剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。
今回読んだのは、1988年3月15日付の沖縄タイムスに掲載された、
「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー(7)」
「鶴拳習った東恩納 一有意義だった武術交流一」
という記事である。
前回読んだ(6)では、福州市武術協会側から、ルールーコー調査の難しさが示されていた。
福州には多くの拳があり、大勢の先生方がいる。
そのため、特定の人物を詳しく知っている人は少ない。
さらに、ルールーコーという名前についても、中国発音の問題がある。
果たして本当に「ルールーコー」と呼んでいたのかどうかも疑問である。
そうした慎重な見方が示されていた。
つまり、福州へ行けばすぐにルールーコーの正体が分かる、という話ではなかった。
沖縄側に残った「ルールーコー」という音を、福州側の記憶や記録の中に戻すこと自体が難しかった。
今回の記事では、その調査が少し別の方向から動き始める。
福州市武術協会は、剛泊会からのルールーコーと東恩納寛量の調査依頼を快く承諾する。
その後、双方の交換演武が行われる。
福州市武術協会側からは、獅子拳、龍拳、地術拳、羅漢拳、太極拳などが演武される。
剛泊会側も、それに答える形で剛柔流の型を演武する。
記事では、中国拳法の特徴として、動物の形態をまねていること、演武中に水の流れるように止まらないこと、手足や体が絶えず動いていることが印象深く書かれている。
ここまでは、武術交流の記事として読める。
しかし、自分が重要だと思ったのは、その後である。
交換演武の後、質疑応答をしている時に、孫崇雄先生が思い出したように通訳へ話す。
その内容は、東恩納先生は「閩鶴拳」、つまり鳴鶴拳を習っている、というものだった。
さらに、福州でルールーコーという先生に鶴拳を習っているという記録が残っている、という話も出てくる。
これは大きい。
ここまでの調査では、ルールーコーという名前をどうたどるかが大きな問題だった。
沖縄側に残っていた呼称を、福州側の発音や人名にどう戻すのか。
そこが難しかった。
しかしこの記事では、名前とは別の方向から手がかりが出てくる。
東恩納寛量が、福州で鶴拳を習っていた。
しかも、鳴鶴拳に関係しているらしい。
この情報によって、調査の重心が少し動く。
ルールーコーという人物を探すだけではなく、東恩納寛量が福州でどの拳を学んだのか、という方向が見えてくる。
さらに、剛泊会側の演武の中で、仲本盛康氏が「壱百零八手」の型を演武した時、協会側から、その型は鶴拳の一種であると言われている。
ここも重要だと思う。
沖縄側が持っていったのは、文字資料だけではない。
型そのものも持っていった。
その型を福州側の武術家が見て、鶴拳との関係を指摘している。
つまりこの記事では、調査が文献や名前だけで進んでいるわけではない。
演武を見る。
型を見る。
身体の動きから、拳種との関係を見る。
そういう武術交流の中で、東恩納寛量と鶴拳をつなぐ手がかりが出てきている。
これは面白い。
ルールーコーという名前は、発音の問題がある。
沖縄に残った音が、そのまま福州側の呼称と一致するとは限らない。
しかし、型や身体の動きは、別の種類の手がかりになる。
もちろん、型が似ているからといって、すぐに人物が特定できるわけではない。
ただ、福州側の武術家が、剛柔流の型に鶴拳の要素を見たこと。
そして、東恩納寛量が閩鶴拳、鳴鶴拳を習ったという記録があると語られたこと。
この二つは、ルールーコー調査を、鶴拳の系譜へ接続していく。
この記事の後半では、白鶴拳の由来についても説明される。
白鶴拳には、鳴鶴拳、食鶴拳、宗鶴拳、飛鶴拳の四つがあるとされる。
そして、方氏七娘による白鶴拳の伝承が紹介される。
ここから記事は、単なる人物調査ではなく、福建の鶴拳そのものの説明へ入っていく。
この流れを見ると、剛泊会の調査が、少しずつ深いところへ入っていくのが分かる。
最初は、東恩納寛量を調べていた。
東恩納寛量を調べると、福州での修業に行き着いた。
福州での修業を調べると、ルールーコーという師の存在に行き着いた。
ルールーコーを調べようとすると、名前や発音の問題にぶつかった。
しかし、武術交流の中で、東恩納寛量が鶴拳を学んだという手がかりが出てくる。
そして、剛柔流の型そのものにも、鶴拳との接点が見えてくる。
この記事は、その転換点として読むことができる。
ルールーコーという名前を探す調査が、鶴拳へつながる。
人物名だけでは届かなかった場所へ、型と武術交流が道を開いていく。
そこに、この記事の重みがあると思う。

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