剛泊会の中国武術調査資料を読んでいる。
今回読んだのは、1989年5月4日から5月11日にかけて琉球新報に掲載された、
「空手物語 二人の武人 東恩納寛量翁とルールーコー」
の全5回である。
これまで読んできた沖縄タイムスの記事では、調査の経過がかなり前面に出ていた。
東恩納寛量をたどる。
福州へ渡る。
ルールーコーを探す。
劉祥京説が出る。
しかし、劉祥京説の根拠はまだ弱い。
その後、謝如如、つまり謝崇祥説へ大きく動く。
そういう調査の進み方が見える記事群だった。
一方で、今回の琉球新報の記事は少し性格が違う。
これは、沖縄タイムスの記事の単なる焼き直しではないと思う。
沖縄タイムスで出てきた調査結果を踏まえたうえで、東恩納寛量とルールーコーを「二人の武人」として、改めて読者に示し直している。
しかも、ただ短くまとめ直しているわけではない。
東恩納寛量の身体、時代、福州行き、帰国後の那覇手への影響。
そして、ルールーコー=謝如如の生い立ち、修業歴、如如哥という呼称、鳴鶴拳、足技、三戦、教えの厳しさ。
そうした新しい情報や、既出内容をより詳しく整理した情報を加えながら、調査結果を空手史の中に置き直している。
つまり琉球新報版は、調査経過の要約ではなく、再編集版であり、補強版でもあると思う。
ここは、前に沖縄タイムスの記事を読んだ時にも触れたので、詳しくは繰り返さない。
東恩納寛量は、那覇西村に生まれた。
山原船を持つ家に育った。
琉球処分前後の時代を生きた。
小柄ながら、足腰が強く、柔軟性に富んだ身体を持っていた。
久米のマヤーアラカチ、新垣世璋に師事した。
その後、福州へ渡る。
ここで琉球新報の記事では、「脱清人」という言葉が出てくる。
寛量の福州行きは、単なる武術留学ではない。
琉球が日本と中国の間で揺れ、福州への道も簡単ではなくなっていた時代に、寛量は密かに福州へ渡った人物として描かれている。
福州では、昼は手工業、竹細工をし、夜はルールーコーから拳術を学んだとされる。
さらに、ルールーコーは足技に優れ、「脚真快ルールー」と呼ばれていたという話が出てくる。
寛量もその足技を習得し、後に「足の東恩納」と呼ばれるようになった。
ここは、琉球新報版で改めて強く出ている点だと思う。
ルールーコーの足技。
東恩納寛量の足技。
「足の東恩納」という名。
この三つがつながって描かれている。
帰国後、寛量はすぐに武術家として表に出たわけではない。
家業に戻り、福州での修業についてもあまり語らなかった。
しかし、福州を往来する人々の間から「唐手東恩納」の名が広がり、指導を求める若者が集まってくる。
そこから、義村朝義、許田重発、宮城長順へと伝わり、那覇手の黄金時代へつながっていく。
ここまでが、東恩納寛量という一人目の武人である。
第3回3からは、もう一人の武人、ルールーコー=謝如如が正面に出てくる。
ここが、琉球新報版で特に重要だと思う。
謝如如は、ただ「ルールーコーの候補」として出てくるのではない。
生い立ちから描かれる。
謝如如は1852年、福建省長楽県に生まれた。
父の謝尊志は竹細工職であり、羅漢拳に長じていた。
謝如如は8歳から父に羅漢拳を学んだ。
その後、火災をきっかけに一家は福州へ移る。
福州では父の竹細工を手伝いながら、靴づくりも学ぶ。
夜には、父の拳友である潘嶼八について拳を修業する。
潘嶼八は、羅漢拳と白鶴拳の名手だった。
つまり、謝如如の武術は、父から学んだ羅漢拳と、潘嶼八から学んだ羅漢拳・白鶴拳を土台にしている。
ここで、ルールーコーは急に伝説上の師ではなくなる。
父がいる。
職業がある。
少年期がある。
師がいる。
修業の過程がある。
福州での生活がある。
謝如如という生身の武人として、かなり具体的に立ち上がってくる。
第4回では、その謝如如の実力と名声が描かれる。
謝如如は背は低いが壮健で、右腕が左腕より長かったとされる。
水巷に住む医師の王士庵が、謝如如の武術が傑出していることを知って拳を学びに来る。
さらに、将軍衙門で武術教練を務めていた蕭和尚も、謝如如と試合した後、配下を連れて弟子入りしたとされる。
ここは大きい。
謝如如は、ただ近所の若者に拳を教えていた人物ではない。
医師が学びに来る。
武術教練が試合後に弟子入りする。
しかも配下を連れて来る。
つまり、福州の武術界の中で、謝如如の実力は相当に認められていた人物として描かれている。
その名声は高まり、水部一帯から弟子志願者が押し寄せる。
謝如如は若かったため、弟子たちは彼を「如如哥」と呼んで尊敬した。
ここで「如如哥」という呼称が、単なる音合わせではなくなる。
若いが、実力と名声を持った師。
その師を弟子たちが尊敬して「如如哥」と呼ぶ。
その呼称が、沖縄側に伝わった「ルールーコー」と重なる。
これは、ルールーコー比定の重要な部分だと思う。
さらに、謝如如は足技でも有名だった。
「脚真快如如」
「脚真毒如如」
と称されたという。
ここも、東恩納寛量との接続として見逃せない。
第2回では、ルールーコーの足技と「足の東恩納」がつながっていた。
第4回4では、謝如如自身が足技に優れた武人として描かれている。
つまり、
ルールーコーは足技に優れていた。
東恩納寛量は「足の東恩納」と呼ばれた。
謝如如も足技で名高かった。
この流れが見えてくる。
第5回では、技術面がさらに強く出る。
ここは、かなり丁寧に読んだ方がいいと思う。
鳴鶴拳の特徴として、形をもって拳となし、意をもって神となし、気で力を促す、と説明されている。
拳勢は激烈で、上肢の動作が比較的多い。
ただし、それは単に手を激しく動かす拳という意味ではない。
身法としては、肩を沈め、肘を垂らし、胸を抱き、背筋を伸ばすことが求められる。
歩法では、安定して立ち、地に根が生えるように立つことが求められる。
力を発する時には、勁は踵から起こり、気は丹田に沈め、腰、脚、腕を一つにして順に送る。
さらに、蓄勁を重視する。
ここで描かれているのは、かなり具体的な身体操作である。
頭をまっすぐに上げる。
首筋をしっかりさせる。
胸を抱くようにする。
背筋を伸ばす。
肩を沈める。
肘を下ろす。
注意力を集中する。
眼光を鋭く活発にする。
動作は矯健かつ敏捷でありながら、沈着冷静である。
両足は根が生えるように地に立つ。
この説明を読むと、鳴鶴拳は単に鶴の形を模した拳法ではないことが分かる。
身体全体の統一。
呼吸。
意識。
足場。
力の出し方。
沈着さと敏捷さ。
それらを一体として鍛える拳法として説明されている。
そして、その基礎に三戦が置かれている。
鳴鶴拳は、ほかの鶴拳と同じように三戦を基本としており、学ぶ時にはまず三戦をよく身につけなければならないとされる。
しかも、三戦は一年三百六十五日、休みなく鍛え、完全に身につけ、習熟し、巧妙の域に達するようにすべきものとされている。
三戦を身につけてはじめて、動きに協調性が生まれる。
手、眼、身、法、歩、気力、功が緊密に関係し合うようになる。
ここは、那覇手・剛柔流との接点を考える上で非常に大きい。
那覇手・剛柔流でも、三戦は単なる一つの型ではない。
身体を作る。
呼吸を整える。
力の通り道を作る。
立ち方を作る。
動きの基礎を作る。
そういうものとして重視されている。
だから、第5回で鳴鶴拳の三戦がここまで詳しく説明されていることは重要である。
謝如如が鳴鶴拳の一代宗師であり、その鳴鶴拳が三戦を基本とする。
そして、東恩納寛量から伝わる那覇手・剛柔流も三戦を基本とする。
この重なりは、単なる雰囲気の類似ではない。
身体の作り方、立ち方、力の出し方、意識の置き方、訓練の順序まで含めた接点として読むべきだと思う。
さらに、剛柔流の型について説明した時、福州側の鳴鶴拳古老拳術家たちは、それを鳴鶴拳であると言った。
これは、渡嘉敷唯賢会長一人の印象ではない。
鳴鶴拳側の古老拳術家たちが、剛柔流の型を鳴鶴拳として見ている。
ここも、琉球新報版で非常に重要な部分だと思う。
謝如如説は、音だけで立っているのではない。
如如哥という呼称。
謝如如という実在の人物。
鳴鶴拳の一代宗師。
足技の名声。
三戦を基本とする拳法。
剛柔流の型との照合。
琉球人弟子の伝承。
厳しい教えと武徳。
これらが重なっている。
第5回5では、謝如如の教えの厳しさも書かれている。
弟子を取る時には、まず性格を見た。
品徳や武徳を重んじた。
教養のない者には教えなかったとされる。
つまり、謝如如は単に強い武術家として描かれているのではない。
厳しい教えと武徳を持った師として描かれている。
ここで、東恩納寛量の「武は攻めるものではなく、身を護るもの」という教えとも響いてくる。
琉球新報の5回連載を読むと、沖縄タイムスの記事とは役割が違うことが分かる。
沖縄タイムスでは、調査が進んでいく過程が見えた。
劉祥京説が出る。
しかし根拠は弱い。
その後、謝如如=謝崇祥説へ大きく動く。
そこには、調査の揺れも含まれていた。
一方、琉球新報の「空手物語 二人の武人」は、その調査を踏まえて、東恩納寛量と謝如如を二人の武人として描き直している。
しかも、新しい情報や詳細な描写が加わっている。
東恩納寛量については、脱清人としての福州行き、ルールーコーの足技とのつながり、帰国後の那覇手黄金時代への展開が整理される。
謝如如については、8歳からの羅漢拳修業、潘嶼八からの白鶴拳修業、如如哥という呼称、鳴鶴運気、足技の名声、三戦を基本とする鳴鶴拳、教えの厳しさまで描かれる。
つまり、琉球新報版は、単なる要約ではない。
調査結果をもとに、二人の武人を空手史の中に立ち上げ直した記事群である。
東恩納寛量は、福州で学び、沖縄へ持ち帰り、那覇手の黄金時代へつなげた武人として描かれる。
謝如如は、鳴鶴拳を創り、三戦を基本とし、弟子たちから如如哥と呼ばれた武人として描かれる。
この二人が、福州で出会う。
そして、その出会いが、那覇手、剛柔流へつながっていく。
沖縄タイムスの記事が、調査の道筋を見せるものだったとすれば、琉球新報の記事は、その調査から見えてきた二人の武人を、読者に向けて改めて形にしたものだと思う。
だから、この5回連載を読むと、ルールーコーはただの謎の中国人師匠ではなくなる。
謝如如という名前を持ち、父を持ち、師を持ち、弟子を持ち、拳論を持ち、三戦を基本とする鳴鶴拳を教えた武人として見えてくる。
同時に、東恩納寛量もまた、ただの那覇手の始祖ではなくなる。
琉球処分前後の時代を生き、福州へ渡り、仕事をしながら拳を学び、それを沖縄へ持ち帰った武人として見えてくる。
この二人を並べて描いたところに、琉球新報版「空手物語 二人の武人」の意味があるのだと思う。

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