第31回 劉祥京説は、まだ有力に見えない

剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。

今回読んだのは、1988年3月17日付の沖縄タイムスに掲載された、

「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー(9)」
「劉、20歳前後で武術指導 一具体的拳種は断定できない一」

という記事である。

前回の記事では、ルールーコーの候補として劉祥京という人物が出てきた。

劉祥京は、1852年ごろに福州で生まれた人物とされる。
手工業、竹細工に関係していた。
武術をよくした。
二十歳ごろから弟子に武術を教えていた。
福州語で読むと、ルールーコーに近いと考えられた。

そういう説明があった。

ただ、前回記事の見出しには、

「劉祥京(ルールーコー)が有力?」

と、疑問符がついていた。

この疑問符は、かなり大事だと思う。

「有力」と言い切っているのではない。

劉祥京が有力なのか。
本当にそう見てよいのか。
その根拠はどこまであるのか。

そういう留保が、最初から見出しに入っている。

そして今回の記事を読むと、その疑問符の意味がより強く見えてくる。

記事では、劉祥京が二十歳前後、つまり1872年ごろには武術を教えていたと説明されている。

昼間は川向かいの工場で竹細工をし、夜は住居のそばの小さな空き地で武術を教えていたという話も出てくる。

ここだけ読むと、前回の記事で出てきた劉祥京像が少し具体化されたようにも見える。

しかし、自分には、この記事を読んでも劉祥京説が強まったようには見えなかった。

むしろ、なぜこの段階で劉祥京説を推しているのか、そこがよく分からない。

剛泊会側は、当然もっと具体的なことを確認したかったはずである。

劉祥京の家は残っているのか。
その場所は特定できているのか。
家譜は確認できたのか。
どこで武術を教えていたのか。
東恩納寛量との直接的な接点はあるのか。
劉祥京が教えていた拳は、具体的にどの拳だったのか。

しかし、この記事での中国側の答えは、核心部分になるとまだかなり弱い。

家については、調査中。
確実な場所については、まだ最終的な結論を下していない。
家譜についても、これから手がける準備をしている。
資料を集め、一つひとつ照合している段階である。

つまり、劉祥京という人物について、まだ多くのことが確定していない。

さらに大きいのは、拳種の問題である。

中国側は、劉祥京が鶴拳をやっていたことは肯定できる、としている。

しかし、宋鶴なのか。
鳴鶴なのか。
飛鶴なのか。
食鶴なのか。

その具体的な種類については、断定できないと答えている。

ここは非常に大きい。

前の記事までの流れでは、東恩納寛量と鶴拳、特に鳴鶴拳との接点が見えてきた。

ところが、今回の記事では、劉祥京が鶴拳をやっていたとは言えても、それがどの鶴拳だったのかは断定できない。

しかも中国側は、百年前の鶴拳と現在の福州の鶴拳は、はっきり言って類似していない部分があるとも説明している。

この説明自体は、かなり重要だと思う。

中国武術は、百年の間に変化している。

流派も分かれる。
混ざる。
演武化も進む。
現在の分類を、そのまま百年前に戻して当てはめることはできない。

だから、劉祥京が鶴拳をやっていたとしても、それを現在の分類で宋鶴、鳴鶴、飛鶴、食鶴のどれかに決めることはできない。

この慎重さは分かる。

ただ、その慎重さがあるからこそ、逆に劉祥京説の根拠の弱さも見えてくる。

劉祥京は、ルールーコー候補として名前が出ている。

しかし、家はまだ確認できていない。
家譜もまだ確認できていない。
場所もまだ詰め切れていない。
東恩納寛量との直接的な接点も、まだ証明されていない。
具体的な拳種も断定できない。

そうであるなら、なぜ劉祥京説をそこまで前に出せるのか。

この記事を読んでいて、自分が引っかかったのはそこだった。

もちろん、劉祥京説には、いくつか重なる条件はある。

時代が合いそうである。
手工業、竹細工に関係している。
武術を教えていた。
鶴拳をやっていた。
ルールーコーという音に近いと考えられた。

それらは、手がかりではある。

しかし、手がかりであることと、有力だと言えることは同じではない。

名前が似ている。
時代が合う。
職業が合う。
武術を教えていた。
鶴拳をやっていた。

ここまでは、候補を立てる材料にはなる。

だが、それだけでは、東恩納寛量の師であるルールーコーと同一人物だとは言えない。

必要なのは、もう一段先の確認である。

その人物が実在した場所。
家系。
弟子の記録。
東恩納寛量とつながる証拠。
教えていた拳の内容。
沖縄側の伝承との具体的な照合。

この記事では、そのあたりがまだ調査中である。

だから自分には、この記事は劉祥京説を強める記事には見えない。

むしろ、劉祥京説がまだ十分に固まっていないことが見えてくる記事に思える。

前回の「劉祥京が有力?」という疑問符は、やはり軽く読んではいけない。

その疑問符は、単なる見出しの飾りではない。

劉祥京という名前は出てきた。
しかし、本当に有力と言えるのか。
根拠はどこまであるのか。
まだ調査中ではないのか。

今回の記事は、その問いをさらに強くしている。

この記事を読む限り、劉祥京説は、まだ有力に見えない。

むしろ、福州市武術協会側が劉祥京という候補を出しながらも、剛泊会側の具体的な質問に対しては、まだ十分に答えられていない段階だったことが分かる。

ここに、ルールーコー調査の難しさがある。

名前だけでは足りない。
発音だけでも足りない。
職業や時代が合うだけでも足りない。
鶴拳をやっていたというだけでも足りない。

東恩納寛量の師をたどるには、もっと具体的な接点が必要になる。

この記事は、その接点がまだ見えていないことを示している。

劉祥京説は、候補として提示された。

しかし、その根拠はまだ弱い。

だからこの記事は、劉祥京説の前進というより、劉祥京説の限界が見えてくる記事として読む方が、自分にはしっくり来る。

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