第32回 劉祥京説を、信じたというより待った

剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。

今回読んだのは、1988年3月18日付の沖縄タイムスに掲載された、

「那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー(10)」

という記事である。

前回の記事では、劉祥京説についての違和感を書いた。

劉祥京という人物は出てきた。

しかし、剛泊会側の具体的な質問に対して、中国側の答えはまだ十分に固まっていなかった。

家は確認できているのか。
家譜はあるのか。
どこで武術を教えていたのか。
東恩納寛量との直接的な接点はあるのか。
どの鶴拳だったのか。

そのあたりになると、まだ調査中という答えが多かった。

だから自分には、劉祥京説が強くなったというより、むしろ根拠の弱さが見えてくる記事に思えた。

今回の記事を読んでも、その印象は大きくは変わらない。

むしろ、劉祥京説がどの程度の位置にあったのかが、少し見えてくる。

この記事では、劉祥京の住居と思われる場所について、福州市武術協会側が調査している様子が書かれている。

候補地は三、四か所ある。

しかし、考証は難しい。

そこで現地の年寄りたちを集め、座談会を開き、記憶をたどっている。

剛泊会側も、福州市武術協会の陳麗娜主任に案内されながら、文儒坊附近、琉球館附近、西湖公園の南側などを調査している。

その中で、中国側は双拠橋附近を重視しているように見える。

ただし、ここでも確定はしていない。

中国側は、あえて断定しない姿勢を取っている。

当時は水路が重要だったこと。
手工業者が川辺に集まっていたこと。
二階建ての家と空き地という条件が合うこと。
日本側から提供された情報と似た点があること。

そうした条件は重なる。

しかし、それでも確定ではない。

ここが大事だと思う。

劉祥京説は、具体的な物語になっていく。

劉祥京は竹細工に関係する手工業者だった。
昼は工場で働き、夜は住居近くの空き地で武術を教えていた。
外国人の弟子がいた。
その外国人が、東恩納寛量だったのではないか。

そういう話としては、かなり形を持ち始める。

しかし、歴史調査として見ると、まだ決定的ではない。

住居候補地はある。
だが確定ではない。

条件は合いそうである。
だが直接証拠ではない。

外国人弟子の話はある。
だが、それが東恩納寛量だったかはまだ確認できていない。

つまり、劉祥京説は、物語としては濃くなっているが、証拠としてはまだ弱い。

では、なぜ渡嘉敷唯賢会長は、この段階で劉祥京説を受け止めたのか。

ここは、少し丁寧に読まなければならないと思う。

渡嘉敷会長が、劉祥京説には十分な確証がある、と考えていたと読むのは強すぎる。

むしろ、この時点での姿勢は、そうではなかったのではないか。

他に、これ以上具体的な候補がまだ出ていない。

劉祥京説を決定的に否定する材料も、まだ出ていない。

福州市武術協会は、誠意を持って調査してくれている。

だから、現時点ではこの中間報告を受け止め、今後の調査結果を待つ。

そういう姿勢だったように思う。

これは、「劉祥京で決まり」と言う態度ではない。

かといって、「根拠が弱いから捨てる」と切る態度でもない。

現地の協力機関が、時間をかけて調査してくれている。

その過程で出てきた候補である。

だから、現段階では候補として受け止める。

ただし、確定とはしない。

この距離感が、この記事を読むうえで大事だと思う。

前回の記事では、劉祥京説の根拠の弱さが見えた。

今回の記事では、その弱さを抱えたまま、剛泊会が福州市武術協会側の対応を信頼していることが見える。

この二つは、矛盾しない。

根拠がまだ弱いこと。
しかし、現地調査の誠意を信頼して、継続調査を待つこと。

この二つは、両立する。

むしろ、調査というものは、そういう段階を通るのだと思う。

最初から決定的な証拠が出るとは限らない。

名前の音が似ている。
時代が合いそうである。
職業が合いそうである。
武術を教えていた。
外国人弟子がいたらしい。
住居の環境も、沖縄側に伝わる情報と一部重なる。

そうした手がかりが集まる。

しかし、まだ足りない。

だから、家を探す。
家譜を探す。
住居跡を探す。
道場跡を探す。
墓を探す。
子孫を探す。

そうして、候補を確かめていく。

この記事は、その途中にある。

だから、自分には、この記事は劉祥京説の確定記事には見えない。

むしろ、劉祥京説を暫定候補として受け止め、福州市武術協会の継続調査を待っている記事に見える。

もう一つ、この記事で重要だと思う点がある。

それは、福州市武術協会という組織の存在である。

渡嘉敷会長は、中国側の武術協会のあり方に強い印象を受けている。

福州市武術協会は、公的な組織として、地域の武術家たちを把握している。

必要があれば、先生方を集めることができる。

武術交流の場を設けることができる。

調査依頼を受けて、関係者を動かし、聞き取りや現地確認を進めることができる。

これは、個人の記憶だけに頼る調査とは違う。

もちろん、それでも限界はある。

古い話であれば、場所も人名も記憶も曖昧になる。

だから、福州市武術協会が関わっても、劉祥京説がすぐ確定するわけではない。

しかし、調査を継続するための器がある。

人をつなぐ組織がある。

資料や記憶を集める場がある。

渡嘉敷会長は、そこに強く感じるものがあったのではないかと思う。

沖縄空手にも、そういう場が必要なのではないか。

武道館。
資料室。
調査研究の拠点。
武術家同士をつなぐ組織。
歴史を保存し、検証し、後輩に伝える仕組み。

この記事の後半には、そういう問題意識も見えている。

つまり、この記事は劉祥京説だけの記事ではない。

劉祥京説は、まだ確定していない。

住居も、家譜も、東恩納寛量との接点も、まだ詰め切れていない。

それでも、福州市武術協会は誠意を持って調査している。

渡嘉敷会長は、その対応を信頼し、調査結果を待とうとしている。

そして同時に、沖縄空手の歴史を後世に残すためには、個人の熱意だけでは足りないとも感じている。

記憶は失われる。

資料は散らばる。

人は亡くなる。

だから、調査には器がいる。

劉祥京説は、まだ答えではない。

しかし、この調査を通して、剛泊会は別のことも見ていたのだと思う。

空手の歴史をたどるには、個人の情熱だけでは足りない。

記憶を集め、資料を残し、人をつなぎ、調査を続ける場が必要になる。

この記事は、劉祥京説を待つ記事であると同時に、沖縄空手の歴史をどう残すかという問いへつながる記事でもある。

コメント

タイトルとURLをコピーしました