第36回 最終報告書で加わった、三年説と謝如如確認の重み

剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。

今回読むのは、

「那覇手の祖東恩納寛量の師
ルールーコー(如如哥)の調査
最終報告書」

である。

これまで、沖縄タイムス、琉球新報の記事を順番に読んできた。

最初は、東恩納寛量の生涯をたどるところから始まった。

次に、福州での調査が出てきた。

途中では、劉祥京説が出た。

しかし、劉祥京説は、名前、時代、職業、武術指導という手がかりはありながら、家譜、住居、具体的拳種、東恩納寛量との接点がまだ弱かった。

その後、調査の軸は謝如如、すなわち謝崇祥説へ大きく移る。

如如哥という呼称。
鳴鶴拳の一代宗師。
三戦を基本とする拳法。
剛柔流の型との照合。
琉球人弟子の伝承。
住居や生活環境との一致。

そうした条件が重なって、ルールーコーに合致する人物として謝如如が具体的に立ち上がってきた。

ここまでは、これまでの記事で読んできた。

だから、最終報告書では、同じ話をもう一度細かく繰り返す必要はないと思う。

大事なのは、最終報告書で何が加わったのかである。

自分には、大きく三つあるように見える。

一つ目は、東恩納寛量の福州滞在三年説に、中国側の一級資料が加わったこと。

二つ目は、東嵐謝氏家譜によって、「如如」が本名であり、「崇祥」が字であることが確認されたこと。

三つ目は、謝如如に関する家譜、写真、位牌、墓、遺品、住居跡、武道館などを、現地で確認したことが整理されていることである。

まず、三年説について見てみたい。

金城昭夫先生側の異論では、東恩納寛量の福州滞在が三年では短すぎるのではないか、という疑問が出されていた。

昔の武術修行では、三戦だけでも何年もかかる。
三年で多くの型や技法を習得できたのか。
そういう疑問である。

これに対して、1990年の異論への回答の段階でも、渡嘉敷唯賢会長は三年説の根拠を複数挙げていた。

東恩納家の家譜。
長男・寛仁の出生。
次男・松助の出生。
寛量の孫にあたる人物の証言。
義村朝義が東恩納の門をくぐった時期。
比嘉佑直先生が知花朝信先生から聞いた、糸洲安恒先生の話。
佐久田繁氏が1952年に沖縄朝日新聞記者として書いた「近世琉球奇譚、空手修業物語」。

つまり、三年説は、最初から単独の口碑だけで立っていたわけではない。

沖縄側の家譜、縁故者証言、弟子筋の時期、他流の証言、新聞連載を重ねたものだった。

しかし、最終報告書では、ここにさらに中国側の一級資料が加わる。

福建省師範大学歴史系中外関係史グループの報告書の中に、東恩納寛量の帰国に関する資料があった。

中国第一歴史檔案館編『清代中琉関係檔案選編』である。

そこには、清光緒3年、1877年10月21日の皇太后・皇帝への報告書として、9月18日に琉球館を発って乗船した大城ら十人と、前回から福州に留まっていた慎寛量、加納城、山内、上里らも同時に乗船して帰国した、という内容が記されている。

この慎寛量が、東恩納寛量である。

最終報告書では、この資料によって、東恩納寛量が1877年に福州を発ち帰国したことが、記録上からも明らかになったとしている。

ここはかなり大きい。

それまでの三年説は、沖縄側の資料と証言を重ねて支えられていた。

しかし、最終報告書では、中国側の清代中琉関係史料によって、寛量の帰国記録が出てくる。

これは、単なる伝承の補強ではない。

福州にいた慎寛量が、琉球館を発って乗船し、帰国したという記録である。

もちろん、この資料が出てくることで、これまでの記事に出ていた年表との整理は必要になる。

以前の記事では、寛量が1877年ごろ福州へ渡り、1880年ごろ帰国したように読める箇所もあった。

一方、最終報告書では、1877年に帰国したことを示す中国側史料が出てくる。

だから、寛量の福州滞在時期については、最終報告書を踏まえて、年表をもう一度整理し直す必要があると思う。

ただ、ここで重要なのは、剛泊会の三年説が、最終報告書の段階では沖縄側の証言だけではなく、中国側の史料によっても支えられる形になったことである。

次に重要なのは、謝如如の名前についてである。

金城先生側の反論では、「謝如如」が本名であることにも疑問が出されていた。

拳書などには謝崇祥の名が多く出る。
対社会的には本名を使うのが普通ではないか。
「如如」は童名のようにも見える。

そういう疑問である。

しかし、最終報告書では、東嵐謝氏家譜によって、この点が整理される。

家譜には、

如如、字は崇祥。

と記されている。

さらに、咸豊2年生、民国19年没。
13歳の時、父に従って福州南台に移った。
幼年に父の仕事を手伝った。
潘嶼八に拝して拳を習い、技を究め、鳴鶴拳を創った。

そういう内容が記されている。

また、父・謝尊志には二男があり、兄が如如、弟が意意であったことも家譜に出てくる。

つまり、最終報告書では、「如如」は単なる通称や誤記ではなく、家譜に記された本名として確認されている。

そして、「崇祥」は字である。

この確認も大きい。

これまでの記事では、謝如如、謝崇祥、如如哥という呼称が出てきた。

ただ、それぞれがどういう関係なのか、読者には少し分かりにくいところもあった。

最終報告書では、家譜を通して、

本名は如如。
字は崇祥。
若いころの呼称が如如哥。

という整理が強くなる。

これによって、ルールーコー=如如哥=謝如如=謝崇祥という関係が、単なる呼称の推測ではなく、家譜上の人物確認を伴って見えてくる。

さらに、家譜には、謝如如が鳴鶴拳を創ったことまで記されている。

父の仕事を手伝ったこと。
潘嶼八に師事したこと。
拳を習い、技を究めたこと。
鳴鶴拳を創ったこと。

ここまで出てくると、謝如如は単に名前が合う人物ではない。

家譜に記された生涯と武歴を持つ人物である。

そして、その人物が鳴鶴拳の創始に関わっている。

これは、謝如如説を支えるうえでかなり重要な追加情報だと思う。

三つ目に重要なのは、現地確認の厚みである。

最終報告書では、謝如如の死後についても触れられている。

謝崇祥は1930年2月8日に79歳で亡くなった。

葬儀には多くの拳術家、門弟たちが参列したとされる。

遺体は郷里の長楽に埋葬されたが、1984年に孫の謝品寛氏によって、福州新店白鵠籠金獅山に改葬された。

如如亡き後は、息子の周学が双抛橋附近で化粧道具箱作りをしながら家族を扶養していたが、目が不自由になったため、一家は1938年ごろ長楽へ戻って移り住んだ。

現在は、孫の謝品寛氏が福州市鼓楼区に住み、如如哥の遺訓を守って、鳴鶴拳の継承発展に尽力している。

こうした情報は、人物の輪郭をさらに具体化する。

謝如如は、伝説上の名前だけではない。

亡くなった年がある。
墓がある。
改葬の経緯がある。
子や孫がいる。
家族の生活の変化がある。
鳴鶴拳を継承する孫がいる。

さらに、剛泊会が依頼していた謝家家譜、ルールーコーの写真、位牌、墓、遺品、住居跡、武道館などについては、林偉功氏、謝品寛氏、謝成鵲氏、通訳の葉力立氏らに案内され、すべて見聞することができたとされている。

ここも大きい。

謝如如説は、単に新聞上で「そうらしい」と書かれているだけではない。

家譜を見る。
写真を見る。
位牌を見る。
墓を見る。
遺品を見る。
住居跡を見る。
武道館を見る。

そういう現地確認の積み重ねがある。

劉祥京説の時は、家や家譜、場所、具体的な拳種がまだ調査中だった。

それに対して、謝如如説では、最終報告書の段階で、謝家に関わる資料と場所がかなり確認されている。

ここに、調査の厚みの違いがあると思う。

もちろん、最終報告書でも、これまで出てきた六つの照合項目は改めて確認されている。

ルールーコーと如如哥の発音と呼称習慣。
剛柔流の型を、鳴鶴拳の古老拳術家たちが鳴鶴拳と見たこと。
昼の仕事と夜の拳術指導という生活環境。
謝品寛氏の「琉球人の弟子もいた」という証言。
水辺、星安橋、二階建て、一階竹細工店という住居環境。
如如の拳論にある三戦と剛柔の考え。

これらは、すでに前の記事でも読んできた。

だから、ここでは繰り返しすぎない。

ただ、最終報告書で重要なのは、それらの照合項目が、家譜や現地確認、中国側史料と合わせて再配置されていることだと思う。

つまり、謝如如説は、

音が似ている。
鳴鶴拳と関係がある。
三戦が似ている。

というだけではない。

最終報告書の段階では、

東恩納寛量の帰国記録。
謝如如の家譜。
謝家の現物資料。
墓、位牌、住居跡、武道館。
福建省側の関係機関の協力。
顕彰碑建立。

そこまで含んだ調査結果として束ねられている。

また、最終報告書には、資料集を発刊する意味も書かれている。

中国に実際に赴き、嵩山少林寺、南少林寺、峨眉派、武当派の武術家たちとの武術調査研究や交流を行い、その内容を新聞等に掲載してきた。

しかし、時がたつにつれ、記憶が曖昧になったり、大切な資料が分散したりする恐れがある。

そのため、多方面から一つにまとめて発刊してほしいという強い要望があり、今回の発刊に至った。

ここも、自分には大事に思える。

これは単なる記念出版ではない。

調査の記憶が薄れる前に残す。
資料が散らばる前にまとめる。
新聞記事として断片的に出ていたものを、後から読み返せる形にする。

そういう記録保存の意味がある。

この最終報告書を読むと、剛泊会のルールーコー調査は、単に一人の中国人師匠の名前を探しただけではなかったことが分かる。

東恩納寛量を沖縄側からたどる。
福州側で師を探す。
劉祥京説を経る。
謝如如説へ移る。
異論に答える。
中国側史料を確認する。
家譜と現地資料を確認する。
顕彰碑を建立する。
資料をまとめて残す。

そういう長い調査の流れがある。

最終報告書は、その最後に置かれている。

だから、最終報告書は、謝如如説を新しく言い出した文章ではない。

これまでの調査、異論、再確認、追加資料を踏まえて、剛泊会としてルールーコー調査を最終的に束ね直した文章である。

特に新しく重いのは、二つだと思う。

一つは、東恩納寛量の三年滞在説に、中国側の清代中琉関係史料が加わったこと。

もう一つは、東嵐謝氏家譜によって、如如が本名、崇祥が字であること、そして謝如如が潘嶼八に学び鳴鶴拳を創った人物であることが確認されたこと。

この二つによって、最終報告書は、これまでの記事とは違う重みを持っている。

調査経過の紹介ではない。

異論への反論だけでもない。

剛泊会が、長い調査の末に、東恩納寛量の師傳ルールーコーを謝如如、字・崇祥であると見た理由を、最終的に整理した文章である。

そして、その記録を散逸させないために残した文章でもある。

ここまで読んでくると、最初の劉祥京説から、最終報告書に至るまでの距離がよく分かる。

劉祥京説は、調査の途中で出てきた仮説だった。

謝如如説は、名前、拳種、技術、家譜、現地確認、中国側史料を重ねた調査結果として最終報告書に置かれている。

そこが、この文章の一番大きな意味だと思う。

以下に「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー」(2)〜(5)と最終報告書を中心に整理した年表メモを置いておく。

東恩納寛量をたどるための年表メモ

※「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー」(2)〜(5)と、「ルールーコー(如如哥)の調査 最終報告書」を中心に整理

1823年(文政6年)

東恩納寛量の父・寛用が生まれる。


1840年(天保11年)

新垣世璋が生まれる。

のちに「マヤーアラカチ」と呼ばれ、寛量の最初の師となる。


1852年(咸豊2年)7月31日

謝如如が福建省長楽県に生まれる。

【最終報告書で追加・確認】

最終報告書では、東嵐謝氏家譜によって、
如如が本名、崇祥が字であることが確認されている。

後に、鳴鶴拳の一代宗師とされる人物である。


1853年(嘉永6年)

東恩納寛量、那覇西村に生まれる。

童名は真牛、唐名は慎善熙。

山原船を持つ家に生まれ、幼少のころから家業を手伝う。


1860年ごろ

謝如如、8歳ごろから父・謝尊志に羅漢拳を学ぶ。

【最終報告書で追加・確認】

謝尊志は竹細工職であり、羅漢拳に長じていたとされる。


1865年ごろ

謝如如、13歳ごろに火災をきっかけとして、父に従い福州南台へ移る。

【最終報告書で追加・確認】

その後、福州で父の仕事を手伝いながら、
潘嶼八に師事して拳を学ぶ流れにつながる。


1868年(明治元年)

日本では明治天皇が即位し、年号が明治となる。

寛量の少年期は、琉球が日本と中国のあいだで大きく揺れる時期に重なる。


1869年(明治2年)

版籍奉還。


1871年(明治4年)

廃藩置県。


1875年(明治8年)

明治政府が琉球に対し、中国への進貢使・慶賀使の派遣や冊封を受けることを禁じる命令を伝える。

琉球内部では、親日派・親中派、穏和派・頑固党の対立が深まる。


1870年代前半ごろ

寛量、二十歳ごろに久米のマヤーアラカチこと新垣世璋に師事する。

那覇手の厳しい稽古を受け、那覇で名を知られる武道家へ成長していく。


1874年ごろ

寛量が福州へ渡った時期として、再整理が必要になる。

【最終報告書との差分】

以前の年表では、寛量は1877年ごろに福州へ渡ったものとして整理していた。

しかし最終報告書では、1877年に慎寛量が福州から帰国した中国側記録が紹介されている。

そのため、三年滞在説を採るなら、福州渡航は1877年ではなく、
その三年前、つまり1874年前後に置く必要が出てくる。

ここは、以前の記事ベースの年表から大きく修正が必要な点である。


1877年(明治10年)9月18日

慎寛量が琉球館を発って乗船し、帰国したとされる。

【最終報告書で追加・確認】

中国第一歴史檔案館編『清代中琉関係檔案選編』に、
前回から福州に留まっていた慎寛量らが、
大城らと同時に乗船して帰国した記録がある。

最終報告書では、この慎寛量を東恩納寛量と見ている。


1877年(明治10年)10月21日

清側の皇太后・皇帝への報告書に、慎寛量らの帰国が記録される。

【最終報告書で追加・確認】

9月18日に琉球館を発って乗船した者たちと、
福州に留まっていた慎寛量らが同時に帰国した、
という内容が報告書に出てくる。

この記録により、最終報告書では、
東恩納寛量の福州帰国が1877年であったことが確認されたとしている。


1879年(明治12年)

琉球処分。

【以前の年表との差分】

以前の年表では、寛量が福州に滞在している間に琉球王国が消滅し、沖縄県となった、
という形で整理していた。

しかし、最終報告書の1877年帰国記録を採るなら、
琉球処分の時点で寛量はすでに沖縄へ戻っていた可能性が高くなる。

したがって、この部分は以前の記事ベースの説明と、
最終報告書ベースの整理とで差分がある。


1880年(明治13年)

以前の年表では、寛量が福州滞在3年の後、密航の山原船で那覇へ帰った年として整理していた。

【最終報告書との差分】

最終報告書では、中国側史料により1877年帰国が示されている。

そのため、1880年帰国説は、以前の記事や伝承ベースの整理として扱い、
最終報告書ベースでは1877年帰国へ修正する必要がある。


1882年(明治15年)5月15日

寛量の長男・寛仁が生まれる。

後の調査では、福州滞在期間を考える上でも重要な年として扱われる。

寛量がこの時期には沖縄に戻っていたことを示す材料になる。


1889年(明治22年)8月10日

次男・松助が伊平屋で生まれる。

寛量の帰国後の生活を押さえる根拠として扱われている。


1889年(明治22年)ごろ

義村御殿の次男・義村朝義が東恩納の門に入る。

「サンチン」を基本に「ペッチューリン」を修得したとされる。

この時点で、寛量はすでに那覇で唐手を指導していたと見られる。


明治35〜36年ごろ(1902〜1903年ごろ)

許田重発、宮城長順らが寛量のもとで唐手の指導を受けるようになる。

のちに宮城長順は剛柔流を開き、許田重発も指導者として門弟を育てる。


1912年(明治45年/大正元年)ごろ

宇良宗亀さんが18歳ごろから寛量に師事する。

記事では、1912年から21歳までの3年間、寛量に師事したとされる。


1915年(大正4年)

東恩納寛量、数え63歳で没する。


1930年(昭和5年)2月8日

謝如如が79歳で亡くなる。

【最終報告書で追加・確認】

遺体は郷里の長楽に埋葬されたとされる。


1938年ごろ

謝如如の家族が長楽へ戻る。

【最終報告書で追加・確認】

息子の周学が双抛橋附近で家族を扶養していたが、
目が不自由になったため、一家は長楽へ移ったとされる。


1942年(昭和17年)

長男・寛仁が死亡。


1944年(昭和19年)

十・十空襲のころ、寛量翁と寛仁の位牌が壕の中で失われる。


1945年(昭和20年)

終戦の年の暮れ、寛仁の妻ウタが伊平屋の弟と再会し、伊平屋へ移る。


1952年(昭和27年)

佐久田繁氏が「近世琉球奇譚、空手修業物語」を連載する。

【異論回答・最終報告書に関係する補足】

沖縄朝日新聞記者時代の連載である。

寛量が支那に三年滞在し、
密航の山原船で沖縄に帰ったという記述があり、
宮城長順先生から取材したものとされる。

三年滞在説を支える証言系資料の一つとして扱われている。


1981年(昭和56年)

ウタが死亡。


1984年(昭和59年)

謝如如の墓が福州新店白鵠籠金獅山へ改葬される。

【最終報告書で追加・確認】

孫の謝品寛氏によって改葬されたとされる。


1987年(昭和62年)6月30日

渡嘉敷唯賢会長が東恩納系統の方々に呼びかけ、寛量翁と寛仁の位牌について協議する。

死亡年月日を確認するため、墓を開けて厨子甕の蓋を調べる必要があるという話になり、本家筋の許可を得ようとする。

墓の所在や移転についても、縁故者から話を聞き、確認している。


1987年(昭和62年)10月

剛泊会が福州を訪問し、福建省武術協会に調査を依頼する。

【最終報告書で追加・確認】

ここから、ルールーコー調査が本格化する。


1988年(昭和63年)3月

沖縄タイムスで初期調査記事が連載される。

劉祥京説が中間報告として出る。

ただし、家譜、住居、具体的拳種、東恩納寛量との接点などには弱さが残っていた。


1988年(昭和63年)10月ごろ

福建省側から謝崇祥説の報告が出る。

ルールーコーは、鳴鶴拳の一代宗師・謝崇祥ではないか、
という方向へ調査が大きく動く。


1988年(昭和63年)12月

沖縄タイムス夕刊で、
「続・那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー」が掲載される。

劉祥京説から謝如如、すなわち謝崇祥説へ、
調査の軸が大きく移る。


1989年(平成元年)5月

琉球新報で、
「空手物語 二人の武人 東恩納寛量翁とルールーコー」が連載される。

調査結果をもとに、
東恩納寛量とルールーコー=謝如如を、
二人の武人として再編集し、詳しく描いている。


1990年(平成2年)4月

「鳴鶴拳・謝如如説への異論」に対する回答が掲載される。

金城昭夫先生らの異論に対し、
渡嘉敷唯賢会長が論点ごとに回答する。


1990年(平成2年)6月

福州市の福建省体育センター敷地内に顕彰碑が建立される。

東恩納寛量翁と、
その中国福州での師とされるルールーコー、
すなわち謝如如・字崇祥を顕彰する碑が建立される。


1999年(平成11年)5月

「ルールーコー(如如哥)の調査 最終報告書」がまとめられる。

これまでの調査、異論、追加資料、現地確認を踏まえ、
剛泊会としての最終整理が行われる。


年表上の注意点

この年表で特に注意したいのは、東恩納寛量の福州滞在時期である。

以前の記事ベースでは、
寛量が1877年ごろ福州へ渡り、
1880年ごろ帰国したように整理していた。

しかし、最終報告書では、
中国第一歴史檔案館編『清代中琉関係檔案選編』により、
慎寛量、つまり東恩納寛量が1877年に福州から帰国した記録が紹介されている。

そのため、最終報告書を踏まえるなら、
三年滞在説は、1877年帰国を基準にして再整理する必要がある。

この差分はかなり大きい。

1877年を「渡航した年」と見るのか、
「帰国した年」と見るのかで、
寛量の福州滞在時期の見え方が変わってくる。

したがって、今後は以前の記事に出ていた1877年渡航・1880年帰国の整理と、
最終報告書に出てくる1877年帰国記録を分けて扱う必要がある。

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