剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。
今回読んだのは、沖縄タイムスに掲載された、
「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー」
の(2)から(5)である。1
ここでは、東恩納寛量の生い立ち、少年期、福州行き、帰国後の指導、そして晩年の弟子の証言までが扱われている。
寛量は、那覇西村に生まれ、山原船を持つ家の仕事を手伝いながら育った。
時代は、琉球が日本と中国のあいだで揺れていた時期である。
明治政府による琉球処分へ向かう中で、琉球内部にも親日派、親中派、穏和派、頑固党といった対立があった。
そのような時代に、寛量は久米のマヤーアラカチこと新垣世璋に師事する。
新垣は大武士として知られ、寛量はそのもとで那覇手の厳しい稽古を受けた。
その後、寛量は福州へ渡る。
この福州行きも、単なる武術修行としてだけ描かれていない。
義村御殿から琉球館宛の紹介状を受けたこと。
琉球処分に反対し、琉球王国の存続を清国政府に請願するために福州へ向かったという証言があること。
そこには、武術修行だけではなく、当時の琉球の政治状況も重なっている。
福州では、ルールーコーに師事し、唐手を学ぶ。
帰国した時には、琉球王国はすでに沖縄県になっていた。
寛量は、帰国後すぐに福州で学んだ唐手を語ったわけではない。
家業に戻り、海運業に従事する。
しかし、福州を往来する商人たちの間から「唐手東恩納」の名が広まり、若者たちが教えを求めるようになる。
そこから、義村朝義、許田重発、宮城長順らへと、那覇手の流れがつながっていく。
さらに(5)では、宇良宗亀さんの証言を通して、寛量のサンチン稽古の厳しさが語られている。
背後から肩をたたき締められ、肩や腕がしびれるほどだったという。
眼光は鋭く、まともに顔を見ることもできなかったとされる。
ただ、ここで重要なのは、厳しい稽古だけではない。
寛量は、ルールーコーの教えとして、
「武は攻めるものではなく、身を護るもの」
という趣旨を門弟に説いていた。
つまり、サンチンの厳しさと、武をむやみに使わない教えが一緒に置かれている。
ここまで読むと、東恩納寛量は、単に「中国で唐手を習ってきた人」として描かれているわけではない。
琉球の動乱期に育ち、
新垣世璋に師事し、
福州へ渡り、
帰国後に若者たちへ教え、
サンチンの厳しさと武の教訓を残した人物として描かれている。
ただ、自分が特に大事だと思ったのは、その人物像を支える調査の深さである。
渡嘉敷唯賢先生は、東恩納寛量を遠くから歴史上の人物として調べているだけではない。
東恩納家の縁故者を探し、家譜を調べ、親戚筋の方々に会っている。
そして、寛量翁の位牌の件にまで踏み込んでいる。
寛量翁の位牌は、戦中に壕の中で失われ、戦後も仕立てられていなかったという。
そのため渡嘉敷先生は、東恩納系統の方々に呼びかけ、位牌について協議している。
さらに、死亡年月日を確認するためには墓を開け、厨子甕の蓋を調べる必要があるという話にもなっている。
墓を開けるには本家の許可が必要であり、関係者で本家筋の方を訪ねている。
墓の移転についても、東恩納家の縁故者から話を聞き、関係者とともに確認している。
ここまで来ると、これは単なる武術史の調査ではない。
東恩納寛量という人物を、家系、位牌、墓、縁故者の記憶まで含めて掘り起こそうとする作業である。
これは一般論ですが、武術の歴史を調べる時、技の系譜だけを追うと、どうしても名前のつながりだけになりやすい。
誰が誰に習ったのか。
どの型を習ったのか。
どの流派につながるのか。
もちろん、それも大事である。
しかし、この資料で行われているのは、それだけではない。
東恩納寛量という人物が、どの家に生まれ、どの時代を生き、どの師に学び、どのように福州へ渡り、帰国後に何を伝え、その後、家の記憶の中でどう残っていたのか。
そこまでたどろうとしている。
だから、この(2)から(5)は、単なる寛量の伝記として読むよりも、東恩納寛量を家の記憶から掘り起こしていく調査として読む方が近いと思う。
寛量を調べることは、やがてルールーコーを調べることにつながる。
しかし、その前に、剛泊会は東恩納寛量という人物を、沖縄側で徹底してたどろうとしている。
そこに、この資料の重みがある。
以下に「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー」(2)〜(5)を中心に整理した年表メモを置いておく。
東恩納寛量をたどるための年表メモ
※「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー」(2)〜(5)を中心に整理
1823年(文政6年)
東恩納寛量の父・寛用が生まれる。
1840年(天保11年)
新垣世璋が生まれる。
のちに「マヤーアラカチ」と呼ばれ、寛量の最初の師となる。
1853年(嘉永6年)
東恩納寛量、那覇西村に生まれる。
童名は真牛、唐名は慎善熙。
山原船を持つ家に生まれ、幼少のころから家業を手伝う。
1868年(明治元年)
日本では明治天皇が即位し、年号が明治となる。
寛量の少年期は、琉球が日本と中国のあいだで大きく揺れる時期に重なる。
1869年(明治2年)
版籍奉還。
1871年(明治4年)
廃藩置県。
1875年(明治8年)
明治政府が琉球に対し、中国への進貢使・慶賀使の派遣や冊封を受けることを禁じる命令を伝える。
琉球内部では、親日派・親中派、穏和派・頑固党の対立が深まる。
1870年代前半ごろ
寛量、二十歳ごろに久米のマヤーアラカチこと新垣世璋に師事する。
那覇手の厳しい稽古を受け、那覇で名を知られる武道家へ成長していく。
1877年ごろ(明治10年ごろ)
寛量、秘かに福州へ渡る。
山原船の船持ち仲間や船主との関係を通じて唐旅の道を探り、義村御殿から琉球館宛の紹介状を得たとされる。
寛量の孫にあたる人物の証言では、琉球処分に反対し、琉球王国の存続を清国政府に請願するため、数人とともに福州へ行ったとされる。
また、福州では手工業、特に竹細工をしながら唐手を学んだと語られている。
1879年(明治12年)
琉球処分。
寛量が福州に滞在している間に、琉球王国は消滅し、沖縄県となる。
1880年(明治13年)
寛量、福州滞在3年の後、密航の山原船で那覇へ帰る。
帰国後は家業の海運業に従事する。
1882年(明治15年)
寛量の長男・寛仁が生まれる。
後の調査では、福州滞在期間を考える上でも重要な年として扱われる。
1889年(明治22年)
次男・松助が伊平屋で生まれる。
同じころ、義村御殿の次男・義村朝義が東恩納の門に入り、「サンチン」を基本に「ペッチューリン」を修得したとされる。
この時点で、寛量はすでに那覇で頭角を表していたとされる。
明治35〜36年ごろ(1902〜1903年ごろ)
許田重発、宮城長順らが寛量のもとで唐手の指導を受けるようになる。
のちに宮城長順は剛柔流を開き、許田重発も指導者として門弟を育てる。
1912年(明治45年/大正元年)ごろ
宇良宗亀さんが18歳ごろから寛量に師事する。
記事では、1912年から21歳までの3年間、寛量に師事したとされる。
1915年(大正4年)
東恩納寛量、数え63歳で没する。
1942年(昭和17年)
長男・寛仁が死亡。
1944年(昭和19年)
十・十空襲のころ、寛量翁と寛仁の位牌が壕の中で失われる。
1945年(昭和20年)
終戦の年の暮れ、寛仁の妻ウタが伊平屋の弟と再会し、伊平屋へ移る。
1981年(昭和56年)
ウタが死亡。
1987年(昭和62年)6月30日
渡嘉敷唯賢会長が東恩納系統の方々に呼びかけ、寛量翁と寛仁の位牌について協議する。
死亡年月日を確認するため、墓を開けて厨子甕の蓋を調べる必要があるという話になり、本家筋の許可を得ようとする。
墓の所在や移転についても、縁故者から話を聞き、確認している。
脚注
- 1988年(昭和63年) 3月8日 (火) 沖縄タイムス 那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー (2)
1988年(昭和63年) 3月9日 (水) 沖縄タイムス 那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー (3)
1988年(昭和63年) 3月10日 (木) 沖縄タイムス 那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー (4)
1988年(昭和63年) 3月11日 (金) 沖縄タイムス 那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー (5)
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