2006年の『JKFan』に、渡久地雅昭氏による「空手の歴史、その信憑性を考察する」という記事が掲載されている。
今回読んだのは、2006年10月号の前編と、2006年11月号の中編である。
前編では、空手源流論全体への疑問から入り、渡嘉敷唯賢説と金城昭夫説の概要や調査経過を整理している。
中編では、より直接に「謝崇祥はルールーコウか?」という問題を扱い、IOGKF側の内部報告や、言語、時系列、現地確認の問題をもとに、謝如如/謝崇祥説へ疑問を出している。
この二つの記事は、単に「謝如如説は違う」と言っているだけの記事ではない。
もちろん、渡嘉敷唯賢会長が進めたルールーコー調査、とくに「ルールーコーは謝如如/謝崇祥である」という説に対して、かなり強い疑問を出している。
しかし、渡久地氏の文章の芯は、もう少し上にあるように見える。
それは、
中国側の調査を、そのまま鵜呑みにしてよいのか。
という問いである。
中国側の武術協会が調べた。
福建省旅游局が関わった。
福建省武術協会が関わった。
現地の老師たちが証言した。
子孫が案内した。
顕彰碑も建った。
だから正しい。
渡久地氏は、この受け取り方を疑っている。
- 1. 渡久地氏の出発点は、空手源流論への不信である
- 2. 渡嘉敷説への疑問は、その問題意識の具体例である
- 3. 謝如如説の肝は、老師たちの証言である
- 4. 「如如哥は不自然」という批判は、軽い発音論ではない
- 5. 現地確認への疑問も、結局は証言への疑問になる
- 6. 渡久地氏の批判は、証言ネットワークへの不信である
- 7. ただし、顕彰碑建立を中国側の都合だけで読んではいけない
- 8. 渡嘉敷会長は「空手の源流は中国」と言っていたのか
- 9. 金城昭夫先生の異論との関係
- 10. ここから先は、自分が感じた疑問である
- 11. 渡久地氏の批判には、有効な注意と強い疑念が混ざっている
- おわりに:中国側調査を疑うなら、どの証言を疑うのかまで言わなければならない
1. 渡久地氏の出発点は、空手源流論への不信である
2006年10月号の前編では、渡久地氏はまず、空手の源流探しそのものに疑問を向けている。
中国で学んだ。
中国人に学んだ。
型名が中国語由来である。
だから中国武術が源流である。
こういう語りが出てきた時、日本側の検証力が落ちるのではないか。
渡久地氏は、そこを問題にしている。
中国の事情を知らない日本側が、「中国由来」と言われると、どうしても権威を感じてしまう。
現地で確認されたと言われると、それ以上疑いにくくなる。
中国側の組織名や肩書きが出てくると、調査が済んだように見えてしまう。
渡久地氏は、そこに警戒している。
つまり、出発点は「謝如如が違う」という一点ではない。
空手史の中で、中国側の情報が権威として使われた時、それをどこまで検証できるのか。
ここが前編の大きな問いになっている。
2. 渡嘉敷説への疑問は、その問題意識の具体例である
そのうえで、渡久地氏は、渡嘉敷唯賢会長のルールーコー調査を取り上げる。
福州市武術協会が最初に劉祥京説を出した。
しかし、1988年5月に渡嘉敷会長が福州を訪ねると、市武協の態度はそっけなかった。
その後、福建省旅游局と福建省武術協会が関わり、林偉功氏と陳君氏が調査を担当する。
そして、1988年10月には、ルールーコウは謝如如だという報告が出る。
1990年には顕彰碑が完成する。
渡久地氏は、この流れを疑っている。
なぜ、市武協ではうまくいかなかった調査が、旅游局と省武協に移ると急に進んだのか。
なぜ、福建省側は調査費用を負担し、顕彰碑建立まで進めたのか。
そこに、沖縄と福建省の結びつきを強める政治的・組織的な意図はなかったのか。
この疑問自体は、分からなくはない。
これは一般論ですが、中国側組織にも事情はある。
対外交流にはメリットもある。
顕彰碑建立には、武術交流や観光、地方史の意味づけも絡む。
しかし、ここで立ち止まる必要がある。
調査先が変わったから急に「作られた」と見るのか。
それとも、調査の入口が変わったから見つかったと見るのか。
この二つはまったく違う。
3. 謝如如説の肝は、老師たちの証言である
剛泊会側の調査で重要なのは、単に「福建省旅游局が関わった」ことではない。
肝は、鳴鶴拳の老師たちの証言である。
福州地区の拳師を広く調査し、各拳種・各流派の老拳師たちの意見を求めた結果、鳴鶴拳の一代宗師・謝如如が東恩納寛量の師であるとの認識に至った。
さらに、調査した鳴鶴拳の老師たちは、謝崇祥という名は知らなくても、如如、つまりルールーという名は知っていた。
ここが非常に大きい。
それまでの調査は、ルールーコーという音に、どの漢字名を当てるかという方向に寄っていた。
劉龍公。
劉良欣。
劉良興。
劉祥京。
こうした名前を探していた。
しかし、謝如如説では、話が変わる。
ルールーコーという音を、別の漢字名に無理に当てはめるのではない。
鳴鶴拳の老師たちの記憶に残っていた「如如」という名からたどっている。
如如は本名。
崇祥は字。
如如哥は呼称。
ここで、音と人物と流派記憶が結びつく。
だから、調査が急に進んだ理由は、単に「省武協や旅游局が関わったから」ではない。
調査の入口が変わったからである。
ルールーコーという音を、名簿上の漢字名に当てはめる調査から、鳴鶴拳の流派内に残る記憶へ入った。
そこで、如如という名が出てきた。
ここを見ないと、渡久地氏の疑問は、かなり違う形になる。
4. 「如如哥は不自然」という批判は、軽い発音論ではない
渡久地氏は、2006年11月号で、「如如哥」という呼称に疑問を出している。
福建語・福州語の感覚として、成人男性に重畳詞で「如如」と呼ぶのは不自然ではないか。
「如如」は北京語的ではないか。
「カーチンカー・ルールー」という呼称も、福建語と北京語が混ざっていて不自然ではないか。
そういう疑問である。
ここだけ見ると、言語上の細かい指摘に見える。
しかし、実際にはもっと重い。
なぜなら、「如如哥」という呼称は、謝如如説の中心にあるからである。
もし「如如哥」という呼称が成立しないと言うなら、それは単に発音が変だという話ではない。
鳴鶴拳の老師たちが語った記憶はどうなるのか。
謝品寛氏ら子孫・関係者の証言はどうなるのか。
林偉功氏や福建省武術協会側の整理はどうなるのか。
日本側の記事が、証言を誤って理解したのか。
それとも、誰かが都合よく組み立てたのか。
結局そこまで行く。
だから、この批判を「言語感覚として鋭い」と軽く扱うことはできない。
これは、謝如如説の中核証言そのものを疑う批判である。
5. 現地確認への疑問も、結局は証言への疑問になる
渡久地氏は、チーシーや住居跡の扱いにも疑問を出している。
2005年の『月刊空手道』記事では、謝崇祥が15歳まで住んでいたとされる長楽県の住居跡付近にチーシーがあり、それがルールーコー、またはその弟子が使ったものではないかと紹介されている。
渡久地氏は、そこが幼少期の自宅であって道場ではないなら、なぜその石をルールーコーや弟子が使ったものと言えるのか、と疑っている。
この疑問には、検証上の意味はある。
現地に物があることと、それが本人の使用物であることは違う。
そこは分けなければならない。
ただし、これも単なる慎重論では終わらない。
その場所へ案内したのは誰か。
その物の意味を説明したのは誰か。
その証言を受け取ったのは誰か。
ここを考えると、やはり謝品寛氏らの証言、現地案内、調査側の整理を疑う話になる。
つまり、ここでも渡久地氏の疑問は、物証の扱いだけでなく、証言の信頼性に向かっている。
6. 渡久地氏の批判は、証言ネットワークへの不信である
ここまで読むと、渡久地氏の主張は、単なる「中国側調査を鵜呑みにするな」では止まらない。
実質的には、謝如如説を支える証言ネットワークそのものを疑っている。
鳴鶴拳の老師たちの証言。
謝品寛氏ら子孫・関係者の証言。
林偉功氏や陳君氏による調査整理。
福建省旅游局や福建省武術協会の関与。
現地確認の意味づけ。
これらが、どこまで信用できるのか。
渡久地氏は、そこを疑っている。
ここをぼかしてはいけない。
渡久地氏は、検証を求めている。
それは確かである。
しかし、その検証要求の多くは、最終的に、
中国側の証言は本当に信用できるのか。
という問いへ行く。
もっと踏み込めば、
中国側が、誤認したのか。
誇張したのか。
誘導したのか。
作為的に組み立てたのか。
このどれかを想定しないと成立しにくい疑問も多い。
7. ただし、顕彰碑建立を中国側の都合だけで読んではいけない
ここで、もう一つ分けておきたい。
渡久地氏は、中国側組織の利害や対外交流上の意図を疑っている。
市武協と省武協の関係。
福建省旅游局の関与。
外国との交流によるメリット。
国家宣伝や地方宣伝への貢献。
こうした観点から、顕彰碑建立へ向かう流れにも疑問を向けている。
しかし、顕彰碑建立そのものは、中国側の調査報告だけで一方的に進んだものではない。
沖縄空手界からも、比嘉佑直先生、渡口政吉先生をはじめ、多くの先生方が関わっていた。
ここは重要である。
顕彰碑建立を、
中国側が調査した。
中国側が謝如如説を出した。
それを日本側が鵜呑みにした。
その結果、顕彰碑が建った。
という流れで読むのは粗い。
実際には、中国側の協力があり、剛泊会側の調査があり、沖縄空手界側の先生方の関与と判断があり、そのうえで建立へ進んでいる。
つまり、顕彰碑建立には、中国側の協力だけでなく、沖縄側の主体性もあった。
ここを消してはいけない。
中国側の政治的・組織的な意図を疑うことはできる。
しかし、それだけで顕彰碑建立全体を説明すると、今度は沖縄空手界側の判断と敬意を消してしまう。
疑うなら、少なくとも次のものを分けて見る必要がある。
中国側の調査協力。
福建省旅游局や福建省武術協会の関与。
剛泊会側の調査と判断。
沖縄空手界の先生方の関与。
顕彰碑建立へ向けた敬意と運動。
これらを一つにまとめて「中国側の都合で進んだ」と読むのは、やはり粗い。
8. 渡嘉敷会長は「空手の源流は中国」と言っていたのか
ここで、自分が一番引っかかる点がある。
渡久地氏の記事は、空手源流論への疑問から入っている。
中国で学んだ。
中国人に学んだ。
型名が中国語由来である。
だから中国武術が空手の源流である。
そういう語りへの不信が、記事全体の出発点になっている。
しかし、渡嘉敷唯賢会長のルールーコー調査は、本当にそういう主張だったのだろうか。
少なくとも、自分にはそうは読めない。
東恩納寛量翁の最初の師は、久米のマヤーアラカチこと新垣世璋である。
寛量翁は、まず新垣世璋に師事し、那覇手を学んだ。
ここが土台である。
そのうえで福州へ渡り、ルールーコーから武術的影響を受けた。
つまり、渡嘉敷会長が調べようとしていたのは、空手全体の源流ではない。
また、那覇手そのものを鳴鶴拳に置き換える話でもない。
東恩納寛量翁が福州で師事したルールーコーとは誰だったのか。
その人物は、謝如如/謝崇祥なのか。
寛量翁は、その人物からどのような武術的影響を受けたのか。
主題はそこにある。
もちろん、資料には鳴鶴拳との接点が出てくる。
福州側の武術家が、剛柔流の型を鶴拳の一種と見たこと。
鳴鶴拳の古老拳術家たちが、剛柔流空手の型を説明された際に鳴鶴拳であると言ったこと。
鳴鶴拳も三戦を重視し、那覇手・剛柔流も三戦を基本とすること。
こうした記述はある。
しかし、それは「剛柔流は鳴鶴拳そのものだ」という話とは違う。
まして、「空手の源流は中国である」という一般論とは、さらに違う。
あえて言えば、渡嘉敷会長が見ていたのは、
那覇手を土台としながら、東恩納寛量翁がルールーコーから影響を受けた空手
である。
だから、鳴鶴拳と現在の剛柔流の型が完全に一致しない、という批判だけでは、渡嘉敷会長の主張の芯には届かない。
現在の剛柔流と鳴鶴拳が同じかどうか。
これは一つの論点である。
しかし、渡嘉敷会長の調査の中心は、
ルールーコーが誰だったのか。
東恩納寛量翁が、その人物から何を学び、何の影響を受けたのか。
そこにある。
この二つを混ぜると、議論がずれる。
金城昭夫先生や渡久地氏の反論には、意図的かどうかは分からないが、この焦点のズレがあるように思う。
「剛柔流は鳴鶴拳そのものではない」
という批判は、たしかに重要である。
しかし、それは、
「東恩納寛量翁が謝如如から武術的影響を受けた」
という主張を、そのまま否定するものではない。
まして、
「寛量翁の空手の土台は那覇手であり、最初の師は新垣世璋であった」
という前提を消してよいことにもならない。
ここを分けないと、渡嘉敷会長の調査を、必要以上に大きな中国源流論として読み替えてしまう。
そして、その読み替えた主張に対して反論しているように見えてしまう。
自分が渡久地氏の記事を読んで感じる一番大きな違和感は、ここにある。
9. 金城昭夫先生の異論との関係
ここで注意したいのは、渡久地氏が出している疑問の多くは、すでに金城昭夫先生が提示していた異論と重なることである。
如如哥という呼称への疑問。
謝如如と東恩納寛量の年齢差。
宮城長順が会えなかった問題。
鳴鶴拳と剛柔流の型の違い。
顕彰碑建立の進め方。
このあたりは、渡久地氏がゼロから新しく出したものではない。
金城先生の異論と重なる。
ただし、渡久地氏の記事を読む限り、金城先生の異論に対する渡嘉敷会長の回答を、一つひとつ受けて再検討しているようには見えない。
渡久地氏は、金城先生の反論や、渡嘉敷会長とのメディア上の論争があったことには触れている。
しかし、その応酬を体系的に整理し、「渡嘉敷回答の後にも残る論点」を精査しているわけではない。
だから、渡久地氏の記事は、金城・渡嘉敷論争を踏まえた最終整理ではない。
むしろ、金城先生らの既存の異論やIOGKF側の報告を参照しながら、中国側調査の信憑性そのものを疑う方向へ論点を広げた文章として読む方が近い。
10. ここから先は、自分が感じた疑問である
ここから先は、渡嘉敷唯賢会長による反論ではない。
渡久地氏の記事を読んだうえで、自分が疑問に感じた点である。
金城昭夫先生の異論に対しては、すでに渡嘉敷会長による回答がある。
しかし、ここで扱っている2006年の『JKFan』記事について、渡嘉敷会長が同じ形で項目ごとに反論した、という話ではない。
したがって、以下は「渡嘉敷会長の反論」ではなく、2005年の『月刊空手道』記事、剛泊会資料、そして渡久地氏の記事を読み比べたうえでの、自分なりの疑問として書く。
11. 渡久地氏の批判には、有効な注意と強い疑念が混ざっている
渡久地氏の文章には、有効な注意もある。
中国側の調査だからといって、自動的に正しいとは限らない。
現地に物があるからといって、本人の使用物とは限らない。
組織の肩書きがあるからといって、その調査が別角度から検証されたとは限らない。
これは重要である。
しかし、渡久地氏の文章は、単なる慎重論だけではない。
かなり強い疑念を含んでいる。
市武協と省武協の確執。
旅游局や省武協の利害。
外国との交流によるメリット。
国家宣伝への貢献。
調査相手に引っ張り回される危険。
このような話が出てくる時、渡久地氏の疑いは、単なる「追加検証が必要」という段階を超えている。
そこでは、謝如如説を支える中国側証言の少なくとも一部に、誤認、誇張、誘導、作為のどれかがあったのではないか、という方向へ論が進んでいる。
ここを分けて読む必要がある。
ただし、顕彰碑建立まで含めて見るなら、中国側だけで話が完結するわけではない。
沖縄空手界側にも建立へ向けた判断と関与があった。
したがって、この疑念をそのまま「顕彰碑建立は中国側の都合で進んだ」と読むと、別の偏りが生まれる。
おわりに:中国側調査を疑うなら、どの証言を疑うのかまで言わなければならない
渡久地雅昭氏の記事は、謝如如説への批判として読むことができる。
しかし、それだけでは足りない。
この記事の本当の重心は、
中国側の調査を鵜呑みにしてよいのか。
という問いにある。
ただし、その問いは、抽象的な慎重論では終わらない。
如如哥という呼称を疑うなら、鳴鶴拳の老師たちの証言を疑うことになる。
調査先が変わって急に謝如如説へ進んだことを疑うなら、省武協や旅游局だけでなく、その場で証言した老師たちの記憶も疑うことになる。
チーシーや住居跡の扱いを疑うなら、謝品寛氏ら子孫・関係者の案内や証言の意味づけを疑うことになる。
つまり、渡久地氏の批判は、謝如如説の周辺を軽くつついているのではない。
謝如如説を支える証言の中核を疑っている。
さらに言えば、その前提として、渡嘉敷会長の調査を「空手の源流は中国である」という大きな話へ読み替えていないか、という疑問も残る。
東恩納寛量翁の空手の土台は、まず那覇手である。
最初の師は、新垣世璋である。
その上で、福州でルールーコーから影響を受けた。
ここを分けないと、鳴鶴拳と現在の剛柔流が似ているかどうかという批判だけが前に出て、ルールーコー調査の本来の焦点がぼやける。
また、顕彰碑建立についても、中国側調査を鵜呑みにして進んだ、と簡単には言えない。
そこには、中国側の協力だけでなく、沖縄空手界の先生方の関与と判断があった。
比嘉佑直先生、渡口政吉先生をはじめ、多くの先生方が関わっていた以上、建立の経緯を中国側の政治的意図だけへ回収するのは粗い。
ここでも、中国側の調査協力、沖縄側の受け止め、建立へ向けた動き、空手界側の敬意と判断を分けて見る必要がある。
だから、この批判を読む時は、
「中国側調査を鵜呑みにするな」という有効な注意なのか。
それとも、
「中国側の証言ネットワーク自体が信用できない」という強い疑念なのか。
さらに、
「渡嘉敷会長の主張を、本来より大きな中国源流論として読み替えていないか」
そして、
「顕彰碑建立に関わった沖縄側の主体性を消していないか」
この四つを分けなければならない。
これは渡嘉敷会長の反論としてではなく、自分がこの記事を読んで感じた疑問である。
渡久地氏の記事には、検証論として読むべき部分があると思う。
しかし、それをそのまま「鋭い批判」として受け取ると、論の前提を見落とす。
この批判が成立するには、中国側の証言のどこかが間違っていた、あるいは都合よく組み立てられていた、と見る必要がある。
その前提を明示しないまま、謝如如説への疑問だけを並べると、読者には「慎重な検証」に見える。
しかし実際には、それはかなり強い不信である。
渡久地氏の記事を読む時に必要なのは、その強さを薄めないことだと思う。

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