解へつながっていくこと。

これらを一つの記事の中に収めている。

だから、この2005年記事を読む時は、「新情報があるか」だけでは足りない。

どの論点で何が具体化されたのか。

何が後年考証として整理されたのか。

何が写真や証言で厚くなったのか。

何が月刊誌的な構成なのか。

何が、名前の探し方そのものを問い直しているのか。

何が技術論へ展開されたのか。

そこを分けて読まないと、この資料の意味は見えてこない。

2005年の記事は、過去の調査を終わった話として閉じていない。

顕彰碑、現地確認、証言、技術解説を通して、ルールーコー調査をもう一度、稽古と交流の現在へ戻している。

  1. 月刊空手道2005年9月号 剛柔流最大の「謎」を解け! ↩︎

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