剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。
今回読んだのは、1988年3月16日付の沖縄タイムスに掲載された、
「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー(8)」
「劉祥京(ルールーコー)が有力? 一工芸家で武術の指導者一」
という記事である。
この記事では、ルールーコーの候補として、劉祥京という人物が浮かび上がってくる。
ただ、ここで大事なのは、劉祥京という名前が突然出てきたわけではない、ということだと思う。
記事によれば、福州市武術協会には、剛泊会が訪れる以前から、日本側からルールーコーについて確かな資料が欲しいという話が来ていた。
つまり、福州市武術協会にとっても、この調査は剛泊会の訪問によって初めて始まったものではなかった。
すでに日本側から、ルールーコーについての問い合わせがあった。
しかも、提供された名前は一つではなかった。
劉龍公。
劉良欣。
劉良興。
いずれも発音が似ているが、古い話であり、どこから手をつければよいのか、最初は簡単ではなかったとされている。
ここが、この調査の難しいところである。
沖縄側には、「ルールーコー」という呼び名が伝わっている。
しかし、それを中国側の名前に戻そうとすると、いくつもの可能性が出てくる。
劉龍公なのか。
劉良欣なのか。
劉良興なのか。
それとも、まったく別の名前なのか。
福州市武術協会は、そうした複数の候補から調査を始めている。
その後、多くの人を動員して調査した結果、有力な情報が一つ出てくる。
約百年くらい前に、一人の手工芸労働者がいた。
およそ1852年生まれ。
武術がよくできた人物。
名前は、劉祥京。
福州語の発音で読むと、これまで提供された名前の中で、ルールーコーに最も近いと思われる。
記事では、そのように説明されている。
ただし、ここで自分の読みを一つ修正しておきたい。
最初、自分は「ルールーコー本人が手工業者だった」という口碑が沖縄側に残っていたのかと思っていた。
しかし、読み直すと、そう単純ではない。
確認できるのは、剛泊会が東恩納家の縁故者をたどる中で、寛量の孫にあたる人物から聞いた証言である。
その証言では、寛量は福州に三年いて、手工業、特に竹細工をしながら唐手を習ってきたとされている。
つまり、これは「ルールーコー本人が手工業者だった」という直接的な口碑というより、剛泊会の調査によって得られた、寛量の福州滞在に関する証言である。
ここは分けて読まなければならない。
寛量は、福州で手工業をしながら唐手を学んだ。
一方、中国側の調査では、劉祥京は手工業をしながら武術を教えていた人物として浮かび上がった。
この二つが重なる。
さらに、劉祥京の弟子の中に一人の外国人がいて、仕事をしながら武術を学んでいたという話も出てくる。
その外国人が、東恩納寛量だったのではないか。
福州市武術協会側は、そこを証明したいと考えている。
ここで見えてくるのは、劉祥京説が単なる発音合わせだけで出てきたものではなさそうだ、ということである。
もちろん、発音は重要な手がかりだった。
ルールーコーという呼び名。
劉龍公、劉良欣、劉良興といった複数の候補。
福州語での読み。
そこから、劉祥京という名前に近づいている。
しかし、それだけではない。
手工業をしていたこと。
武術を教えていたこと。
弟子の中に外国人がいたこと。
その外国人が仕事をしながら武術を学んでいたこと。
そうした人物条件も重なっている。
だからこの記事は、劉祥京という名前だけを見るのではなく、劉祥京という仮説がどのように出てきたのかを見る記事だと思う。
福州市武術協会は、複数の名前候補と発音の問題を抱えながら、現地の情報を調べている。
その中で、手工業をしながら武術を教えていた劉祥京という人物に行き当たる。
そして、その弟子の中に外国人がいたという話が出てくる。
一方で、剛泊会側の調査では、寛量が福州で手工業をしながら唐手を学んだという証言が得られている。
この二つの情報が重なった時、劉祥京はルールーコー候補として有力に見えたのだと思う。
ただ、中国側はここで断定しているわけではない。
劉祥京の弟子だった外国人が、本当に東恩納寛量だったのか。
それは、一つの流派の始祖に関わる問題であり、簡単には言えない。
だから、さらに証拠を探そうとしている。
子孫を探す。
当時の作業場を探す。
武術を教えていた場所を探す。
旧居を探す。
墓地を探す。
そして、それらが日本側から伝えられている情報と一致するかどうかを確かめようとしている。
ここに、この調査の慎重さがある。
名前だけでは足りない。
発音だけでも足りない。
人物の生活、仕事、弟子、場所までたどらなければならない。
この記事には、劉祥京という仮説が生まれてくる過程が見えている。
沖縄側に残ったルールーコーという呼び名。
日本側から提供された複数の名前。
福州語での発音。
剛泊会が縁故者調査で得た、寛量が手工業をしながら唐手を学んだという証言。
中国側で見つかった、手工業をしながら武術を教えていた劉祥京という人物。
そして、その弟子の中に外国人がいたという情報。
それらが重なって、劉祥京という候補が浮かび上がる。
だから、この記事は「劉祥京で決まった」という記事ではない。
劉祥京という仮説が、どのような条件の重なりから出てきたのか。
その途中経過を記録した記事として読むのがよいと思う。

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