剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。
ここから読むのは、
「鳴鶴拳・謝如如説への異論」に対する回答
である。
ここは、これまで読んできた記事とは少し性格が違う。
これまでの記事では、調査の流れを読んできた。
東恩納寛量をたどる。
福州へ渡る。
ルールーコーを探す。
劉祥京説が出る。
しかし、劉祥京説には弱さが見える。
その後、謝如如、つまり謝崇祥説へ大きく動く。
琉球新報では、その調査結果を「二人の武人」として再編集し、東恩納寛量とルールーコーを描き直していた。
しかし、ここでは話が変わる。
謝如如説に対して異論が出る。
それに対して、渡嘉敷唯賢会長がどう答えたのか。
ここを見ていく。
まず確認しておきたいのは、渡嘉敷会長が主張している中心は、
謝如如が那覇手全体の祖師である
ということではなく、
東恩納寛量が福州で学んだ師傳ルールーコーは、鳴鶴拳の一代宗師・謝如如、すなわち謝崇祥である
ということだと思う。
ここは分けて読まなければならない。
もちろん、この比定は那覇手や剛柔流の源流を考える上で非常に大きい。
しかし、「東恩納寛量の中国での師傳」と「那覇手全体の祖師」は、証明すべき範囲が違う。
だから、異論を読む時にも、まずこの射程を外さないようにしたい。
回答記事では、謝如如説に対して、福州市武術協会、金城昭夫氏、某氏の三者が異論を唱えたとされている。
そのうち、具体的に多く取り上げられているのは、金城昭夫先生の異論である。
異論の内容は一つではない。
謝如如は東恩納寛量と年齢が近すぎるのではないか。
沖縄側に残る「ルールー」「カーチンカールールー」は、謝如如ではなく東恩納寛量自身を指すのではないか。
鳴鶴拳の三戦と剛柔流の三戦は違うのではないか。
鳴鶴拳と剛柔流では型名が一致しないのではないか。
東恩納の師は「トウルーコウ」ではないか。
新垣世璋の師筋に関わる別人物ではないか。
「如如哥」をルールーコーと読むことに、発音上の無理があるのではないか。
剛柔流には鳴鶴拳だけでなく、多くの拳種の技法が含まれているのではないか。
こうした異論が並んでいる。
これに対して、渡嘉敷会長は、いきなり個別論点だけに入らない。
まず、謝如如説がどのような場で論証され、確認されたのかを置いている。
福建省武術協会の常務委員拡大会議が開かれた。
そこには、省武術協会の主席、副主席、正副秘書長、省武術発掘整理グループの関係者、福州市体育委員会、福州市武術協会、省旅游局、福州市地方志編纂委員会、老拳師、謝崇祥の孫、武術の副教授などが参加していたとされる。
そこで、如如哥はルールーコーであり、東恩納寛量の中国での師である、という点について詳細な検討が行われた。
つまり渡嘉敷会長にとって、謝如如説は、剛泊会だけの思いつきではない。
福州での現地調査。
林偉功氏の調査。
老拳師たちの意見。
福建省側の論証会議。
関係機関による確認。
そうした過程を経たものとして置かれている。
この前提があるため、渡嘉敷会長の回答は、単なる「私はこう思う」という反論ではない。
「どの調査を経て、どの場で確認されたのか」という土台を置いた上で、個別の異論に答えていく形になっている。
一つ目は、福州市武術協会の異論への回答である。
福州市武術協会は、以前に劉祥京説を出した側でもある。
しかし、渡嘉敷会長は、劉祥京説は否定されており、その後も謝如如説に代わる具体的人物を提示できていないと見る。
ここは大事だと思う。
謝如如説に異論を唱えるなら、単に「謝如如ではない」と言うだけでは足りない。
では、誰がルールーコーなのか。
謝如如よりもルールーコーに合致する人物を出せるのか。
渡嘉敷会長は、そこを問うている。
これは、劉祥京説を読んできた時の違和感ともつながる。
劉祥京説では、名前、時代、職業、武術指導などの条件は出てきた。
しかし、家も家譜も場所も拳種も、まだ十分に詰まっていなかった。
それに対して、謝如如説では、如如哥という呼称、鳴鶴拳の一代宗師、三戦、剛柔流の型との照合、琉球人弟子の伝承、住居や生活環境など、かなり多くの条件が重なっていた。
だから、謝如如説を否定するなら、それに代わる具体的人物を提示する必要がある。
渡嘉敷会長の回答は、そこに向いている。
二つ目は、口碑を根拠にした異論への回答である。
金城先生側の異論には、沖縄側に残る口碑をもとにした推論が多く含まれている。
渡嘉敷会長は、口碑そのものを否定しているわけではない。
ただ、その口碑が本当に事実を伝えているのか。
どこまで確認したのか。
他の資料や現地調査と突き合わせたのか。
そこを問題にしている。
剛泊会は、東恩納寛量の縁故者をたどり、家譜を確認し、福州へ何度も渡り、謝家の家譜、写真、位牌、住居跡、武道館跡、墓などを調査してきた。
その上で、謝如如説に至っている。
一方、口碑を使って異論を立てる場合、その口碑の事実性をどこまで確認したのかが問われる。
つまり、渡嘉敷会長の回答は、
口碑があるから正しい
でもなく、
口碑だから無視する
でもない。
口碑を出すなら、それをどう検証したのか。
そこを問うているのだと思う。
三つ目は、年齢の異論への回答である。
金城先生側は、謝如如が東恩納寛量より一歳年長にすぎず、師として若すぎるのではないか、という異論を出している。
これに対して渡嘉敷会長は、年齢だけではなく、謝如如の武歴と名声を見る。
謝如如は8歳から、羅漢拳に長じていた父・謝尊志から武術を学んでいる。
その後、父の拳友である潘嶼八について羅漢拳と白鶴拳を学ぶ。
若くして弟子を持ち、医師や武術教練が学びに来るほどの実力者として描かれている。
だから、25歳前後だから師たりえない、という見方には立たない。
若いことと、未熟であることは同じではない。
謝如如は若かった。
しかし、若くして名声を持っていた。
弟子たちから如如哥と呼ばれたのも、その若さと実力の両方に関係している。
渡嘉敷会長の回答は、年齢の数字だけではなく、その時点での武歴と実力を見るべきだ、というものだと思う。
四つ目は、「如如哥」という呼称への回答である。
金城先生側は、「如如哥」という呼称は不自然ではないか、福州では師に対してそのように呼ばなかったのではないか、という異論を出している。
これに対して、渡嘉敷会長側は、ルールーコーと如如哥の音の対応だけではなく、福州の呼称習慣を重ねている。
福州では、若い男性に対して姓を外し、「××哥」と呼ぶ習慣がある。
東恩納寛量が福州にいたとされる1877年から1880年ごろ、謝如如は25歳から28歳ほどだった。
この年齢で、弟子たちから如如哥と呼ばれることは、福州の習慣として自然である。
さらに、林偉功氏の調査では、劉姓を追うのではなく、鳴鶴拳の源流から調査に入っている。
その結果、鳴鶴拳で当時知られていた人物として謝如如が出てくる。
つまり、如如哥という読みは、単なる語呂合わせではない。
ルールーコーという音。
如如哥という呼称。
福州の呼称習慣。
東恩納寛量の滞在時期。
謝如如の年齢。
鳴鶴拳の源流調査。
それらを合わせた上で、如如哥がルールーコーに合致すると見ている。
五つ目は、三戦に関する異論への回答である。
金城先生側は、鳴鶴拳の三戦と剛柔流の三戦は違うとする。
立ち方が違う。
手の動きが違う。
呼吸法が違う。
東恩納寛量の三戦には呼吸法がなかった。
こうした異論である。
これに対して渡嘉敷会長は、剛柔流の三戦と鳴鶴拳の八歩連の呼吸法には共通性があり、それが源流を考える重要な理由の一つであると見る。
また、東恩納寛量はすでに新垣世璋から三戦を学んでおり、その上で鳴鶴拳の呼吸法を取り入れたものではないか、と整理している。
ここで重要なのが、宇良宗亀さんの証言である。
宇良宗亀さんは、東恩納寛量に師事した人物である。
その宇良さんは、東恩納先生の三戦に呼吸法がないというのはとんでもない話であり、三戦は呼吸法が一番大切である、と語っている。
これは、金城先生側の「東恩納の三戦は無呼吸だった」という見方に対する強い反証として使われている。
つまり、渡嘉敷会長は、三戦の問題を型名だけで見ていない。
呼吸法。
身体の使い方。
直弟子筋の証言。
鳴鶴拳の八歩連との関係。
そこから答えている。
六つ目は、型名称が一致しないという異論への回答である。
金城先生側は、鳴鶴拳と剛柔流の型名称が一致しないことを問題にしている。
これに対して渡嘉敷会長は、現在の剛柔流の型をそのまま東恩納寛量の時代へ戻して比較することに注意を促している。
現在の剛柔流の型には、宮城長順以後に取り入れられたものも含まれている。
だから、現在の剛柔流の型名と鳴鶴拳の型名が一致しないからといって、それだけで東恩納寛量と鳴鶴拳の関係を否定することはできない。
型名の一致だけで源流関係を判断するのは不十分である。
ここでは、東恩納寛量が何を持ち帰り、宮城長順がその後何を整理し、現在の剛柔流がどう形成されたのかを分けて見る必要がある。
七つ目は、三年修行説への回答である。
金城先生側には、東恩納寛量の福州滞在が三年では短すぎる、という異論がある。
これに対して渡嘉敷会長は、三年説を複数の根拠で支えている。
東恩納家の家譜。
子どもの出生年。
寛量の孫にあたる人物の証言。
義村朝義が東恩納の門をくぐった時期。
比嘉佑直先生が知花朝信先生から聞いたという、糸洲安恒先生の話。
そしてもう一つ、佐久田繁氏による記録である。
佐久田繁氏は、1952年、沖縄朝日新聞記者のころに「近世琉球奇譚、空手修業物語」を連載し、その中で、寛量師は支那に三年滞在したのち、密航の山原船で沖縄に帰ったという趣旨のことを書いている。
さらに佐久田氏は、この話を宮城長順先生から取材したと渡嘉敷会長に話している。
つまり、ここでいう新聞記事とは、単なる一般的な新聞記事ではない。
佐久田繁氏が1952年に沖縄朝日新聞記者として書いた連載記事であり、その内容は宮城長順先生への取材に基づくものとされている。
ここでも、三年説は単独の口碑だけではない。
家譜。
子どもの出生年。
縁故者証言。
弟子入り時期。
比嘉佑直先生から知花朝信先生、糸洲安恒先生へつながる他流の証言。
そして、宮城長順先生への取材に基づくとされる佐久田繁氏の連載記事。
これらを組み合わせて、渡嘉敷会長は寛量の福州滞在を三年と見ている。
八つ目は、宮城長順と呉賢貴に関する異論への回答である。
金城先生側には、もし謝崇祥と関係があるなら、それは東恩納寛量ではなく宮城長順ではないか、という見方もある。
宮城長順が呉賢貴と福州へ行き、謝崇祥と接点を持ち、その後に三戦の呼吸法を変えたのではないか、という推論である。
これに対して渡嘉敷会長は、宮城長順と呉賢貴の同行時期そのものを問題にしている。
宮城長順の中国渡航には、1915年の福州行きと、昭和11年の上海行きがある。
呉賢貴が同行したのは、昭和11年の上海行きであると確認している。
つまり、宮城長順が1915年に呉賢貴と同伴で福州へ行ったという前提が違う。
前提が違えば、その上に組み立てた推論も弱くなる。
ここでも渡嘉敷会長は、推論そのものより、まず事実関係を確認している。
九つ目は、公的研究会議がないという異論への回答である。
金城先生側は、沖縄側でこの問題について公的な研究会議が行われていないことを問題にしている。
これに対して渡嘉敷会長は、沖縄の空手界には、そもそもそうした公的研究会議を行う制度がないと答えている。
また、今回の調査は、沖縄空手界や剛柔流全体から委嘱されたものではなく、剛泊会が独自に調査確認してきたものである。
したがって、調査結果を発表するために会議を持つ必要はないと考え、新聞紙上で発表した。
ただし、ここで混同してはいけないことがある。
調査発表と顕彰碑建立は、同じ枠組みではない。
調査は、剛泊会が独自に進めてきたものだった。
しかし、顕彰碑建立については、剛泊会だけで一方的に進めた話としては書かれていない。
資料では、顕彰碑建立委員会の会長は比嘉佑直先生である。
渡嘉敷会長は、その比嘉佑直会長の命を受けて福州を訪問し、福建省武術協会の劉忠路主席と、顕彰碑建立、落成式典、中日武術大会に関する意向書を取り交わしている。
また、顕彰碑建立委員会は、前年11月に究道館本部で会議を開いている。
そこでは、比嘉佑直会長から審議事項の説明と協力依頼があり、東恩納寛量師の調査経過、ルールーコー調査のための五回にわたる福州調査、建立用地、設計費用、施工費用、維持修理などについて協議し、建立に向けて推進することを確認している。
つまり、渡嘉敷会長の回答は、こう分けて読む必要がある。
調査発表については、剛泊会独自の調査結果として行った。
しかし、顕彰碑建立については、比嘉佑直先生を会長とする顕彰碑建立委員会で協議されていた。
ここを混同すると、剛泊会が調査から顕彰碑建立まで一方的に主導したように見えてしまう。
だが、資料上は、少なくとも顕彰碑建立については、顕彰碑建立委員会という別の枠組みがあり、比嘉佑直会長のもとで協議されたものとして書かれている。
この点は、金城先生側の「公的研究会議がない」という異論と関係するが、同時に分けて読む必要もある。
研究発表としての会議。
空手界全体への説明。
顕彰碑建立の協議。
これらは重なっているが、同じではない。
全体として見ると、渡嘉敷唯賢会長の回答は、かなり明確な構造を持っている。
まず、謝如如説は、剛泊会だけの思いつきではなく、福建省側の論証会議と確認文書を経ている。
次に、異論の多くは口碑や推論に依存しているが、その口碑や推論をどこまで調査確認したのかが問われる。
さらに、剛泊会側は、家譜、縁故者証言、現地調査、謝家資料、古老拳術家の見解、宇良宗亀さんの証言など、複数の材料を重ねている。
そして、謝如如説に反対するなら、謝如如に代わる具体的人物を提示できるのか、という問いも出している。
ここが、渡嘉敷会長の回答の芯だと思う。
異論は多い。
年齢。
呼称。
発音。
三戦。
型名。
別師匠説。
修行年数。
宮城長順説。
公的会議の問題。
顕彰碑建立の問題。
それぞれに論点はある。
しかし、渡嘉敷会長は、それらを一つ一つ受け止めながら、最終的にはこういう構図に戻している。
東恩納寛量の中国での師傳ルールーコーとして、謝如如以上に合致する人物を提示できているのか。
剛泊会は、その人物を探すために、沖縄側の縁故者調査と福州側の現地調査を重ねた。
福建省側でも論証会議が開かれた。
鳴鶴拳側の古老拳術家たちの見解もある。
東恩納寛量の直弟子筋の証言もある。
その上で、謝如如、つまり謝崇祥が、東恩納寛量の師傳ルールーコーであると考えた。
この回答記事は、単に異論を退ける記事ではない。
謝如如説が異論に晒された時、渡嘉敷唯賢会長が何を根拠にその説を維持したのか。
それを示す記事である。
そして同時に、空手史をめぐる議論では、口碑、技術比較、現地調査、家譜、証言、組織的確認をどう扱うのかが問われることも分かる。
ここから先は、誰が正しいかを急ぐよりも、まず論点を混ぜないことが大事だと思う。
東恩納寛量の師傳は誰だったのか。
鳴鶴拳と那覇手・剛柔流はどう関係するのか。
三戦をどう見るのか。
口碑をどう検証するのか。
調査発表にはどのような手続きが必要なのか。
顕彰碑建立にはどのような合意が必要なのか。
これらは重なっているが、同じ問題ではない。
渡嘉敷会長の回答記事は、その複数の論点が一気に噴き出した場面として読むことができる。

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