はじめに:型が一番重要だと思う。ただし、型だけで閉じる話ではない
最近、あらためて型が一番重要なのだと思うようになっている。
もちろん、自分に型ができているという話ではない。
むしろ、まだまだできていないことばかりだと思う。
ただ、稽古をしていると、
分解稽古も、変手の研究も、
型から離れて成立するものではないのではないかと感じることがある。
型稽古があるから、分解稽古が成り立つ。
一人で型通りに身体を通しているから、
相手を置いた分解稽古でも、
型通りに動くことを求められる。
そして、分解稽古をやることで、
型稽古へ戻った時の見え方も少し変わる。
手の軌道。
足の位置。
身体の流れ。
次の動作へのつながり。
そういうものが、
前より少し違って感じられることがある。
だからといって、
型稽古の中に分解稽古をそのまま持ち込めばよい、
という話ではない。
型稽古は、型として行う。
分解稽古は、相手がいる状態で型通りに行う。
この二つは混ぜてはいけない。
けれど、切り離されてもいない。
型稽古で作ったものが、分解稽古に出る。
分解稽古で感じたものが、型稽古へ戻った時の見え方を変える。
その往復の中で、型が少しずつ深まっていくのだと思う。
だから今の自分には、
やはり型が一番重要なのだと思えている。
意識して動く。意識しなくても動ける。それだけでは足りない
最初は、意識して動くしかない。
肩を下げる。
脇を締める。
肘を下げる。
足を置く。
腰を使う。
重心を保つ。
一つ一つ意識しながら動く。
意識しなければ、身体はすぐにいつもの癖へ戻る。
肩は上がる。
肘は浮く。
腰は抜ける。
足裏も抜ける。
だから、最初は意識して動くしかない。
ただ、稽古を続けていると、
少しずつ、意識しなくても動ける部分が出てくる。
毎回考えなくても、手が出る。
毎回確認しなくても、足が置かれる。
少しずつ、身体が勝手に動いてくれる部分が出てくる。
それは大事なことだと思う。
けれど最近、
「意識して動く」
「意識しなくても動ける」
という二段階だけでは、まだ足りない気がしている。
意識しなくても身体が動くようになった時、
意識がなくなるわけではない。
身体の細かい操作に取られていた意識が、
少しずつ外へ向かい始める。
相手との距離。
圧。
角度。
接触。
身体の流れ。
次の動作へのつながり。
そういうものが、少しずつ意識に入ってくる。
ただし、ここで急いで分解稽古や応用の話へ行きたいわけではない。
まずは、
意識して身体を動かす段階があり、
意識しなくても身体が動く段階があり、
その先で、意識が身体の内側だけではなく、
外との関係へ向かい始めるのではないか。
今は、そのくらいの感覚で捉えている。
ただし、型稽古で相手を意識するという話ではない
ただし、ここで誤解してはいけないことがある。
意識が身体の内側だけでなく、
相手との距離や圧や流れの方へ向かい始める。
そう書くと、
型稽古の時にも相手を意識して動いた方がよい、
という話に見えるかもしれない。
でも、自分が書きたいのはそこではない。
むしろ、自分の感覚では逆である。
型稽古の時に、
この手は相手のここに当たる、
この動きは分解ではこう使う、
この足の位置は相手をこう制限する、
などと考えすぎると、型が崩れる。
意識が説明に引っ張られる。
動きが分解の形に寄ってしまう。
身体の流れが変わってしまう。
相手を意識しているようで、
実際には、頭の中の説明に身体を合わせにいってしまう。
それでは型稽古ではなくなる。
型稽古は、型として行う。
相手を想像して型を変えない。
分解稽古の意味を当てはめて、動きを調整しない。
この動きはこう使うはずだ、と考えながら形を作らない。
型は型通りに行う。
もちろん、型の中に相手との関係がない、
と言いたいわけではない。
ただ、それは型稽古の最中に、
頭で相手を想像しながら動くことで掴むものではないのだと思う。
型稽古は型として行う。
分解稽古は、相手がいる状態で型通りに行う。
この二つを混ぜてしまうと、
型稽古も分解稽古も、どちらも曖昧になる。
だからまず、
型稽古で相手を意識するという話ではない、
ということは、はっきり分けておきたい。
型稽古と分解稽古は、混ぜてはいけない
型稽古と分解稽古は、混ぜてはいけないのだと思う。
型稽古は、型として行う。
相手を想像して型を変えない。
分解稽古の意味を当てはめて、動きを調整しない。
この動きはこう使うのだろう、と考えて、身体の通り方を変えない。
型は型通りに行う。
一方で、分解稽古では相手が入る。
相手が前にいる。
距離がある。
角度がある。
接触がある。
圧がある。
相手の身体の反応がある。
それでも、型を変えるのではない。
相手がいるから少し手を変える。
距離が合わないから少し足を変える。
やりにくいから角度を変える。
うまく嵌まらないから、動きを自分の都合に合わせる。
そうしてしまうと、分解稽古ではなくなる。
分解稽古でも、型通りに行う。
相手がいても型通り。
相手がいるからこそ型通り。
ここを混ぜてしまうと、稽古の意味がずれてしまう気がしている。
型稽古に分解稽古を持ち込むと、型が崩れる。
分解稽古で型を崩すと、分解稽古ではなくなる。
型稽古は、型として行う。
分解稽古は、相手がいる状態で型通りに行う。
この二つは近い。
けれど、同じではない。
まずは、そこを混ぜないことが大事なのだと思う。
でも、型稽古と分解稽古は切り離されてもいない
ただし、型稽古と分解稽古は、
混ぜてはいけないからといって、
切り離されているわけではない。
むしろ、強く影響し合っているのだと思う。
型稽古では、型通りに身体を通す。
手の軌道。
足の位置。
腰の使い方。
重心の移動。
次の動作へのつながり。
それらを、相手を想像して変えるのではなく、
型として稽古する。
その身体で、分解稽古を行う。
分解稽古では、相手が入る。
型通りに出した手が、
相手のどこに向かうのか。
型通りに置いた足が、
相手の動きをどう制限するのか。
型通りに身体を運ぶことで、
どこで相手と繋がり、
どこから次の動作へ流れていくのか。
それを、相手がいる状態で確認する。
ここで大事なのは、
分解稽古で型を変えるのではない、ということだと思う。
型通りにやるから、
型の中にあるものが見えてくる。
そして、分解稽古でそれを感じたあと、
また型稽古へ戻る。
すると、同じ型をやっているはずなのに、
見え方が少し変わっていることがある。
手の軌道が、前より少しはっきりする。
足の位置の意味が、前より少し重くなる。
引き手の感覚が変わる。
次の動作への流れが、少しつながって感じられる。
もちろん、だからといって、
型稽古の中で分解稽古を意識して動くわけではない。
型稽古は、あくまで型として行う。
ただ、分解稽古を通った後では、
型へ戻った時に、身体の中で受け取るものが少し変わっている。
型稽古で作ったものが、分解稽古に出る。
分解稽古で感じたものが、型稽古へ戻った時に響く。
だから、型稽古と分解稽古は別々に孤立しているわけではない。
混ぜない。
でも、往復する。
その往復の中で、型の見え方が少しずつ変わっていくのだと思う。
分解稽古は、相手がいる状態で型通りに行う稽古である
分解稽古は、型を崩して応用する稽古ではないと思う。
少なくとも今、自分が教わっている分解稽古では、
先生から「型通り」と言われる。
相手がいるから少し変える。
距離が合わないから少し変える。
やりにくいから少し変える。
力が入りにくいから少し角度を変える。
うまく嵌まらないから、自分のやりやすい形に寄せる。
そうではない。
相手がいても型通り。
相手がいるからこそ型通り。
型通りに手を出す。
型通りに足を置く。
型通りに角度を取る。
型通りに引く。
型通りに次へ進む。
それを、相手がいる状態で行う。
ここで難しいのは、
相手が入った瞬間に、こちらの都合が出てしまうことだと思う。
距離が近い。
圧がある。
接触がある。
相手の身体が動く。
こちらの思った通りにはならない。
すると、つい型を変えたくなる。
けれど、そこで変えてしまうと、
分解稽古ではなくなってしまう。
分解稽古は、
相手に合わせて型を崩す稽古ではない。
相手がいる状態でも、
型通りに行う稽古である。
型通りにできないなら、
まず見るべきなのは、
型そのものを変えることではなく、
自分が本当に型通りに動けているかどうかなのだと思う。
手の出し方。
足の置き方。
身体の向き。
引き手。
重心。
次の動作へのつながり。
そこにズレがあるから、
嵌まらないのかもしれない。
だから分解稽古では、
「型の芯を保ちながら多少変える」
というところへ逃がさない方がよい気がしている。
ここではもっと強く、
型通り。
相手がいても型通り。
その型通りを、相手がいる状態で通せるかどうか。
そこに、分解稽古の意味があるのだと思う。
型通りにやると、分解稽古はちゃんと嵌まるように出来ている
型通りに分解稽古を行うと、
ちゃんと嵌まるように出来ている。
最近、そこがかなり大事なのではないかと思っている。
分解稽古は、
相手がいるから型を変える稽古ではない。
型通りにやる。
型通りに手を出す。
型通りに足を置く。
型通りに角度を取る。
型通りに引く。
型通りに次へ進む。
そうすると、手は相手の急所へ向かう。
足の位置や角度は、相手の動きを制限する。
引き手は相手の身体を崩す。
次の動作は、その前の動作から自然につながる。
もちろん、自分がそれを十分にできているという話ではない。
むしろ、できていないからこそ、
型通りにやることの難しさが見えてくる。
分解稽古をしていて嵌まらない時がある。
その時に、
相手がいるから仕方ない、
実際にはこの方がやりやすい、
この角度に変えた方が入る、
と考えてしまうことがある。
けれど、そこで型を変えてしまうと、
分解稽古ではなくなってしまう。
嵌まらない時に、すぐ型を変えるのではない。
まず、自分が型通りにできているかを見る。
手の軌道が違う。
足の位置が違う。
角度が違う。
距離が違う。
引き手が違う。
重心が抜けている。
身体の流れが切れている。
次の動作へのつながりが切れている。
そういうズレがあるから、
型通りにやっているつもりでも、
実際には型通りになっていないのかもしれない。
分解稽古は、実戦でそのまま使えるかどうかを試す場ではないと思う。
あくまで稽古である。
プラクティスである。
型通りに動いた時、
その動きが相手のどこに向かい、
何を制限し、
どこで崩し、
どう次へつながるのかを確認する稽古なのだと思う。
だから、型通りにやることは形式ではない。
型通りにやることで、
初めて分解稽古として嵌まる。
逆に言えば、
嵌まらないからといって型を変えてしまうと、
そこで確認したかったものが見えなくなる。
型通りにやる。
それでも嵌まらないなら、
型を変える前に、
自分の型通りが本当に型通りなのかを見る。
分解稽古では、
その順番が大事なのだと思う。
分解稽古で見えるのは、急所だけではない
分解稽古で見えるのは、
相手の急所だけではない。
もちろん、型通りにやることで、
手が相手の急所へ向かうことはある。
この手は、ここに向かっていたのか。
この角度だから、ここに入るのか。
この足の位置だから、相手は動きにくくなるのか。
そういうことが、相手を置くことで見えてくる。
けれど、分解稽古で見えるものは、
それだけではないと思う。
相手との繋がりも見えてくる。
型通りに手を出した時、
相手のどこに触れるのか。
型通りに足を置いた時、
相手の動きがどこで止まるのか。
型通りに引いた時、
相手の身体がどう崩れるのか。
型通りに重心を移した時、
次の動作へどう流れていくのか。
一人で型を行っている時には、
それは自分の身体の中の流れとしてしか感じられない。
けれど、分解稽古では相手がいる。
相手がいることで、
自分の動きが相手の身体にどうつながるのかが見えてくる。
どこで接触するのか。
どこで相手の動きが止まるのか。
どこで崩れるのか。
どこから次へ流れるのか。
それが、相手を置いて型通りに行うことで確認できる。
ただし、この繋がりや流れは、
型稽古中に頭で想像するものではないと思う。
型稽古の時に、
この手は相手のここに当たる、
この引き手で相手をこう崩す、
この足で相手をこう止める、
などと考えながら動くと、
型が説明に引っ張られてしまう。
それでは型稽古が崩れる。
型稽古は、型として行う。
相手との繋がりや身体の流れは、
分解稽古で、相手を置いて型通りに行うことで確認する。
そこで感じたものを持って、
また型へ戻る。
その時、型の見え方が少し変わる。
けれど、それは型稽古の中に分解稽古を持ち込むことではない。
分解稽古で確認した繋がりや流れが、
型へ戻った時に、身体の中で響いてくる。
その往復が大事なのだと思う。
分解稽古は、
急所に当たるかどうかだけを見る稽古ではない。
型通りに動いた時、
相手とどこで繋がり、
その繋がりがどう崩れや制限を生み、
次の動作へどう流れていくのかを確認する稽古なのだと思う。
分解稽古をやると、型へ戻った時の見え方が変わる
分解稽古をやると、
型へ戻った時の見え方が変わる。
ここが、型稽古と分解稽古の関係で、
今いちばん大事に感じているところかもしれない。
ただし、それは、
型稽古中に分解稽古を意識するということではない。
型稽古の時に、
この手は相手のここに当たる、
この足は相手をこう止める、
この引き手で相手をこう崩す、
などと考えながら動くわけではない。
それをやると、型が説明に引っ張られる。
身体の流れが変わる。
型そのものが崩れる。
そうではなく、
まず分解稽古を行う。
相手を置いて、
型通りに動く。
そこで、
型通りの手が相手の急所へ向かう感覚を知る。
型通りの足の位置が、相手の動きを制限する感覚を知る。
型通りの引き手が、相手の身体を崩す感覚を知る。
型通りの重心移動が、次の動作へつながる感覚を知る。
相手との繋がりを感じる。
身体の流れが、相手の身体を通して次へ進んでいく感覚を感じる。
その後で、また型へ戻る。
すると、同じ型通りに動いているはずなのに、
型の見え方が少し変わっていることがある。
足の置き方の意味が変わる。
手の軌道の重さが変わる。
引き手の感じ方が変わる。
重心移動の流れが変わる。
次の動作へのつながりが、前より少し見えるようになる。
型そのものを変えるのではない。
分解稽古で得たものを、
型の中に直接持ち込んで、
動きを調整するのでもない。
分解稽古を型に持ち込むのではない。
分解稽古を通ってから、型へ戻る。
その時、
型の要求が前より少し見えるようになる。
この手は、ただここを通るのではない。
この足は、ただここに置くのではない。
この引き手は、ただ引いているのではない。
この重心移動は、ただ次の形へ移るためのものではない。
そういうことが、
頭の説明としてではなく、
身体の中の感覚として少し変わってくる。
だから、型稽古と分解稽古は混ぜてはいけない。
でも、切り離してもいけない。
型稽古で作ったものが、分解稽古に出る。
分解稽古で感じたものが、型へ戻った時に響く。
その往復の中で、
型の見え方が少しずつ変わっていくのだと思う。
型稽古もまた、分解稽古を変える
逆もある。
分解稽古をやることで、
型へ戻った時の見え方は変わる。
けれど、それだけではない。
型稽古もまた、分解稽古を変える。
型稽古が甘いと、分解稽古は嵌まらない。
型通りに手が出ていない。
足の位置が違う。
身体の向きが違う。
引き手が効いていない。
重心が抜けている。
身体の流れが切れている。
次の動作へつながっていない。
そういう状態で分解稽古をやっても、
うまく嵌まらない。
その時、
相手がいるから難しい、
実際にはこの動きでは無理がある、
少し変えた方がやりやすい、
と思ってしまうことがある。
けれど、本当にそうなのか。
相手がいるから難しいのではなく、
自分が型通りに動けていないことが、
相手を置いたことで露出しているだけかもしれない。
一人で型をやっている時には、
多少のズレをごまかせる。
手の軌道が少し違っていても、
足の位置が少し甘くても、
引き手が効いていなくても、
身体の流れが切れていても、
一人で動いている限りは、形としては通ってしまう。
でも、分解稽古では相手がいる。
相手がいると、
そのズレがごまかせなくなる。
手の軌道が違えば、急所に向かわない。
足の位置が違えば、相手の動きが制限されない。
引き手が効いていなければ、相手の身体が崩れない。
身体の流れが切れていれば、次の動作へつながらない。
つまり、分解稽古は、
型稽古で作ったものがそのまま出る。
型稽古が甘ければ、分解稽古も甘くなる。
型通りに動けていなければ、相手を置いた時に嵌まらない。
だから、分解稽古だけをやれば型が分かる、
という話ではないのだと思う。
型稽古で型通りに身体を通しているから、
分解稽古で型通りに嵌まる。
そして、分解稽古で嵌まらなかったところを持って、
また型へ戻る。
手の軌道を見直す。
足の位置を見直す。
引き手を見直す。
重心移動を見直す。
次の動作へのつながりを見直す。
型稽古で作ったものが、分解稽古に出る。
分解稽古で見えたものが、型稽古へ戻った時に響く。
だから、型稽古と分解稽古は影響を与え合う。
混ぜてはいけない。
けれど、切り離されてもいない。
型稽古が分解稽古を支え、
分解稽古が型稽古へ問いを返す。
その往復の中で、
型の見え方も、
分解稽古の嵌まり方も、
少しずつ変わっていくのだと思う。
その往復なしに、変手には進めない
その往復なしに、変手には進めないのだと思う。
変手は、型を自由に崩すことではない。
型通りに行った時に生まれる、
急所、
制限、
繋がり、
身体の流れ。
それを失わずに、
条件に応じて形を変えていく研究なのだと思う。
だから、変手は型から離れることではない。
むしろ、型通りに行った時に何が起きているのかを、
分解稽古の中で感じていなければ、
変えた時に何を残すべきなのか分からない。
どこに当たっているのか。
何を制限しているのか。
どこで相手と繋がっているのか。
どこから次の動作へ流れているのか。
それが分からないまま形だけを変えてしまうと、
それは変手ではなく、
ただの別の動きになってしまう。
そのためには、
まず型稽古と分解稽古の往復が必要になる。
型稽古で、型通りに身体を通す。
分解稽古で、
相手がいても型通りに行う。
そこで、
急所に当たる感覚、
相手の動きを制限する感覚、
相手と繋がる感覚、
身体の流れが次へつながる感覚を感じる。
そして、また型へ戻る。
型へ戻ると、
同じ型通りに動いているはずなのに、
手の軌道や足の位置や引き手や重心移動の見え方が少し変わる。
それを持って、また分解稽古へ戻る。
すると、前より少し、
型通りに嵌まる感覚が変わる。
この往復がないまま、
いきなり形だけを変えてしまうと、
型から展開しているのか、
型を失っているのかが分からなくなる。
もちろん、変手そのものを否定したいわけではない。
むしろ、変手まで進むためにこそ、
型稽古と分解稽古の往復が必要なのだと思う。
型稽古で作ったものを、
分解稽古で相手の中に通す。
分解稽古で感じたものを、
また型稽古へ戻して受け取り直す。
その往復の中で、
急所、制限、繋がり、身体の流れが少しずつ見えてくる。
その流れを感じられて初めて、
条件が変わった時に、
どこを変えてよくて、
どこを失ってはいけないのかが見えてくるのだと思う。
だから、変手は単なる応用ではない。
型稽古と分解稽古の往復を通って、
型通りに生まれる流れを掴んだ先にある研究なのだと思う。
だから、型が一番重要になる
だから、自分の中ではやはり型が一番重要になる。
型通りに動けなければ、
分解稽古は嵌まらない。
分解稽古が嵌まらなければ、
相手との繋がりや身体の流れは見えない。
相手との繋がりや身体の流れが見えなければ、
変手に進んでも、
それが型から展開しているのか、
ただ別の動きをしているのか分からない。
だから、型が一番重要なのだと思う。
ただし、それは、
型だけをやっていればよい、
という意味ではない。
型だけで閉じてしまうと、
相手が入った時に何が起きるのかが見えにくい。
一人で型を行っている時には、
手の軌道も、
足の位置も、
引き手も、
重心移動も、
次の動作へのつながりも、
自分の身体の中だけで感じることになる。
そこに相手が入ることで、
型通りの動きが、
相手のどこに向かい、
何を制限し、
どこで繋がり、
どう次へ流れていくのかが見えてくる。
だから、分解稽古がいる。
型へ戻るために、分解稽古がいる。
分解稽古で見えたものを持って、
また型へ戻る。
すると、同じ型を行っているはずなのに、
型の見え方が少し変わる。
手の軌道の意味が変わる。
足の位置の重さが変わる。
引き手の感じ方が変わる。
重心移動の流れが変わる。
次の動作へのつながりが、前より少し見えるようになる。
ただし、それは型稽古の中に分解稽古を持ち込むことではない。
型稽古は型として行う。
分解稽古は、相手がいる状態で型通りに行う。
混ぜない。
でも、切り離さない。
型稽古で作ったものが、分解稽古に出る。
分解稽古で見えたものが、型稽古へ戻った時に響く。
その往復があるから、
型が少しずつ深まっていくのだと思う。
型は最初に習うから大事なのではない。
分解稽古をしても、
変手を考えても、
最後まで戻る基準になるから大事なのだと思う。
だからやはり、
自分にとって一番重要なのは型なのだと思う。
おわりに:混ぜない。切り離さない。往復する。
型稽古と分解稽古は、混ぜてはいけないのだと思う。
型稽古では、
相手や分解稽古を意識しすぎない。
この手は相手のここに当たる。
この足は相手をこう止める。
この引き手で相手をこう崩す。
そう考えながら動くと、
型が説明に引っ張られてしまう。
型稽古は、型として行う。
一方で、分解稽古では相手が入る。
ただし、相手がいるから型を崩すのではない。
相手がいる状態でも、型通りに行う。
相手がいても型通り。
相手がいるからこそ型通り。
型を崩して応用するのではない。
けれど、型稽古と分解稽古は、
切り離されているわけでもない。
型稽古で作ったものが、分解稽古に現れる。
手の軌道。
足の位置。
引き手。
重心移動。
身体の流れ。
次の動作へのつながり。
それらが甘ければ、
分解稽古でも嵌まらない。
逆に、分解稽古で感じたものも、
型へ戻った時に響いてくる。
急所に向かう感覚。
相手の動きを制限する感覚。
相手と繋がる感覚。
身体の流れが次へつながる感覚。
それらを通った後で型へ戻ると、
同じ型をやっているはずなのに、
見え方が少し変わることがある。
ただし、それは型稽古の中に分解稽古を持ち込むことではない。
分解稽古を型に混ぜるのではない。
分解稽古を通ってから、また型へ戻る。
型稽古で作ったものが、分解稽古に出る。
分解稽古で感じたものが、型稽古へ戻った時に響く。
混ぜない。
切り離さない。
往復する。
その往復の中で、
型が少しずつ深まっていくのだと思う。
だからやはり、
自分にとって一番重要なのは型なのだと思う。
型は、分解稽古へ行くための入口ではない。
分解稽古から何度も戻ってくる場所なのだと思う。

コメント
## 補記:AIに近い研究がないか調べてもらった
今回の文章について、AIに近い研究がないか調べてもらった。
ただし、ここで挙げる研究は、沖縄空手の型稽古や分解稽古を直接説明するものではない。
あくまで、本文で書いた「型稽古と分解稽古は混ぜない。けれど切り離さず、往復する」という感覚に近い研究枠を探したものである。
本文では、型稽古で作ったものが分解稽古に出て、分解稽古で感じたものが型稽古へ戻った時に響く、という往復を中心に置いている。
—
### 研究名:スキーマ理論
### 研究者:リチャード・A・シュミット
運動学習の分野では、リチャード・A・シュミットの「スキーマ理論」が知られている。
スキーマ理論では、運動技能を一回ごとの個別の動きとしてだけでなく、経験を通して一般化された運動の枠組みとして捉える。
### 本文との共通点
本文でも、型を単なる手順の反復として見ていない。
型稽古で型通りに身体を通す。
その身体で分解稽古を行う。
分解稽古で急所、制限、繋がり、身体の流れを感じる。
そしてまた型へ戻る。
この往復の中で、同じ型を行っていても、
手の軌道、
足の位置、
引き手、
重心移動、
次の動作へのつながりの見え方が少しずつ変わっていく。
この点は、経験を通して運動の枠組みが更新されるというスキーマ理論と重なる部分がある。
### 本文との差分
ただし、本文は「変化のある練習を増やせばよい」という話ではない。
スキーマ理論では、変化のある練習や経験の幅が論点になりやすい。
一方、本文で書いている分解稽古は、型を変化させる練習ではない。
相手がいても型通りに行う稽古である。
だから本文に近いのは、
「経験を通して型の見え方が変わる」という部分であって、
「型を変えて練習する」という部分ではない。
—
### 研究名:文脈干渉効果
### 研究者:ジョン・B・シェイ、ロビン・L・モーガン
もう一つ近い研究に、シェイとモーガンの「文脈干渉効果」がある。
文脈干渉効果は、練習中には難しく見える条件が、長期的な保持や転移に影響することがある、という運動学習の研究である。
### 本文との共通点
本文では、型稽古だけで閉じない。
一人で型を行っている時には、多少のズレをごまかせる。
しかし、分解稽古で相手が入ると、
手の軌道、
足の位置、
引き手、
重心移動、
身体の流れのズレが露出する。
型稽古で作ったものが分解稽古に出る。
分解稽古で見えたものが型稽古へ戻った時に響く。
この構造は、同じ練習条件だけに閉じず、違う条件を通ることで学習の見え方が変わるという点で、文脈干渉効果と接点がある。
### 本文との差分
ただし、本文は「練習をランダムに混ぜるとよい」という話ではない。
文脈干渉効果は、練習課題の順序や条件の混ざり方を問題にする研究である。
一方、本文では、型稽古と分解稽古を混ぜることはむしろ否定している。
型稽古に分解稽古を持ち込むと、型が崩れる。
分解稽古で型を崩すと、分解稽古ではなくなる。
つまり本文で大事なのは、混ぜることではなく、往復することである。
—
### 研究名:エコロジカル・ダイナミクス
### 研究者:キース・デイヴィッズ、ドゥアルテ・アラウージョら
エコロジカル・ダイナミクスも、今回の文章に近い部分がある。
これは、運動を身体の内側だけでなく、環境や相手との関係の中で捉える考え方である。
### 本文との共通点
本文でも、型稽古を自分の身体の中だけで完結するものとしては見ていない。
型稽古では、型通りに身体を通す。
その身体で分解稽古を行う。
分解稽古では相手が入る。
型通りに出した手が相手のどこに向かうのか。
型通りに置いた足が相手の動きをどう制限するのか。
型通りに身体を運ぶことで、どこで相手と繋がり、どこから次へ流れるのかを見る。
この点は、身体と環境、あるいは相手との関係の中で運動を捉えるエコロジカル・ダイナミクスと近い。
### 本文との差分
ただし、本文では「相手や環境に応じて自由に動きを変える」ことを分解稽古とは呼んでいない。
相手がいても型通り。
相手がいるからこそ型通り。
本文では、相手が入った時に型を崩すのではなく、相手がいる状態でも型通りに行うことを重視している。
ここが、エコロジカル・ダイナミクスの一般的な応用イメージとは違う。
本文での分解稽古は、自由な適応ではなく、型通りに行うことで相手との関係を確認する稽古である。
—
### 研究名:代表性学習デザイン
### 研究者:ロス・A・ピンダー、キース・デイヴィッズ、イアン・レンショー、ドゥアルテ・アラウージョ
代表性学習デザインも関係がある。
これは、練習環境が実際のパフォーマンス環境に関係する情報をどのように保つかを問題にする研究である。
### 本文との共通点
本文では、分解稽古を、型稽古だけでは見えにくい相手との関係を確認する場として見ている。
型稽古だけでは、自分の身体の中の流れとしてしか感じられない。
しかし、分解稽古で相手を置くことで、
急所、
制限、
繋がり、
身体の流れが見える。
この意味では、分解稽古には、相手がいることでしか現れない情報が含まれている。
その点は、練習環境の中に実際の行為と関係する情報を残す代表性学習デザインと近い。
### 本文との差分
ただし、本文では、分解稽古を「実戦環境に近づける練習」とは書いていない。
分解稽古は、実戦でそのまま使えるかどうかを試す場ではない。
あくまで稽古であり、プラクティスである。
型通りに動いた時、その動きが相手のどこに向かい、何を制限し、どこで崩し、どう次へつながるのかを確認する稽古として書いている。
代表性学習デザインと重なるのは、相手や環境との関係を練習の中に置く点である。
しかし本文では、そのために型を崩すのではない。
むしろ、型通りに行うことによって、その関係が見えてくるとしている。
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### まとめ
今回の文章は、運動学習の研究と部分的に重なるところがある。
スキーマ理論とは、経験を通して運動の見え方が変わる点で近い。
文脈干渉効果とは、違う稽古条件を通ることで見え方が変わる点で近い。
エコロジカル・ダイナミクスとは、身体だけでなく相手との関係の中で動きを見る点で近い。
代表性学習デザインとは、相手がいることでしか現れない情報を稽古の中に置く点で近い。
ただし、本文の芯はそこに回収されない。
本文で書いたのは、型稽古と分解稽古を混ぜることではない。
型を自由に変化させることでもない。
実戦に近づけるために型を崩すことでもない。
型稽古は、型として行う。
分解稽古は、相手がいる状態で型通りに行う。
混ぜない。
切り離さない。
往復する。
その往復の中で、型稽古で作ったものが分解稽古に現れ、分解稽古で感じたものが型へ戻った時に響く。
だから本文でいう「型が一番重要」とは、型だけで閉じるという意味ではない。
型は、分解稽古へ行くための入口ではない。
分解稽古から何度も戻ってくる場所なのだと思う。