第39回 資料を読むことと、受け継ぐことールールーコー調査について考えながら

1. ルールーコー調査を、ひとまとめにしない

ルールーコー調査に関する資料を読み進める中で、何度も立ち止まることがあった。

1988年の沖縄タイムスの記事。
1989年の琉球新報「空手物語」。
1999年の最終報告書。
2005年の『月刊空手道』の記事。
そして、2006年の『JKFan』に掲載された渡久地雅昭氏の記事。

それぞれの資料は、同じ問題を扱いながら、見ている場所が少しずつ違っていた。

劉祥京説がどのように退いていったのか。
謝如如/謝崇祥説がどのように立ち上がったのか。
2005年の記事では何が具体化されたのか。
批判する側は、何を疑っているのか。

この問題は、ひとまとめにするとすぐに見えにくくなる。

調査経過なのか。
後年の整理なのか。
証言なのか。
現地確認なのか。
記者による構成なのか。
批判なのか。
自分の立場から出た感情なのか。

それらを分けなければ、ルールーコー調査の重さも、批判の意味も見えにくくなる。

2. 剛泊会のいち生徒として読む、ということ

ただ、この調査について考える時、自分の立場を避けて通ることはできない。

自分は、剛泊会のいち生徒である。

だから、渡嘉敷唯賢会長について書く時、自分にまったくバイアスがないとは言いにくい。

弟子の贔屓目だと言われれば、それを完全に否定することはできない。

そのことは、最初に置いておきたい。

けれど、自分がこの調査を気にかけているのは、単に「自分の会派の先生だから正しい」と言いたいからではない。

むしろ、自分が強く感じているのは、渡嘉敷唯賢会長の調査の仕方である。

資料を探す。
人に会う。
現地へ行く。
古い証言を拾う。
家譜や位牌を確認する。
批判を受けても、調査を止めない。

そういう姿勢そのものに、自分は強く動かされている。

3. 渡嘉敷唯賢会長の調査を軽く扱えない理由

別の著作である『沖縄伝統空手道 那覇手(剛柔流)・泊手(松茂良派)二大流派の血脈を探る』の「はじめに」には、那覇手、泊手の三十六人の武術家を調査した時の苦労が記されている。

往時を知る人たちは、すでに多くが物故していた。

個人情報保護法が施行され、規制も厳しくなっていた。

その中で、一軒一軒の家を訪ね、家譜、系図、位牌などを確認していったという。

記録に残りにくい事情もあった。

簡単に聞ける話ばかりではなかったはずである。

また、男性に対して警戒心を持たれる場面もあったため、相手に安心感を与えるために奥様を同伴して調査した、とも記されている。

この記述を読むと、やはり考え込んでしまう。

これは、机の上で資料を読むだけの調査ではない。

人の家を訪ねる。
話を聞く。
位牌を見る。
家譜を見る。
系図を見る。
警戒されることもある。

それでも、相手に失礼のない形を考えながら、もう一歩踏み込む。

そこまでして、消えかけている系譜を拾いに行っている。

ここまでやるには、ただ知りたいだけでは足りないと思う。

沖縄空手の系譜は、放っておけば消えてしまう。

今聞かなければ、もう聞けない。
今確認しなければ、もう確認できない。
今つながなければ、永久に途絶えてしまう。

そういう危機感がなければ、ここまでの調査はできないのではないかと思う。

4. 家譜、位牌、墓までたどる調査

さらに、東恩納寛量翁の調査については、もっと踏み込んでいる。

死亡年月日を確認するために、親戚筋を巻き込み、墓を開けて厨子甕の蓋まで確認しようとしている。

ここまで来ると、単に「古い話を調べた」という程度ではない。

伝承を確認するために、家譜を見る。
位牌を見る。
親族に聞く。
墓の所在をたどる。
必要なら、墓を開けて厨子甕の蓋まで確認しようとする。

少なくとも自分には、そこまではできない。

伝承として残っている話をまとめるだけなら、そこまで踏み込まなくても文章にはできる。

しかし、渡嘉敷会長は、そこで止まっていない。

死亡年月日を確認する。
親族に確認する。
墓を確認する。
厨子甕の蓋まで見ようとする。

自分がこの調査を軽く扱えないと思うのは、まさにこういうところである。

5. それでも、資料は検証しなければならない

もちろん、だからといって、調査に間違いがないという話ではない。

資料は検証しなければならない。

異論も出る。
批判も出る。
読み違いもあるかもしれない。
後年の資料によって修正されることもある。

それは当然だと思う。

だから、自分もルールーコー調査に関する資料を読む時、できるだけ分けたいと思っている。

調査経過なのか。
後年の整理なのか。
証言なのか。
現地確認なのか。
記者による構成なのか。
推測なのか。
確定的に言えることなのか。

そこを混ぜないようにしたい。

調査の重さを認めることと、検証を不要にすることは違う。

一方で、検証することと、調査した人の労力を軽く見ることも違う。

この二つを混ぜたくない。

6. 批判もまた、分けて読まなければならない

ただ同時に、批判する側の文章についても、同じように見なければならないと思う。

ルールーコー調査に対する異論は、渡久地雅昭氏の記事から始まったわけではない。

自分が現時点で内容を確認できているものとしては、金城昭夫先生による批判がある。

また、2006年の『JKFan』に掲載された渡久地雅昭氏の記事も確認している。

ただし、異論や批判がこの二つだけだった、という意味ではない。

他の方や団体からも、ルールーコー調査や謝如如説に対して批判や疑問が出ていたことは承知している。

ただ、自分が本文の中で具体的に扱えるのは、現時点で私が内容を確認できている金城昭夫先生の批判と、渡久地雅昭氏の記事である。

確認できていない批判まで、内容を推測して書くことはできない。

だから、ここではまず、確認できているものを中心に読む。

金城昭夫先生は、鳴鶴拳・謝如如説に対して、いくつもの疑問を出している。

如如哥という呼称は自然なのか。
謝如如と東恩納寛量翁の年齢差はどう見るのか。
宮城長順先生が福州でルールーコーに会えなかったことをどう考えるのか。
鳴鶴拳と那覇手・剛柔流の型や技術は、本当に同じ系統と見てよいのか。
顕彰碑建立を急ぎすぎていないか。

こうした疑問は、後に渡久地氏の記事でも重なって出てくる。

だから、渡久地氏の記事を読む前に、まず金城先生の異論があったことは押さえておかなければならない。

ただし、ここでも一つ分けておきたい。

金城先生の異論に対しては、渡嘉敷唯賢会長がすでに回答を書いている。

つまり、金城先生の批判は、批判として出されただけでなく、それに対する渡嘉敷会長側の反論も存在する。

そのため、金城先生の異論を読む時は、異論だけを取り出して終わるのではなく、渡嘉敷会長がそれにどう答えたのかも合わせて見なければならない。

一方で、2006年の渡久地氏の記事については、少なくとも自分が読んだ範囲では、渡嘉敷会長が同じ形で項目ごとに回答した文章としては扱えない。

ここは混ぜてはいけない。

金城先生の異論。
それに対する渡嘉敷会長の回答。
その後に出てくる渡久地氏の記事。
そして、内容までは確認できていないが、他にも批判や疑問が存在していたこと。

これらを分けておかないと、批判側の流れも、渡嘉敷会長側の回答も、正確に見えなくなる。

7. 「中国側調査を鵜呑みにするな」という批判の射程

たとえば、渡久地雅昭氏の記事には、「中国側の調査を鵜呑みにするな」という問題意識がある。

その問題意識自体は、分からなくはない。

どんな調査でも、権威ある組織が関わったからといって、自動的に正しいとは限らない。

現地で確認されたと書かれていても、何を確認したのかは分けて見る必要がある。

そういう慎重さは必要だと思う。

しかし、渡久地氏の批判を読んでいると、疑問も残る。

如如哥という呼称を疑うなら、それは鳴鶴拳の老師たちの証言を疑うことになる。

調査先が変わって急に謝如如説へ進んだことを疑うなら、そこで証言した老師たちの記憶や、調査を整理した人たちの判断を疑うことになる。

現地確認やチーシーの扱いを疑うなら、謝品寛氏ら子孫・関係者の案内や証言の意味づけを疑うことになる。

つまり、「中国側の調査を鵜呑みにするな」という言い方は、一見すると慎重な態度に見える。

けれど、そこを突き詰めると、謝如如説を支える証言のかなり中核部分を疑う話になる。

そこまで疑うなら、どの証言を、どの理由で、どこまで疑うのか。

そこを明確にしなければならないと思う。

「中国側調査を鵜呑みにするな」という注意は、たしかに必要である。

しかし、その言葉が、いつの間にか「中国側の証言ネットワーク全体が信用できない」という前提に変わっていないか。

そこは注意して読みたい。

8. 渡嘉敷会長の調査を「中国源流論」にしてよいのか

また、もう一つ引っかかっていることがある。

渡嘉敷唯賢会長の調査は、「空手の源流は中国である」という一般論を証明するためのものだったのだろうか。

自分には、そうは読めない。

東恩納寛量翁の最初の師は、久米のマヤーアラカチこと新垣世璋である。

寛量翁は、まず新垣世璋に師事し、那覇手を学んだ。

ここが土台である。

そのうえで福州へ渡り、ルールーコーから武術的影響を受けた。

だから、渡嘉敷会長が調べようとしていたのは、空手全体の源流ではない。

また、那覇手そのものを鳴鶴拳に置き換える話でもない。

東恩納寛量翁が福州で師事したルールーコーとは誰だったのか。

その人物は謝如如/謝崇祥なのか。

寛量翁は、その人物からどのような影響を受けたのか。

主題はそこにあると思う。

この焦点を外してしまうと、議論が大きくずれる。

「剛柔流は鳴鶴拳そのものではない」

という批判は、確かに一つの論点である。

しかし、それは、

「東恩納寛量翁が謝如如から武術的影響を受けた」

という主張を、そのまま否定するものではない。

まして、

「寛量翁の空手の土台は那覇手であり、最初の師は新垣世璋であった」

という前提を消してよいことにもならない。

ここを分けておかないと、渡嘉敷会長の調査を、必要以上に大きな中国源流論として読み替えてしまう。

そして、その読み替えた主張に反論しているように見えてしまう。

自分がこだわっているのは、まさにその切り分けである。

渡嘉敷会長の説を、ただ信じたいわけではない。

批判を無視したいわけでもない。

しかし、批判するなら、何を批判しているのかをはっきりさせたい。

ルールーコーが謝如如であるという人物比定を疑っているのか。
鳴鶴拳との技術的接点を疑っているのか。
中国側組織の調査姿勢を疑っているのか。
現地老師たちの証言を疑っているのか。
顕彰碑建立の経緯を疑っているのか。
それとも、空手の中国源流論そのものを疑っているのか。

ここを混ぜると、議論は大きく見えるが、焦点はぼやける。

必要なのは、焦点を分けることだと思う。

9. 紙の資料へ戻るために、Webに置く

また、この一連の記事をWeb上に置いておくことにも、自分なりの意味を感じている。

近年は何かを調べる時、まずWeb上の情報が検索されることが多い。

しかし、ルールーコー調査に関する重要な資料は、新聞記事、雑誌記事、報告書、書籍など、紙媒体に残っているものが多い。

紙の資料は、手に取れば重い。

しかし、そこへたどり着く入口がなければ、存在そのものに気づかれにくい。

だから、自分が書いている一連の記事は、結論を急ぐためのものではない。

むしろ、紙媒体に残された資料へたどり着くための、Web上のインデックスのようなものになればよいと思っている。

この記事を読んだ人が、1988年の新聞記事、1989年の琉球新報「空手物語」、最終報告書、2005年の『月刊空手道』、2006年の『JKFan』、そして関連する書籍資料へ進んでくれれば、それだけでも意味がある。

自分の文章は、紙媒体資料の代わりにはならない。

しかし、紙媒体資料へ戻るための入口にはなれるかもしれない。

そこに、この一連の記事をWebに残しておく意味があると考えている。

10. 距離を取ることと、重さを消すことは違う

その作業を通して、あらためて感じることがある。

渡嘉敷唯賢会長の調査は、軽く扱えない。

正しいかどうかを検証する必要はある。

しかし、外から簡単に「検証が足りない」と言う前に、その調査がどれだけの労力を伴っていたのかを考えたい。

一軒一軒を訪ねた人がいる。
家譜や系図や位牌を確認した人がいる。
親戚筋を巻き込み、墓まで開けて死亡年月日を確認しようとした人がいる。
すでに亡くなっていく人たちの記憶を、ぎりぎりのところで拾おうとした人がいる。

自分は、そこにどうしても目が向く。

これは、自分が剛泊会の生徒だからかもしれない。

弟子の贔屓目だと言われれば、それは否定できない。

けれど、それでも思う。

資料を読む時には、距離が必要である。

しかし、距離を取ることと、重さを消すことは違う。

批判的に読むことと、調査した人の労力を軽く見ることも違う。

ルールーコー調査を読む中で、自分はずっとそこを考えていた。

ルールーコー調査は、単なる昔話ではない。

誰が誰に学んだのか。
何が伝わったのか。
どの証言を信じるのか。
どこからが推測なのか。
何を残し、何を疑い、何を次へ渡すのか。

そういう問題が、今の自分にも突きつけられている気がする。

自分はまだ、その答えを持っているわけではない。

ただ、少なくとも言えることがある。

この調査を、簡単に片づけたくない。

渡嘉敷唯賢会長の調査を、弟子の贔屓目だけで正しいと言いたいわけではない。

しかし、軽く否定されるものとして扱いたくもない。

資料を読むことは、距離を取ることでもある。

けれど、距離を取ることは、受け継ごうとした人の重さを消すことではない。

その重さを残したまま、これからもルールーコー調査を読んでいきたい。

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