第28回 ルールーコーという音を、福州へ持っていく

剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。

今回読んだのは、1988年3月12日付の沖縄タイムスに掲載された、

「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー(6)」
「中国も調査に協力 一南派少林拳の発生地福建一」

という記事である。

前回までは、東恩納寛量という人物を沖縄側からたどっていた。

生い立ち。
家系。
新垣世璋への師事。
福州行き。
帰国後の指導。
サンチンの厳しさ。
武の教訓。
位牌や墓、東恩納家の縁故者の記憶。

そのように、沖縄側で東恩納寛量をたどっていくと、どうしても福州へ向かわざるを得なくなる。

東恩納寛量は、福州で誰に学んだのか。

その師とされるルールーコーとは、いったい誰だったのか。

この記事では、剛泊会の調査が、いよいよ福州側の武術界へ接続されていく。

福州に到着した剛泊会一行は、福州市武術協会の関係者に迎えられる。

福州市武術協会側は、沖縄からの来訪を歓迎し、福州と沖縄の関係にも触れている。

福州には琉球館があり、沖縄とは深い関わりがある。

また、福州は福建省の文化、武術のかなめであり、今後も沖縄との交流を深めたいという趣旨の挨拶も出てくる。

ここだけ読むと、調査は順調に進みそうにも見える。

沖縄側が資料を持って福州へ行く。
福州側の武術協会が受け入れる。
現地の武術家たちと交流する。
そこから、ルールーコーの手がかりが見えてくる。

そういう流れを期待したくなる。

しかし、この記事で自分が一番大事だと思ったのは、むしろその逆の部分である。

福州市武術協会側は、ルールーコーと東恩納寛量について問われた時、かなり慎重な見方を示している。

福州には多くの拳があり、大勢の先生方がいる。

そのため、特定の人物を詳しく知っている人は少ないと思う。

さらに、ルールーコーという名前についても、中国発音の問題がある。

果たして、本当に福州で「ルールーコー」と呼んでいたのかどうかも疑問である。

ここが、この記事の重いところだと思う。

福州に行けば、すぐにルールーコーの正体が分かるわけではない。

むしろ、福州へ行ったことで、調査の難しさがはっきりする。

沖縄側には、「ルールーコー」という呼び名が残っている。

しかし、それが中国側でどのような発音だったのか。
本当にそのように呼ばれていたのか。
姓なのか、名なのか、敬称なのか。
沖縄側の耳で聞き取られた音なのか。
後から当てられた表記なのか。

そこからして、簡単には分からない。

さらに福州には、多くの拳がある。

武術家も多い。

流派も多い。

同じ地域に、多くの先生方がいた。

そうなると、ある一人の人物を、百年近く後から特定することは簡単ではない。

しかも、手がかりは完全な名前ではなく、沖縄側に残った「ルールーコー」という音である。

この記事で見えてくるのは、福州側の協力だけではない。

福州側から見た時の、調査の難しさである。

沖縄側では、東恩納寛量の師としてルールーコーの名が伝わっている。

しかし、福州側から見ると、その名前がそのまま通じるとは限らない。

福州には多くの拳があり、多くの先生がいた。

その中から、沖縄に伝わった音を手がかりに、東恩納寛量の師を探さなければならない。

これは、かなり細い糸をたどる調査である。

だからこそ、この記事では、福州市武術協会側が資料提供を求めている点も重要だと思う。

両先生については資料が少ない。
手がかりになるような資料があれば、どんなものでも提供してほしい。

つまり、中国側も、ただ待っていれば分かるという立場ではない。

沖縄側に残る写真、記録、伝承、名前、時期。
中国側に残る武術家の記憶、地域の情報、拳種の系譜、発音。

それらを突き合わせなければ、調査は進まない。

この記事は、中国側の協力によって、ルールーコーの正体にすぐ近づいた記事ではない。

むしろ、沖縄側の伝承を福州へ持っていった時、そのままでは通じない部分があることを示している。

「ルールーコー」という音を、福州の武術界の記憶へどう戻すのか。

この記事は、その難しさが最初にはっきり出た場面として読むことができる。

同時に、ここから調査は本格化していく。

福州には多くの拳がある。
多くの先生方がいる。
ルールーコーという呼び名も、そのまま中国側の発音とは限らない。

だからこそ、調査は簡単ではない。

しかし、その難しさを確認したうえで、剛泊会は福州側の武術協会とつながり、現地の武術環境の中へ入っていく。

東恩納寛量を沖縄側でたどるだけでは届かない。

ルールーコーという音を、福州へ持っていく。

この記事は、その最初の接続を記録しているのだと思う。

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