剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。
今回読んだのは、1988年3月18日付の沖縄タイムスに掲載された、
「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー(10)」
という記事である。
前回の記事では、劉祥京説についての違和感を書いた。
劉祥京という人物は出てきた。
しかし、剛泊会側の具体的な質問に対して、中国側の答えはまだ十分に固まっていなかった。
家は確認できているのか。
家譜はあるのか。
どこで武術を教えていたのか。
東恩納寛量との直接的な接点はあるのか。
どの鶴拳だったのか。
そのあたりになると、まだ調査中という答えが多かった。
だから自分には、劉祥京説が強くなったというより、むしろ根拠の弱さが見えてくる記事に思えた。
今回の記事を読んでも、その印象は大きくは変わらない。
むしろ、劉祥京説がどの程度の位置にあったのかが、少し見えてくる。
この記事では、劉祥京の住居と思われる場所について、福州市武術協会側が調査している様子が書かれている。
候補地は三、四か所ある。
しかし、考証は難しい。
そこで現地の年寄りたちを集め、座談会を開き、記憶をたどっている。
剛泊会側も、福州市武術協会の陳麗娜主任に案内されながら、文儒坊附近、琉球館附近、西湖公園の南側などを調査している。
その中で、中国側は双拠橋附近を重視しているように見える。
ただし、ここでも確定はしていない。
中国側は、あえて断定しない姿勢を取っている。
当時は水路が重要だったこと。
手工業者が川辺に集まっていたこと。
二階建ての家と空き地という条件が合うこと。
日本側から提供された情報と似た点があること。
そうした条件は重なる。
しかし、それでも確定ではない。
ここが大事だと思う。
劉祥京説は、具体的な物語になっていく。
劉祥京は竹細工に関係する手工業者だった。
昼は工場で働き、夜は住居近くの空き地で武術を教えていた。
外国人の弟子がいた。
その外国人が、東恩納寛量だったのではないか。
そういう話としては、かなり形を持ち始める。
しかし、歴史調査として見ると、まだ決定的ではない。
住居候補地はある。
だが確定ではない。
条件は合いそうである。
だが直接証拠ではない。
外国人弟子の話はある。
だが、それが東恩納寛量だったかはまだ確認できていない。
つまり、劉祥京説は、物語としては濃くなっているが、証拠としてはまだ弱い。
では、なぜ渡嘉敷唯賢会長は、この段階で劉祥京説を受け止めたのか。
ここは、少し丁寧に読まなければならないと思う。
渡嘉敷会長が、劉祥京説には十分な確証がある、と考えていたと読むのは強すぎる。
むしろ、この時点での姿勢は、そうではなかったのではないか。
他に、これ以上具体的な候補がまだ出ていない。
劉祥京説を決定的に否定する材料も、まだ出ていない。
福州市武術協会は、誠意を持って調査してくれている。
だから、現時点ではこの中間報告を受け止め、今後の調査結果を待つ。
そういう姿勢だったように思う。
これは、「劉祥京で決まり」と言う態度ではない。
かといって、「根拠が弱いから捨てる」と切る態度でもない。
現地の協力機関が、時間をかけて調査してくれている。
その過程で出てきた候補である。
だから、現段階では候補として受け止める。
ただし、確定とはしない。
この距離感が、この記事を読むうえで大事だと思う。
前回の記事では、劉祥京説の根拠の弱さが見えた。
今回の記事では、その弱さを抱えたまま、剛泊会が福州市武術協会側の対応を信頼していることが見える。
この二つは、矛盾しない。
根拠がまだ弱いこと。
しかし、現地調査の誠意を信頼して、継続調査を待つこと。
この二つは、両立する。
むしろ、調査というものは、そういう段階を通るのだと思う。
最初から決定的な証拠が出るとは限らない。
名前の音が似ている。
時代が合いそうである。
職業が合いそうである。
武術を教えていた。
外国人弟子がいたらしい。
住居の環境も、沖縄側に伝わる情報と一部重なる。
そうした手がかりが集まる。
しかし、まだ足りない。
だから、家を探す。
家譜を探す。
住居跡を探す。
道場跡を探す。
墓を探す。
子孫を探す。
そうして、候補を確かめていく。
この記事は、その途中にある。
だから、自分には、この記事は劉祥京説の確定記事には見えない。
むしろ、劉祥京説を暫定候補として受け止め、福州市武術協会の継続調査を待っている記事に見える。
もう一つ、この記事で重要だと思う点がある。
それは、福州市武術協会という組織の存在である。
渡嘉敷会長は、中国側の武術協会のあり方に強い印象を受けている。
福州市武術協会は、公的な組織として、地域の武術家たちを把握している。
必要があれば、先生方を集めることができる。
武術交流の場を設けることができる。
調査依頼を受けて、関係者を動かし、聞き取りや現地確認を進めることができる。
これは、個人の記憶だけに頼る調査とは違う。
もちろん、それでも限界はある。
古い話であれば、場所も人名も記憶も曖昧になる。
だから、福州市武術協会が関わっても、劉祥京説がすぐ確定するわけではない。
しかし、調査を継続するための器がある。
人をつなぐ組織がある。
資料や記憶を集める場がある。
渡嘉敷会長は、そこに強く感じるものがあったのではないかと思う。
沖縄空手にも、そういう場が必要なのではないか。
武道館。
資料室。
調査研究の拠点。
武術家同士をつなぐ組織。
歴史を保存し、検証し、後輩に伝える仕組み。
この記事の後半には、そういう問題意識も見えている。
つまり、この記事は劉祥京説だけの記事ではない。
劉祥京説は、まだ確定していない。
住居も、家譜も、東恩納寛量との接点も、まだ詰め切れていない。
それでも、福州市武術協会は誠意を持って調査している。
渡嘉敷会長は、その対応を信頼し、調査結果を待とうとしている。
そして同時に、沖縄空手の歴史を後世に残すためには、個人の熱意だけでは足りないとも感じている。
記憶は失われる。
資料は散らばる。
人は亡くなる。
だから、調査には器がいる。
劉祥京説は、まだ答えではない。
しかし、この調査を通して、剛泊会は別のことも見ていたのだと思う。
空手の歴史をたどるには、個人の情熱だけでは足りない。
記憶を集め、資料を残し、人をつなぎ、調査を続ける場が必要になる。
この記事は、劉祥京説を待つ記事であると同時に、沖縄空手の歴史をどう残すかという問いへつながる記事でもある。

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