剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。
今回読んだのは、1988年12月21日と12月28日の沖縄タイムス夕刊に掲載された、
「続・那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー(上)」
「続・那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー(下)」
である。
ここで、ルールーコー調査の流れは大きく変わる。
3月の記事では、ルールーコーの候補として劉祥京という人物が出ていた。
しかし、自分には、劉祥京説はまだ強く見えなかった。
名前の音が近い。
時代が合いそうである。
手工業に関係している。
武術を教えていた。
鶴拳をやっていたらしい。
そうした手がかりはあった。
しかし、家は確認できているのか。
家譜はあるのか。
どこで武術を教えていたのか。
具体的な拳種は何なのか。
東恩納寛量との直接的な接点はあるのか。
そうした肝心な部分になると、まだ調査中という答えが多かった。
特に大きかったのは、劉祥京が鶴拳をやっていたとは言えても、具体的にどの鶴拳だったのかは断定できない、という点だった。
つまり、劉祥京説は候補ではあった。
しかし、ルールーコーとして具体的に立ち上がってくるには、まだ弱かった。
ところが、12月の「続・那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー」では、まったく違う展開になる。
ここで登場するのが、謝如如、つまり謝崇祥である。
この記事で大事なのは、単に新しい名前が出てきたことではない。
福州地区のあらゆる拳種について、清の光緒年間に比較的有名だった拳師が広範囲に調査されている。
各拳種、各流派の多くの老拳師の意見も求められている。
その結果、鳴鶴拳の一代宗師である謝如如こそが、東恩納寛量の師であるとの認識に至っている。
ここが、非常に大きい。
これは、たまたま名前の似た人物を見つけたという話ではない。
福州地区の拳師を広く調べた。
清光緒年間の有名拳師を洗った。
各流派の老拳師の意見も聞いた。
武術の源流からたどった。
その上で、唯一いろいろな点で合致する人物として、謝如如が立ち上がってきたのである。
さらに重要なのは、名前の読み戻しである。
それまでの調査では、「ルールーコー」という音を、劉姓に寄せて考えていた。
劉龍公。
劉良欣。
劉良興。
劉祥京。
そうした方向である。
しかし、ここでは発想が変わる。
ルールーコーは、劉姓の誰かではなく、「如如哥」ではないか。
「哥」は、福州で若い男性に対して使う尊称である。
東恩納寛量が福州にいたとされる1877年から1880年ごろ、謝如如は25歳から28歳ほどだった。
若い謝如如が「如如哥」と呼ばれていたとしても、福州の習慣として自然である。
つまり、
ルールーコー。
如如哥。
謝如如。
謝崇祥。
この音と呼称のつながりが、福州の言葉の習慣の中で見えてくる。
ここで、ルールーコーという音が、初めて具体的な人物名へ戻っていく。
しかも、謝如如はただの武術家ではない。
鳴鶴拳の一代宗師である。
これは、3月の記事からの流れを考えると非常に大きい。
すでに3月の武術交流の中で、孫崇雄先生から、東恩納寛量は閩鶴拳、つまり鳴鶴拳を習っていたという話が出ていた。
また、剛柔流の壱百零八手を演武した時、福州市武術協会側から、その型は鶴拳の一種であるという見解も示されていた。
つまり、調査の方向はすでに、
東恩納寛量。
鶴拳。
鳴鶴拳。
へ向かっていた。
その流れの先に、鳴鶴拳の一代宗師であり、若いころ「如如哥」と呼ばれていた謝如如が出てくる。
これは、かなり具体的な一致である。
謝如如説の強さは、音だけではない。
拳種も合っている。
東恩納寛量と鳴鶴拳の関係が示される。
剛柔流の型が鶴拳と見られる。
そして、その鳴鶴拳を創り上げた人物として謝如如がいる。
この流れは、劉祥京説とはまったく密度が違う。
さらに、謝如如の人物像も具体的である。
謝如如は謝崇祥といい、福建省長楽県の出身である。
父は謝尊志。
父は竹細工職であり、羅漢拳にも長じていた。
謝如如は幼いころから父に羅漢拳を学び、後に福州へ移る。
福州では、父の仕事を手伝いながら、靴づくりも学ぶ。
さらに、父の拳友である潘嶼八について、羅漢拳と白鶴拳を学ぶ。
そして、羅漢拳と鶴拳をもとに、自分の身体に合うように工夫し、三戦を重視する拳法を作っていく。
それが鳴鶴拳である。
ここでも、ただ「鶴拳をやっていた」という話ではない。
謝如如は、鳴鶴拳を創り上げた人物として出てくる。
そして、その鳴鶴拳は三戦を重視する。
この点も、那覇手、剛柔流を考える上で非常に大きい。
記事では、如如の拳論に、
「本法は三戦を以って祖と為し」
という考えが出てくる。
那覇手剛柔流もまた、三戦を基本とする。
さらに、明理歌には「剛柔相済」の言い方があり、鳴鶴拳も剛柔を根本としている。
つまり、ここでは名前だけではなく、拳論の面でもつながってくる。
三戦。
剛柔。
鳴鶴拳。
那覇手。
剛柔流。
これらが、ただ雰囲気として似ているのではなく、言葉としても重なってくる。
さらに、10月12日に福州市内のホテル温泉大廈で行われた鳴鶴拳古老拳術家との懇談会では、剛柔流空手の型について説明した時、複数の古老拳術家が鳴鶴拳であると言っている。
ここも重要である。
渡嘉敷唯賢会長が一人でそう感じたのではない。
福州市内のホテル温泉大廈で行われた鳴鶴拳古老拳術家との懇談会の席上、剛柔流空手の型について説明した時、 蕭孔瑞、 余宝炎、 季応堅、 謝品寛、余知行、謝成鵲、潘詮鳴氏の各氏は、鳴鶴拳であると言われた。
この照合は重い。
謝如如説は、音だけで立っているのではない。
福州の呼称習慣。
時期。
年齢。
鳴鶴拳。
剛柔流の型。
三戦。
剛柔。
拳論。
これらが重なっている。
さらに、生活環境も重なる。
如如は日中、靴づくりの仕事をし、夜に拳術を教えていた。
渡嘉敷会長は、寛量は昼に如如の父である謝尊志から竹細工の仕事を習い、夜に如如から拳術を学んだものと見ている。
ここには、東恩納寛量が福州で仕事をしながら唐手を学んだという話と、謝家側の生活環境が重なってくる。
昼は仕事。
夜は拳術。
しかも、父は竹細工職である。
さらに、謝如如の住居環境も具体的に出てくる。
如如は水辺に住んでいた。
近くには閩江に通じる水路があり、星安橋がかかっていた。
住家はその橋のそばにあり、二階建ての木造で、一階は竹細工の店、家族は二階に住んでいたという。
これは、沖縄に言い伝えられている場所と合致している、とされている。
ここも、劉祥京説とは大きく違う。
劉祥京説では、家も場所も家譜もまだ調査中だった。
しかし謝如如説では、住居、水路、橋、建物、一階の竹細工店、家族の住まい方まで具体化している。
さらに、謝品寛氏の証言もある。
謝品寛氏は、祖父である如如から、琉球人の弟子もいたと聞いていたという。
ただし、寛量の名を知る者はいなかった。
ここだけを切り出せば、弱く見えるかもしれない。
しかし、この記事の論理は、そこだけで判断しているわけではない。
三年という短い期間であったため、名が残らなかったのではないか。
当時の如如は名声が高く、義州と水部一帯から多くの弟子が入門していた。
寛量が最初に住んだのは、おそらく水部の琉球館ではなかったか。
その環境から見ても、寛量が如如から拳を学ぶ条件はよい。
そういう形で、地理、時期、名声、琉球人弟子の伝承が結びつけられている。
だから、「琉球人の名前が分からないから弱い」とだけ読むのは違うと思う。
名前が分からないことは、もちろん限界である。
しかし、この記事では、それを補うだけの照合項目が積み上げられている。
音。
呼称習慣。
年齢。
時期。
鳴鶴拳。
剛柔流の型。
三戦。
剛柔相済。
生活環境。
竹細工。
水路。
住居。
琉球人弟子の伝承。
福州地区の拳師全体からの絞り込み。
これらが謝如如へ集中している。
その上で、渡嘉敷唯賢会長は、
東恩納寛量の師傳ルールーコーは、鳴鶴拳の一代宗師謝崇祥に違いない
と考えている。
この言い切りは、軽い断定ではないと思う。
新聞の紙面で書ける量には限りがある。
実際には、そこに至るまでに、剛泊会は何度も中国へ渡り、福州側の関係者と会い、現地を歩き、家譜、写真、位牌、墓、遺品、住居跡、武道館なども確認している。
その調査の積み重ねの中で、渡嘉敷会長は、ルールーコーの顕彰碑を一日も早く建立しなければならないと感じている。
これは、単に可能性が見えた、という程度の感触ではないだろう。
もちろん、歴史調査として、すべての資料が完全に残っているわけではない。
東恩納寛量の名が謝家側に明確に残っているわけでもない。
だが、それでも、これほど多くの照合項目が謝如如に集中してくる。
ここまで来ると、謝如如は単なる候補ではない。
ルールーコーに合致する人物として、具体的に立ち上がってくる。
この上下の記事の主題は、そこだと思う。
劉祥京説では、ルールーコー像はまだぼんやりしていた。
名前は近そうだった。
時代も合いそうだった。
手工業も合いそうだった。
武術も教えていたらしい。
しかし、拳種も人物像も場所も、まだ弱かった。
それに対して、謝崇祥説では違う。
如如哥という呼称。
謝如如という実在の人物。
鳴鶴拳の一代宗師。
三戦を重視する拳法。
剛柔流の型との照合。
琉球人弟子の伝承。
竹細工と生活環境。
住居と水路。
拳論と剛柔相済。
福州地区の拳師を広く調べた結果としての絞り込み。
これだけの条件が重なっている。
だから、この記事は「新しい候補が出た」という記事ではない。
ルールーコーに合致する人物として、謝崇祥が具体的に立ち上がった記事である。
そして、渡嘉敷唯賢会長がここで強く踏み込んだ理由も、そこにある。
劉祥京説では届かなかった具体性が、謝崇祥説では一気に現れている。
ルールーコーという音が、如如哥という呼称へ戻る。
如如哥が、鳴鶴拳の一代宗師謝如如へつながる。
鳴鶴拳が、三戦を通じて那覇手剛柔流へ響いてくる。
そして、福州の地理、生活、弟子の伝承まで重なってくる。
この上下の記事を読むと、ルールーコーはただの伝説上の師ではなくなる。
謝崇祥という人物として、輪郭を持って立ち上がってくる。
その瞬間を記録しているのが、この「続・那覇手の祖 東恩納寛量とルールーコー」なのだと思う。

コメント