第29回 名前を探す調査が、鶴拳へつながる

剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。

今回読んだのは、1988年3月15日付の沖縄タイムスに掲載された、

「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー(7)」
「鶴拳習った東恩納 一有意義だった武術交流一」

という記事である。

前回読んだ(6)では、福州市武術協会側から、ルールーコー調査の難しさが示されていた。

福州には多くの拳があり、大勢の先生方がいる。

そのため、特定の人物を詳しく知っている人は少ない。

さらに、ルールーコーという名前についても、中国発音の問題がある。

果たして本当に「ルールーコー」と呼んでいたのかどうかも疑問である。

そうした慎重な見方が示されていた。

つまり、福州へ行けばすぐにルールーコーの正体が分かる、という話ではなかった。

沖縄側に残った「ルールーコー」という音を、福州側の記憶や記録の中に戻すこと自体が難しかった。

今回の記事では、その調査が少し別の方向から動き始める。

福州市武術協会は、剛泊会からのルールーコーと東恩納寛量の調査依頼を快く承諾する。

その後、双方の交換演武が行われる。

福州市武術協会側からは、獅子拳、龍拳、地術拳、羅漢拳、太極拳などが演武される。

剛泊会側も、それに答える形で剛柔流の型を演武する。

記事では、中国拳法の特徴として、動物の形態をまねていること、演武中に水の流れるように止まらないこと、手足や体が絶えず動いていることが印象深く書かれている。

ここまでは、武術交流の記事として読める。

しかし、自分が重要だと思ったのは、その後である。

交換演武の後、質疑応答をしている時に、孫崇雄先生が思い出したように通訳へ話す。

その内容は、東恩納先生は「閩鶴拳」、つまり鳴鶴拳を習っている、というものだった。

さらに、福州でルールーコーという先生に鶴拳を習っているという記録が残っている、という話も出てくる。

これは大きい。

ここまでの調査では、ルールーコーという名前をどうたどるかが大きな問題だった。

沖縄側に残っていた呼称を、福州側の発音や人名にどう戻すのか。

そこが難しかった。

しかしこの記事では、名前とは別の方向から手がかりが出てくる。

東恩納寛量が、福州で鶴拳を習っていた。

しかも、鳴鶴拳に関係しているらしい。

この情報によって、調査の重心が少し動く。

ルールーコーという人物を探すだけではなく、東恩納寛量が福州でどの拳を学んだのか、という方向が見えてくる。

さらに、剛泊会側の演武の中で、仲本盛康氏が「壱百零八手」の型を演武した時、協会側から、その型は鶴拳の一種であると言われている。

ここも重要だと思う。

沖縄側が持っていったのは、文字資料だけではない。

型そのものも持っていった。

その型を福州側の武術家が見て、鶴拳との関係を指摘している。

つまりこの記事では、調査が文献や名前だけで進んでいるわけではない。

演武を見る。
型を見る。
身体の動きから、拳種との関係を見る。

そういう武術交流の中で、東恩納寛量と鶴拳をつなぐ手がかりが出てきている。

これは面白い。

ルールーコーという名前は、発音の問題がある。

沖縄に残った音が、そのまま福州側の呼称と一致するとは限らない。

しかし、型や身体の動きは、別の種類の手がかりになる。

もちろん、型が似ているからといって、すぐに人物が特定できるわけではない。

ただ、福州側の武術家が、剛柔流の型に鶴拳の要素を見たこと。

そして、東恩納寛量が閩鶴拳、鳴鶴拳を習ったという記録があると語られたこと。

この二つは、ルールーコー調査を、鶴拳の系譜へ接続していく。

この記事の後半では、白鶴拳の由来についても説明される。

白鶴拳には、鳴鶴拳、食鶴拳、宗鶴拳、飛鶴拳の四つがあるとされる。

そして、方氏七娘による白鶴拳の伝承が紹介される。

ここから記事は、単なる人物調査ではなく、福建の鶴拳そのものの説明へ入っていく。

この流れを見ると、剛泊会の調査が、少しずつ深いところへ入っていくのが分かる。

最初は、東恩納寛量を調べていた。

東恩納寛量を調べると、福州での修業に行き着いた。

福州での修業を調べると、ルールーコーという師の存在に行き着いた。

ルールーコーを調べようとすると、名前や発音の問題にぶつかった。

しかし、武術交流の中で、東恩納寛量が鶴拳を学んだという手がかりが出てくる。

そして、剛柔流の型そのものにも、鶴拳との接点が見えてくる。

この記事は、その転換点として読むことができる。

ルールーコーという名前を探す調査が、鶴拳へつながる。

人物名だけでは届かなかった場所へ、型と武術交流が道を開いていく。

そこに、この記事の重みがあると思う。

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